第2話:賢者ゼノンの誕生
肺いっぱいに、むせ返るような土と緑の匂いが流れ込んできた。
全身を包んでいたはずの暴力的な熱と、喉を焼き尽くす黒煙はどこにもない。代わりに頬を撫でるのは、ひんやりとした心地よい風だった。
「……はっ!」
冴木誠は弾かれたように上半身を起こした。
パニックになり、慌てて自分の体をペタペタと触る。着ているのは、火事の時と同じヨレヨレのスウェット上下。だが、どこにも火傷の痕はないし、痛みもない。
恐る恐る周囲を見渡すと、そこは巨大な樹木が天に向かってそびえ立つ、鬱蒼とした森の中だった。木漏れ日が落ちる地面には、見たこともない奇妙な形をしたシダ植物のようなものが群生している。
「ここは……どこだ? 俺は確かに、自分の部屋で火事に巻き込まれて……」
呆然と呟いた直後、誠の脳内にひとつの可能性が閃いた。
アニメやネット小説で、親の顔よりも見たお約束の展開。現実に起こるはずがないと分かっていながら、心のどこかで常に渇望していた奇跡。
「ま、まさか……異世界転生……なのか!?」
その言葉を口にした瞬間、誠の心臓は激しく高鳴り始めた。
そうだ、そうに違いない。あの炎に包まれた瞬間、俺の魂はこの世界に飛ばされたのだ。
誠の顔に、醜悪な笑みが張り付く。
「くくっ……あはははは! やっぱりな! 神様ってやつは見る目があるじゃないか! あんな腐りきった日本社会、俺みたいな天才には狭すぎたんだよ!」
自分は選ばれた存在なのだ。そう確信した誠は、三十五年間溜め込み続けた鬱屈が全て晴れていくのを感じた。
「ステータス・オープン!」や「スキル確認!」などと叫んでみたが、特に空中にウィンドウが浮かび上がるようなことはなかった。少し拍子抜けしたが、誠はすぐに思考を切り替えた。
チートスキルがなくても問題はない。俺の頭脳には、ネットの海を回遊して蓄積した『現代の高度な知識』が詰まっているのだ。農業、経済、歴史、軍事……掲示板で連戦連勝を誇った俺の知識があれば、中世レベルの異世界など赤子の手をひねるように支配できる。
意気揚々と歩き出そうとした誠だったが、三十分も森を彷徨うと、すぐにその足は止まった。
「ぜぇ……はぁ……っ、なんだよこの森、広すぎだろ……」
日頃から一歩も外に出ない引きこもり生活を送っていたため、彼の体力は完全に底をついていた。たるんだ腹の肉が揺れ、膝がガクガクと笑っている。
都合よく異世界に転生はしたが、肉体は三十五歳の運動不足のままだったのだ。
「クソッ、喉が渇いた……誰かいないのかよ……」
倒れ込むように木の根元に座り込んだ時、ガサガサと茂みが揺れる音がした。
誠がビクッと肩を揺らして身構えると、そこから現れたのは一人の少女だった。
年齢は十五、六歳ほどだろうか。亜麻色の髪を無造作に束ね、麻袋のような粗末な貫頭衣を着ている。手には木の籠を持っており、どうやら森へ採集に来ていたらしい。
少女は奇妙な服を着た誠を見つけると、驚いたように目を丸くして駆け寄ってきた。
「あなた、大丈夫ですか!? こんな森の奥で倒れているなんて……怪我はないですか?」
透き通るような高い声。彼女が口にした言語は日本語ではなかったが、なぜか誠の脳内では完全に意味を理解することができた。どうやら言語翻訳のサポートはついているらしい。
(きた……! 第一村人、しかも美少女!)
誠は内心の興奮を必死に抑え込み、ゆっくりと顔を上げた。
ここで情けない姿を見せるわけにはいかない。威厳を持った、特別な存在として振る舞うのだ。ネット上のロールプレイなら死ぬほどやってきた。
「……ふ、案ずるな。少し深い瞑想に耽っていただけだ」
「めいそう……?」
「あぁ。宇宙の真理と対話するには、これくらい静かな場所が必要だからな」
額に冷や汗をかき、息を乱しながら言うセリフではなかったが、純朴な村娘である彼女は、誠の尊大な態度と謎めいた言葉にすっかり圧倒されているようだった。
「あ、あの、私はアリアと言います。森の入り口にある村の者ですが……あなたは、旅のお方ですか?」
アリアの問いかけに対し、誠はニヤリと口角を上げた。
冴木誠という、底辺を這いずり回っていた男の名前は今日で捨てる。
彼が名乗るのは、ネットゲームで最強の魔術師としてプレイしていた時の中二病全開のキャラクター名だ。
「俺か? 俺の名はゼノン。……ただの賢者ゼノンだ。よろしく頼むよ、アリア君」
「け、賢者様……!?」
アリアの目が尊敬の念に輝いた。この世界において「賢者」という響きがどれほどの権威を持つのか誠には分からなかったが、彼女の反応を見る限り、大成功のようだ。
「あの、もしよろしければ、私たちの村で休んでいきませんか? こんな森の中では魔物も出ますし……」
「魔物か。フッ、俺に恐れるものなどないが……君の親切に免じて、案内を頼もうか」
立ち上がる際によろけそうになったが、誠はなんとか踏みとどまった。
アリアの案内に従い、森を抜けていく。歩くペースが遅いことを「現世の気配に体を慣らしている」などと適当な言い訳で誤魔化しながら、やがて視界が開けた。
そこにあったのは、今にも崩れそうな茅葺き屋根の家が点在する、ひどく貧相な集落だった。
周囲を囲む柵は腐りかけ、畑の作物は枯れかけている。村を歩く人々は皆一様に痩せこけ、手入れされていないボロボロの服を纏い、暗い顔をしてうつむきがちに歩いていた。舗装されていない土の道には動物の糞が転がり、決して衛生的とは言えない臭いが鼻を突く。
(なんだこの原始時代は。まるでスラム街じゃないか)
内心で鼻で笑いながらも、誠――ゼノンの胸の奥では、どす黒い野望の炎が燃え上がっていた。
(だが、都合がいい。この程度の遅れた文明なら、俺の現代知識で簡単に圧倒できる。奴隷のようにこき使われている哀れな村人たちに、ネットで仕入れた農法でも教えてやれば、こいつら俺を神のように崇めるだろうな。ふはは、チョロい、チョロすぎる!)
未だに自分の力で火を起こすことすらできない、釘一本すら真っ直ぐ打ったことのない三十五歳のニートは、頭の中にあるWikipediaの浅い知識だけを頼りに、異世界でのバラ色のハーレム生活を夢見てほくそ笑んだ。
掲示板のレスバトルで鍛え上げた「論破力」と、聞きかじりの「概念」だけで全てがうまくいくと本気で信じていたのだ。
己の底知れぬ無能さと実務能力の欠如が、間もなくこの世界で致命的な事態を引き起こすことなど、この時の彼には知る由もなかった。




