第17話:扇動の詭弁と安全圏のストライキ
夜の冷たい岩肌に囲まれた奴隷部屋。疲労と絶望に支配された空間には、男たちの重い寝息とうめき声だけが響いていた。
明日の過酷な労働に備え、少しでも体を休めようとする囚人たち。その暗がりの中で、ゼノンは這いつくばるようにして周囲の男たちに声をかけ始めた。
「おい……お前ら、いつまでこんな犬以下の生活を続けるつもりだ?」
かすれた、しかし異様に熱を帯びたゼノンの声に、数人の奴隷が鬱陶しそうに薄目を開けた。
「なんだ新入り。黙って寝ろ、明日も早いんだ」
以前ゼノンに忠告した初老の男、ガンツが寝返りを打ちながら吐き捨てる。
「寝てどうなる? 明日も理不尽に鞭で打たれ、石を掘り、カビたパンを食って、最後は過労死するだけだぞ。お前らはそれでいいのか? 自分の命を、あんな看守どもの気まぐれで消費されていいのかよ!」
ゼノンの言葉は、暗闇の中で妙な響きを持っていた。
ネットの海で、他人の不満を煽り、炎上を拡大させることだけは得意だった男である。相手の心の中にある「不満」と「被害者意識」に火をつける話術だけは、無駄に洗練されていた。
「いいか、よく聞け。俺のいた世界には『基本的人権』という絶対的なルールがある。人間は生まれながらにして平等であり、誰の奴隷にもならない権利だ。お前らだって同じだ。看守どもより劣っているわけじゃない。ただ、搾取のシステムに組み込まれているだけなんだよ!」
「きほんてき……じんけん?」
若い奴隷の一人が、初めて聞く言葉に興味を示した。
「そうだ。それに、俺たちの数は数百人、対して看守は数十人だ。圧倒的なマジョリティは俺たちなんだよ。なぜ多数派が少数派に怯え、服従しなきゃならない? それは、お前らが『連帯』していないからだ」
ゼノンは自分の薄っぺらい知識をフル稼働させた。民主主義、労働組合、ストライキ。ネットの政治スレで聞きかじった単語を並べ立て、さも自分が崇高な革命家であるかのように振る舞う。
「俺たちには『ストライキ』という権利がある。労働を拒否し、待遇改善を要求するんだ。もし看守が暴力で抑え込もうとしたら、全員で一斉に立ち向かえばいい。あいつらの鞭なんか、数百人で押し潰せば何の意味もない。俺たちが団結すれば、この鉱山を乗っ取ることだってできるんだ!」
「鉱山を……乗っ取る……」
ガンツが身を起こした。その目には、長年の過酷な労働で失われていた「希望」のような危うい光が宿り始めていた。
「だが、武器がない。ツルハシを持っていたとしても、あっちは剣と鎧だ。殺されるぞ」
「だからこそ、タイミングが重要なんだ」
ゼノンはしたり顔でニヤリと笑った。
「明日の昼、交代の鐘が鳴る時だ。看守どもの気が一番緩むあの瞬間に、一斉にツルハシを放り投げてストライキを宣言する。あいつらが動揺した隙を突いて、武器を奪えばいい。俺の緻密なシミュレーションによれば、勝率は99パーセントだ」
嘘八百だった。シミュレーションなどしていないし、勝率の根拠もない。
だが、極限状態に置かれ、正常な判断力を失っている奴隷たちにとって、ゼノンの自信に満ちた言葉は「救いの神託」のように響いてしまった。
「……やるか。このままここで死ぬのを待つより、一矢報いてやるほうがマシだ」
「ああ、やってやろうぜ! あの看守長を血祭りにあげてやる!」
若い奴隷たちが興奮し、次々と同調し始める。その熱は瞬く間に部屋中に広がり、百人以上の奴隷たちが明日の暴動への参加を決意した。
「素晴らしい。これぞ民主主義の勝利だ。お前たちの勇気ある行動を、俺は全力でプロデュースしてやるよ」
ゼノンは重々しく頷き、革命の指導者気取りで彼らを称賛した。
奴隷たちはすっかりゼノンを信じ込み、「アンタの頭脳があれば勝てる」「俺たちに指示を出してくれ」と口々に言い始めた。
(ふ、ふははははは! チョロい、チョロすぎる!)
暗闇の中で、ゼノンは必死に笑いを噛み殺していた。
(ちょっと意識高い系の単語を並べただけで、あっさり洗脳されやがった。底辺の奴隷どもめ、お前らは俺のための捨て駒だ)
ゼノンの計画は単純明快であり、極めて卑劣だった。
明日、奴隷たちが一斉に暴動を起こし、看守たちと血みどろの殺し合いを始めている間に、自分は坑道の奥の安全な場所に隠れている。そして、看守たちの意識が完全に暴動に向き、鉱山の入り口の警備が手薄になった隙を突いて、自分一人だけ脱走するのだ。
(奴隷の何人かが死のうが知ったことか。俺みたいな天才が、こんなところで泥にまみれて死ぬわけにいかないんだ。俺は安全圏から指示を出す。実際に血を流すのは、現場のバカどもの仕事だ。それが賢者の戦い方ってもんだろ?)
かつて村で水車を作らせた時と、何一つ変わっていない。
自分が責任を負わず、他人にすべてを押し付け、果実だけをかすめ取ろうとする性根。
だが、ゼノンは致命的な勘違いをしていた。
ここはネットの匿名空間ではない。命と命がぶつかり合う、血生臭い現実の戦場なのだ。安全圏から他人を煽るだけの無責任な存在を、現実の人間たちがいつまでも許容するはずがないということに、彼はまだ気づいていなかった。
明日の昼。
彼が煽り立てた暴動は予定通り決行される。そしてそれは、ゼノンの浅はかな目論見を粉々に打ち砕く、本当の絶望の始まりとなるのだった。




