第16話:終わらない地獄と自己正当化の罠
「嘆きの地下鉱山」に落とされてから、どれくらいの日数が経っただろうか。
太陽の光が一切届かないこの場所では、昼夜の感覚すらとうに失われていた。刻を知らせるのは、ただ一定の間隔で鳴らされる起床の鐘と、労働の終わりを告げる鐘の音だけだ。
カンッ……カンッ……。
薄暗いカンテラの灯りだけを頼りに、ゼノンは亡霊のように虚ろな目で岩壁にツルハシを振るっていた。
かつてネット掲示板でレスバトルに明け暮れていた時、彼の最大の武器は「絶対に疲れないこと」だった。キーボードを叩く指先以外、何のカロリーも消費しないのだから当然だ。
しかし、ここは違う。現実の物理法則と暴力が支配する世界だ。
「はぁっ……ぜぇっ……、もう、無理だ……」
ゼノンの手からツルハシが滑り落ちた。
かつて肥え太っていた彼の肉体は、今や見る影もなく痩せ細っていた。頬はこけ、目はくぼみ、あばら骨が浮き出ている。着ているものはボロ布のような囚人服一枚で、全身には看守から受けた無数の鞭の痕がミミズ腫れとなってこびりついていた。
手のひらは豆が潰れては硬くなることを繰り返し、ひび割れて血が滲んでいる。
「おい、新入り。手が止まってるぞ」
近くで黙々と岩を砕いていた初老の奴隷が、低い声で忠告してきた。
「休んでるのを看守に見つかったら、また鞭が飛んでくるぞ。ノルマの三杯、まだ一杯も終わってないだろうが」
「う、うるせえ……! 底辺の奴隷が、俺に指図するな……!」
ゼノンはひび割れた唇から毒づいたが、声に覇気はない。
この鉱山の絶対的なルール。それは「一日に鉱石カゴ三杯分を掘り出さなければ、まともな食事が与えられない」というものだった。
屈強な男たちですら、血反吐を吐きながらようやく達成できる過酷なノルマ。日頃から運動など一切していなかったゼノンにこなせるはずがなかった。
結果として、彼が毎日得られる食事は、他の奴隷たちが残したカビの生えたパンの欠片と、泥水のように濁ったスープの残り汁だけだった。
「なんで……なんで俺がこんな目に……」
ゼノンは再びツルハシを握ろうとしたが、指に力が入らない。そのままズルズルとその場にへたり込んでしまった。
日本にいた頃、彼は「働いたら負け」「努力する奴は才能がない証拠」と本気で信じていた。社会の底辺で肉体労働に従事する人々を見下し、自分は安全な部屋の中から彼らを嘲笑っていた。
しかし今、彼は自分が嘲笑っていた「底辺」よりも遥かに悲惨な、本当の地獄の底を這いずり回っている。
「おい、あそこの豚! 何座り込んでやがる!」
怒声と共に、松明を持った看守が足音を荒らげて近づいてきた。
ゼノンの体がビクッと跳ねる。本能に刻み込まれた恐怖が、彼を無理やり立ち上がらせようとしたが、限界を超えた足は言うことを聞かなかった。
「ひぃっ! ち、違う! ツルハシの刃が欠けてるか確認してただけで……!」
「言い訳はいらん。ノルマもこなせずサボるようなゴミは、こうだ!」
ピシャァァンッ!!
「あぎゃあぁぁぁぁっ!!」
背中に鋭い鞭の痛みが走り、ゼノンは泥水溜まりの中に顔から突っ込んだ。
痛みにのたうち回る彼を、看守は冷酷な目で見下ろす。
「今日のノルマも未達成だな。飯は抜きだ。水だけ飲んで、明日の鐘が鳴るまでここで這いつくばっていろ」
看守は吐き捨てるように言うと、見回りに戻っていった。
周囲の奴隷たちは、誰もゼノンを助けようとはしなかった。自分のノルマをこなすだけで精一杯なのだ。それに、ゼノンが日頃から周囲を見下し、「俺はこんなところで終わる人間じゃない」「お前らのようなバカと一緒にしないでくれ」と暴言を吐き散らしていたため、誰からも完全に孤立していた。
やがて、労働の終わりを告げる鐘が鳴り響いた。
奴隷たちが足を引きずりながら、劣悪な環境の寝床へと戻っていく。ゼノンもまた、激痛の走る体を引きずりながら、冷たい岩肌がむき出しになった大部屋の隅へと転がり込んだ。
「うぅ……痛い、腹が減った……」
他の奴隷たちが、支給された硬い黒パンとスープを無言で口に運んでいる。ゼノンにはそれすら与えられない。彼は暗がりの中で、他の奴隷たちの食事の音を聞きながら、自らの指の爪を噛んで飢えを凌いでいた。
(なんでだ……なんで俺の人生はこうなったんだ。俺の頭脳があれば、世界を革命できたはずなのに)
限界まで追い詰められた状況にあっても、ゼノンの「他責思考」と「自己正当化」は決して揺るがなかった。自分が失敗したのは、自分に実力がなかったからではない。周囲が自分の高度な理論を理解できなかったからだ。
(そうだ……この鉱山のシステムが根本的に間違っているんだ。力任せにツルハシを振るうなんて、非効率の極みだ。それに、ノルマ制という恐怖政治は労働者のモチベーションを著しく低下させる。こんなのは近代的な『マネジメント』じゃない。ブラック企業以下の、ただの搾取だ!)
自分を鞭打った看守たちへの憎悪。そして、何の疑問も持たずに黙々と働き続ける他の奴隷たちへの軽蔑。
それらが混ざり合い、ゼノンの脳内で一つの危険な「妄想」が膨らみ始めた。
(こいつら、バカだから自分が搾取されてることに気づいてないんだ。現代の日本なら、労働基準法違反で一発アウトだぞ。……待てよ?)
ゼノンはギョロリと目を血走らせ、周囲の奴隷たちを見回した。
看守の数は限られている。対して、奴隷の数は数百人。もし、彼らが一斉に反旗を翻せば、看守たちなど一捻りだろう。
(俺が教えてやればいいんだ。この無知な土人どもに、『人権』や『ストライキ』、そして『民主主義』という概念を。俺がこいつらを扇動して暴動を起こさせれば、その混乱に乗じて俺はこの地獄から脱出できる!)
自分自身で戦う気など毛頭ない。
どこまでも他力本願で、言葉だけで他人を操り、自分だけが安全な場所で利益をかすめ取ろうとする卑劣な思考。それは、かつて村の男たちに水車作りを丸投げした時と全く同じ、破滅へのロジックだった。
「ふ、ふへへ……」
ゼノンは暗がりの中で、血のにじむ唇を歪めて不気味に笑った。
痛みも飢えも忘れ、彼は再びネットの知識という麻薬に酔いしれていた。己の底知れぬ無能さが、間もなくこの地下鉱山で最悪の結末を引き起こすことなど微塵も疑わずに。




