第1話:深夜の火事と最強のキーボードウォリアー
深夜二時。四畳半の自室は、デュアルディスプレイが放つ青白い光にだけ照らされていた。
冴木誠、三十五歳。職業、なし。
部屋の隅には飲みかけのペットボトルとコンビニ弁当の空き箱が山のように積まれ、ツンとした特有の酸い匂いを放っているが、誠の嗅覚はとうの昔に麻痺している。彼の意識は今、目の前のモニターの中に完全に没入していた。
「だからお前らは低学歴なんだよ。中世ヨーロッパの農法すら理解してないくせに経済を語るな」
カタカタカタッ! ッターン!
リズミカルかつ力強くキーボードを叩き、掲示板の書き込みボタンを押す。数秒後、彼が投下したレスに対して、名も知らぬ相手からの反論が書き込まれた。
『いや、お前が言ってるのってただのWikipediaのコピペじゃん。実社会で働いたこともないニートが偉そうに』
その言葉に、誠の顔がカッと熱くなる。図星を突かれたからではない。こんな低レベルな煽りしかできない愚民に、選ばれた存在である自分が侮辱されたことが許せなかったのだ。
「ふん、論点すり替えか。敗北宣言と受け取っておくよ。社会の歯車として搾取されてるだけの奴隷が、高尚な議論についてこれるわけないんだよな」
誠は大学受験も就職活動も、一切の努力をしてこなかった。いや、彼に言わせれば「馬鹿らしい競争に参加してやる義理がなかった」のだ。日本の社会システムは終わっている。無能な政治家とブラック企業が支配する国で汗水垂らして働くなど、知能の低い愚か者のすることだ。
三十五年間、実家に寄生し、老いた両親の年金と貯金を食いつぶしながら生きているが、誠に罪悪感など微塵もない。むしろ、自分のような「真実を見通す目を持ったインテリ」を養えるのだから、親は感謝すべきだとすら思っている。
新しいタブを開き、次なる論破の材料を探すためネットサーフィンを始めた時だった。
ふと、焦げ臭い匂いが鼻を突いた。
「……なんだ? 下のババア、こんな夜中に何焦がしてんだよ」
誠は舌打ちをした。母親が夜食でも作ろうとして失敗したのだろうと高を括る。部屋を出て文句の一つでも言ってやろうかと思ったが、掲示板のレスバトルが佳境に入っている。今ここで画面から離れるわけにはいかない。相手が逃亡する前に、完膚なきまでに叩きのめさなければならないのだ。
「歴史の知識でマウント取ってくるなら、こっちは最新の科学ニュースで殴ってやるよ。どっちが本当の知識人か教えてやる……」
ブーッ! ブーッ! ブーッ!
唐突に、家中にけたたましい警報音が鳴り響いた。火災報知器だ。
「うるせえな! 誤作動だろ、止めろよ!」
ドアに向かって怒鳴りつけたが、返事はない。代わりに、階下からパチパチという異様な音と、何かが崩れ落ちるような鈍い音が聞こえてきた。同時に、ドアの隙間からどす黒い煙が這うように室内に侵入してくる。
「……え?」
ようやく異常事態に気付いた誠は、慌てて立ち上がった。その拍子に足元にあったゴミ山を蹴り飛ばし、飲み残しのコーラが床にぶちまけられる。
ドアノブに手を掛けると、火傷しそうなほどの熱を持っていた。
「あっちっ!」
反射的に手を引っ込め、服の袖を使って無理やりドアを開ける。
その瞬間、熱風と真っ黒な煙が爆発するように部屋の中へ雪崩れ込んできた。
「ゲホッ、ゴホッ! なんだこれ、火事!? おい、親父! お袋!」
階段の下はすでに赤々と燃え盛る炎に飲み込まれていた。木造モルタル築四十年の実家は、乾燥した冬の気候も手伝って、あっという間に火の海と化していたのだ。
ネットの知識で「火事の時は姿勢を低くして濡れタオルで口を覆う」という文字面だけは知っていた。しかし、パニックに陥った誠の脳は完全にフリーズしていた。タオルを取りに洗面所へ行くルートすら炎で塞がれている。
「嘘だろ、待てよ、俺はまだ……俺はこんなところで死ぬ人間じゃない!」
どうすればいい。窓から飛び降りるか? ここは二階だ、骨折するかもしれない。いや、それ以前に窓の下にはトタン屋根の物置があって、飛び降りるスペースがない。
スマートフォンの存在を思い出し、119番通報しようとポケットを探るが、先ほど立ち上がった際にベッドの上に放り出してしまっていた。
煙が視界を奪い、呼吸をするたびに肺が焼け焦げるような激痛に襲われる。
「助け……誰か……!」
声を出そうにも、喉から漏れるのはかすれた空気の音だけだ。足がもつれ、誠は自分の部屋の入り口で無様に転倒した。
這って逃げようとするが、日頃から運動など一切していない肥満体の体は、鉛のように重い。手足をバタつかせるだけで、一向に前へ進まない。
(なんで俺がこんな目に……俺は賢いんだ……ネットじゃ誰にも負けなかった……本当は、世界を動かせるくらいの才能が……)
薄れゆく意識の中で、誠は最後まで己の不運と世界を呪った。
炎の熱さよりも、息ができない苦しさよりも、自分が「何も成し遂げていない無価値な人間」としてここで終わるという現実から目を背け続けた。
やがて、酸素を完全に絶たれた誠の意識は深い暗闇へと沈んでいった。
三十五年間、部屋の中から世界を嘲笑い続けた男のあっけない最期だった。
……しかし、彼のくだらなくも情けない物語は、ここで終わりではなかった。光の届かない漆黒の底へと落ちていったはずの彼の意識は、やがて土と草の匂いに包まれた見知らぬ場所で、再び覚醒の時を迎えようとしていた。




