第18話:血塗られたストライキと賢者の逃亡
翌日の昼。
地下鉱山の淀んだ空気を震わせるように、交代の時刻を告げる鐘の音がカン、カンと鳴り響いた。
その瞬間、坑道に異様な緊張が走った。
「……今だ!!」
初老の奴隷ガンツが叫び、手にしていた重いツルハシを岩の床へと勢いよく投げ捨てた。ガキンッ!という甲高い金属音が合図となり、周囲の奴隷たちが次々とそれに続く。
「俺たちはもう働かないぞ!」
「ふざけたノルマを撤廃しろ! 俺たちにも人間としての権利があるんだ!」
百人を超える奴隷たちが一斉に労働を放棄し、松明を手にした十数人の看守たちを取り囲んだ。
突然の事態に、看守たちは一瞬だけ動きを止めた。ゼノンの言う「ストライキ」という概念などこの世界には存在しない。彼らにとって、家畜同然の奴隷が徒党を組んで反抗してくるなど、想像もしていなかった事態だった。
(よし、よし! その調子だバカども! もっと騒げ、もっと看守を惹きつけろ!)
奴隷たちが怒号を上げ、看守たちと揉み合いになり始めたその裏で。
革命の指導者であるはずのゼノンは、誰にも気づかれないように這いつくばり、坑道の奥にある真っ暗な廃坑道へと続く隙間に転がり込んでいた。
「ふひひ……作戦通りだ」
岩の陰に身を潜め、ゼノンは醜く歪んだ笑いを漏らした。
「ストライキだの権利だの、あんな底辺のゴミどもが主張して通るわけないだろ。ちょっと煽ったら本気になりやがって。俺はここでやり過ごして、入り口の警備が手薄になった隙に脱出させてもらうぜ。さらばだ、名もなき労働者たちよ。君たちの尊い犠牲は忘れないぞ」
彼は本気で自分が「チェス盤の駒を動かす天才軍師」だと信じて疑っていなかった。
自分が安全な場所から見下ろすためだけに、何百人もの命を死地に追いやったことへの罪悪感など微塵もない。
一方、現場の坑道では、ゼノンの薄っぺらい「シミュレーション」がいかに現実離れしていたかが、残酷なまでに証明されようとしていた。
「てめえら……誰に向かって口を利いてるか分かってんのか!?」
看守の一人が怒声と共に腰の剣を抜いた。
ゼノンは「多数決の原理で押し潰せる」と語ったが、それはあくまで双方が同じ土俵に立っている時の話だ。極度の栄養失調で骨と皮だけになった奴隷たちと、毎日肉を食い、分厚い革鎧と鋼の剣で武装した看守たち。圧倒的な暴力の差の前に、数の優位など何の意味も持たなかった。
「ひるむな! 俺たちの方が数が多いんだ!」
若い奴隷がツルハシを振り上げて看守に飛びかかった。
しかし、看守は冷酷に剣を閃かせ、いとも容易くその腕を切り落とした。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!!」
「なっ……!?」
血しぶきが舞い、若い奴隷が悲鳴を上げて倒れ込む。
その光景に、熱に浮かされていた奴隷たちは一瞬で現実に引き戻された。
「おい、ゴミども。暴動のつもりか?」
そこへ、地響きのような足音と共に看守長が現れた。彼の手には、いつもの革鞭ではなく、棘のついた重い鉄の棍棒が握られていた。
「ちょうどいい、最近運動不足でな。逆らう奴は全員、四肢を砕いて一生這いつくばって石を舐める体にしてやる」
看守長の残忍な笑みを見た瞬間、奴隷たちの心は完全に折れた。
武器も体力もなく、ただ言葉に乗せられただけの烏合の衆。彼らは次々と悲鳴を上げ、逃げ惑い始めた。
「待て! 逃げるな! ゼノン! 賢者のアンタが指示を……ゼノン!?」
ガンツは必死に周囲を見回したが、どこを探してもあの小太りの男の姿はなかった。
そこでようやく、ガンツは理解した。自分たちは「革命」を起こしたのではなく、あの薄汚い詐欺師の逃亡の囮として使い捨てられたのだということを。
「あの野郎……っ! 俺たちを騙しやがったのか!!」
ガンツの悲痛な叫びは、看守長の振り下ろした鉄の棍棒によって無情にも断ち切られた。
ドゴォッ! バキィッ!
「ぎゃあぁぁぁっ!」「助けてくれぇっ!」
岩陰に潜んでいたゼノンの耳にも、骨が砕ける嫌な音と、奴隷たちの断末魔のような悲鳴が響いてきた。
ゼノンは両手で耳を塞ぎ、目をきつく閉じた。
(う、うわぁ……エグい音。だから言ったんだよ、暴力に頼るなんて野蛮だって。やっぱり現場の連中に任せるとすぐこれだ。まあいい、あいつらが殴られてる間に俺は……)
悲鳴が少しずつ遠ざかり、坑道が静まり返るのを待ってから、ゼノンは這い出した。
(入り口の門は開いているはずだ。そこから外の世界へ……)
しかし、彼が入り口の広場へと続く通路を曲がった瞬間、絶望的な光景が目に飛び込んできた。
暴動の発生を受け、外へ続く巨大な鉄格子は幾重にも鎖で封鎖され、数十人の武装兵が弓を引き絞って警備を固めていたのだ。
「テロリスト」の脱走を警戒したギルド側が、鉱山を完全封鎖したのである。ゼノンの浅はかな脱走計画は、最初から「詰んで」いた。
「あ……うそ、だろ……」
ゼノンが呆然と立ち尽くしていると、背後から足音が近づいてきた。
血まみれになった看守たちが、半死半生になった奴隷たちを引きずりながら戻ってきたのだ。ガンツをはじめ、ゼノンの言葉を信じた者たちは皆、見るも無惨な姿に変わり果てていた。
「おい、こんなところに一匹ネズミが隠れてやがったぞ」
看守の一人がゼノンを見つけ、首根っこを乱暴につかみ上げた。
「ひぃっ! ち、違う! 俺は暴動には参加してない! あいつらが勝手に暴れただけで……!」
無様に命乞いをするゼノンは、乱暴に床へ投げ出された。
そこには、血反吐を吐き、手足を折られた奴隷たちがうずくまっていた。
ゼノンは気まずさを誤魔化すように、へらへらと愛想笑いを浮かべた。
「あ、あはは……災難だったな、お前ら。だが安心してくれ! この俺が、次の完璧なプランを……」
しかし、誰一人としてゼノンの言葉に耳を貸さなかった。
ガンツも、若い奴隷たちも。彼らは腫れ上がった目でゼノンを一度だけ見た。
そこに怒りや憎しみはなかった。
ただ、路傍の汚物を、あるいはこの世で最も無価値なゴミを見るような、氷のように冷たく、絶対的な「軽蔑」と「無関心」だけがあった。
「あ……れ……?」
ゼノンの言葉が宙に浮く。
彼は悟ってしまった。詭弁も、嘘も、言い訳も、もう誰一人として聞いてくれない。自分は完全に、見限られたのだと。
看守の暴力よりも恐ろしい、絶対的な孤独が、薄暗い地下鉱山の中でゼノンを包み込もうとしていた。




