第5話:現場丸投げのPDCAサイクルと賢者の逃亡
翌朝、ゼノンが目を覚ました時、太陽はすでに中天高く昇っていた。
鳥のさえずりよりも先に耳に飛び込んできたのは、村の外れから響いてくる木を切り倒す鈍い音と、男たちの威勢の良い掛け声だった。
「ふぁぁ……よく寝た。やれやれ、底辺労働者どもは朝が早くてご苦労なこった」
寝床としてあてがわれた村長の家の藁布団から這い出し、ゼノンは大きく伸びをした。
日本にいた頃は、昼夜逆転生活で午後三時に起きるのが当たり前だった。それに比べればずいぶん健康的な目覚めだ。朝食代わりに用意されていた木の実と水を胃に流し込み、ゼノンは重役出勤の態でゆっくりと「建設現場」である川辺へと向かった。
川辺では、村の男たちが総出で立ち働いていた。
彼らは上半身裸になり、玉の汗を流しながら、森から切り出してきた巨大な丸太をノコギリや斧で解体している。満足な食事もとっていないはずなのに、その目に宿る熱気と希望の光は、前日までの死んだような瞳とはまるで別人のようだった。
「おお! ゼノン様! いらっしゃいましたか!」
現場を指揮していた職人のドノバンが、ゼノンの姿を認めるなり駆け寄ってきた。泥と木屑にまみれた彼からは、強烈な汗の匂いが漂ってくる。ゼノンは思わず顔をしかめ、一歩後ずさった。
「順調そうだな、ドノバン。労働の汗は美しいが、俺にあまり近づくなよ。瞑想の気が乱れる」
「あっ、こりゃ失礼しやした! いやあ、ゼノン様の仰った『水車』のために、村中の男が燃えに燃えてましてね。とりあえず、木材の切り出しは終わったんですが……」
ドノバンは申し訳なさそうに頭を掻き、足元に転がる不揃いな板や丸太を指差した。
「実は、さっそく壁にぶち当たっちまいまして。ゼノン様にお伺いしたいんですが……」
「……なんだ。言ってみろ」
内心の焦りを悟られないよう、ゼノンはわざと低い声で、もったいぶって答えた。
「その、『輪っか』の部分は木を曲げて作るのか、それとも短い板を繋ぎ合わせるのか……。それに、一番の問題は『軸』なんです。巨大な木組みが川の流れを受け止めて回り続けるなら、軸を支える台座には凄まじい重さと摩擦がかかります。ただの木材同士じゃ、すぐに熱を持って焼け焦げるか、すり減って折れちまう。どうやって軸を滑らかに回せばいいんでしょうか?」
「…………は?」
ゼノンの思考が完全に停止した。
摩擦? 軸の強度?
そんなもの、考えたこともなかった。ネットの画像検索で見た水車は、ただのどかな風景の中で勝手にクルクルと回っていただけだ。中心の軸がどういう構造になっているか、どんな部品で摩擦を減らしているかなど、知識として持っているはずがなかった。
(やばい、やばいやばいやばい! 何言ってんだこいつ! 摩擦ってなんだよ、水で濡れてんだから滑るだろ普通! ていうか、丸くするなら気合いで木を曲げろよ!)
ゼノンの額から、嫌な汗が滝のように噴き出した。
ここで「知らない」「考えたこともない」と言えば、昨日築き上げた「全知全能の賢者」というメッキが完全に剥がれ落ちてしまう。
沈黙が長引くにつれ、ドノバンや周囲の男たちが不思議そうな顔でゼノンを見つめ始めた。
「……ゼノン様? いかがなさいましたか?」
「あー……いや、呆れていたんだよ。お前たちの、その『指示待ち人間』っぷりにな」
窮地に立たされたゼノンは、かつてネット掲示板で相手の専門的な質問に答えられなかった時に使っていた、最強の逃げ口上を繰り出した。「論点ずらし」と「相手への責任転嫁」である。
「いいか、ドノバン。お前は最初から完璧な正解を私に求めている。それは三流の思考だ。現代……いや、神々の世界ではな、『アジャイル』という手法が主流なのだ」
「あじゃいる……?」
「そうだ。まずは不格好でもいいから作ってみる(Do)。そして回してみる(Check)。壊れたら、どこが弱かったのかを検証して改良する(Action)。これを『PDCAサイクル』と呼ぶ! 失敗を恐れて最初から私に答えを聞こうとするなど、思考停止の甘えでしかない!」
ビジネスニュースの見出しで読んだだけの横文字を、さも世界の真理かのように大声で叫ぶ。
意味など分かっていない。ただ、自信満々に相手を否定し、専門用語で煙に巻くことで、主導権を握ることだけを目的とした空虚な言葉の羅列だった。
しかし、無知で素朴な村人たちには、その「自信に満ちた態度」と「未知の響きを持つ言葉」が、途方もなく高度な哲学に聞こえてしまった。
「P、D、C……さいくる……」
ドノバンは雷に打たれたような顔になり、やがて深く、深く頭を下げた。
「……おっしゃる通りです、ゼノン様。俺は職人の風上にも置けねえ。自分で考えもせず、すぐに神様の答えにすがりつこうとした。だから俺たちは、いつまで経っても貧しいままだったんだ……!」
「わかればいい。お前たちには『創意工夫』が足りないのだ。摩擦が起きるなら獣の脂でも塗ってみろ。折れるなら太くしろ。それが『現場』の人間の仕事だ」
「はいっ! 肝に銘じます!」
ゼノンは重々しく頷くと、くるりと背を向けた。
「俺は全体のプロデューサーであって、作業員ではない。俺のこの手は泥にまみれるためのものではなく、世界の真理を書き記すためのものだ。細かい実務はお前たちに一任する。……俺は少し離れた場所で、お前たちの『成長』を見守らせてもらうぞ」
言うが早いか、ゼノンは足早にその場から立ち去った。
背後からは、「おおーっ!」「ドノバン親方、まずはとにかく組んでみましょうや!」という男たちの活気に満ちた声が聞こえてくる。
村の中央に戻ったゼノンは、大きく安堵の息を吐き出した。
(ふぅー、危なかった。適当なビジネス用語並べたらビビって引き下がりやがったぜ。バカな連中で助かった。まあ、あいつらもプロの職人なんだし、俺がヒントを与えたんだからあとは勝手になんとかするだろ)
完全に丸投げしたことへの罪悪感など一切ない。むしろ「うまく現場をコントロールした自分」に酔いしれすらしていた。
「あ、ゼノン様! こんなところにいらしたんですね」
そこへ、手作りの果実水を持ったアリアが小走りでやってきた。
「現場の視察はお済みですか? お疲れでしょう、日陰で少し休まれては」
「ああ、アリア。すまないね。現場の連中は熱意はあるんだが、頭が固くて指導に骨が折れるよ。少し君の淹れた冷たいもので喉を潤したいところだ」
ゼノンは涼しい顔で嘘をつき、アリアに案内されるまま木陰の特等席へと腰を下ろした。冷たい果実水を飲みながら、美少女にうちわで風を送らせる。
遠くからは、いまだに木を削り、泥にまみれて悪戦苦闘する男たちの声が聞こえてくる。
(これだよこれ、このポジション。俺は何もしないで指示を出すだけで、勝手に世界が良くなっていく。そして感謝と美少女を独り占めだ。やっぱり俺は、上に立つべくして生まれた人間だったんだな)
無能な怠け者が、ただ口先だけで築き上げた砂上の楼閣。
何一つ根本的な問題が解決していない「水車作り」は、ゼノンの関知しないところで、少しずつ、しかし確実に破滅への道を突き進んでいた。




