第15話:嘆きの地下鉱山と絶対的な暴力
ガタガタと無情に揺れる鉄格子の馬車の中で、冴木誠――ゼノンは、ただ膝を抱えてうずくまっていた。
法廷で裁きを下されてから数日。彼は他の凶悪犯や重債務者たちと共に、首と手足に重い鉄枷をはめられ、都市の遥か北方にある「嘆きの地下鉱山」へと護送されていた。
馬車の中は、風呂に何ヶ月も入っていないような男たちの強烈な体臭と、排泄物の臭いが充満している。日本にいた頃、少しでも部屋が暑ければクーラーをつけ、母親の作る飯の匂いにすら文句をつけていたゼノンにとって、ここはすでに地獄の入り口だった。
「おい、新入り。お前、何をやらかしてここに来た?」
向かいに座っていた、顔に大きな刀傷のある大男がニヤニヤと笑いかけてきた。
「……っ、話しかけるな。俺はお前らみたいな底辺の犯罪者とは違うんだ」
ゼノンは震える声で威嚇したが、大男は鼻で笑っただけだった。
「へっ、威勢がいいのは今のうちだけだぜ。ここは『嘆きの鉱山』だ。一度入ったら、生きて外の太陽を拝めた奴は一人もいねえんだからな」
その言葉に、ゼノンの顔がさらに蒼白になる。
(嘘だろ……なんで俺がこんな目に。俺は現代知識で異世界を救う『主人公』のはずだろ!? ちょっと火薬の調合をミスしたくらいで、一生強制労働なんて狂ってる!)
やがて馬車が止まり、乱暴に外へ引きずり出されたゼノンは、目の前にそびえ立つ絶望的な光景に息を呑んだ。
荒涼とした岩山。その中腹にポッカリと開いた巨大な暗穴。周囲には高い石壁が築かれ、武装した看守たちが冷酷な目で彼らを見下ろしている。空は重苦しい鉛色の雲に覆われ、冷たい風がゼノンのボロボロのスウェットをすり抜けていった。
「歩け、ゴミども! 今日からお前たちの家はこの穴ぐらだ!」
看守の怒号が飛び交う中、ゼノンたちは鉱山の入り口にある広場へと並ばされた。
そこに現れたのは、熊のように巨大で、革の鞭を手にした看守長だった。彼は新入りたちを品定めするように見回し、ゼノンの前でピタリと足を止めた。
「……なんだ、この醜く肥え太った豚は」
看守長はゼノンのたるんだ腹を冷ややかな目で見た。
「ぶ、豚だと!? ふざけるな、俺は賢者だぞ! こんな肉体労働なんてできるわけないだろ! 俺の頭脳を使えば、この鉱山の採掘効率を劇的に改善するマネジメントが……」
ゼノンがいつものように、適当なビジネス用語を並べて言い逃れようとした、その瞬間だった。
ピシャアァァァァンッ!!
空気を裂くような鋭い音と共に、ゼノンの頬に焼けるような激痛が走った。
「あべっ……!?」
何が起きたのか理解するよりも早く、ゼノンの体は地面に転がっていた。口の中が切れ、生暖かい血の味が広がる。看守長の振るった革鞭が、容赦なく彼の顔面を打ち据えたのだ。
「あ、あぁぁぁ……! い、痛いぃぃっ! 殴ったな! 言葉で論破できないからって暴力に逃げるなんて、野蛮人のすることだぞ!」
這いつくばりながら泣き叫ぶゼノン。しかし、看守長は虫ケラを見るような目で彼を見下ろした。
「論破? マネジメント? ……馬鹿が。ここではな、お前らは人間ではない。ただ石を掘るための『動くツルハシ』だ。ツルハシが口を利くか?」
「ひぃっ……!」
「喋る暇があるなら掘れ。掘らなければ飯は抜きだ。逆らえば鞭が飛ぶ。それだけだ」
一切の詭弁も、ネットの知識も、ここでは何の意味も持たなかった。
ゼノンは他の囚人たちと共に、背丈よりも長い重いツルハシを押し付けられ、光の届かない暗くジメジメとした坑道の奥深くへと追いやられた。
「さあ、掘れ! 一日のノルマは鉱石カゴ三杯だ! 終わるまで寝ることは許さん!」
看守の怒声が響く中、周囲の囚人たちは無言で岩壁にツルハシを振るい始めた。カン、カンという乾いた音が坑道に響き渡る。
ゼノンも震える手でツルハシを持ち上げた。だが、三十五年間、マウスとキーボードより重いものを持ったことのない彼にとって、その鉄の塊はあまりにも重すぎた。
「ふ、ふんぬっ……!」
力任せに岩壁にツルハシを振り下ろす。
ガキンッ!
「痛っっっ!!」
岩の硬さに弾かれ、その反動が手首から肩へとダイレクトに伝わった。全身の骨が軋み、ツルハシを取り落とす。たった一振りで、キーボードを叩くためだけに存在していた柔らかい手のひらの皮が剥け、真っ赤な血が滲んでいた。
「嘘だろ……こんなの、無理だ。痛すぎる……」
ゼノンは涙声で呟き、その場にへたり込んだ。
日本にいた頃は、少しでも気に入らないことがあれば親に当たり散らし、仕事の面接ですら「面接官の態度が気に入らない」と途中で帰ってきた男である。彼に「我慢」や「努力」という概念は存在しない。
「おい、豚。何サボってやがる」
背後から、低い声がした。見上げると、松明を持った看守が鞭を片手に立っていた。
「ま、待ってくれ! 俺は本当に体が弱いんだ! ちょっと休憩させてくれ、それにこのツルハシは人間工学的に設計がおかしくて……!」
ピシャァァンッ!!
「ぎゃあぁぁぁぁっ!!」
背中に振り下ろされた鞭の痛みに、ゼノンは無様に泥の地面を転げ回った。服が破れ、ミミズ腫れがくっきりと浮かび上がる。
「人間工学だ? 舐めた口を利くな。掘れ。掘るまで叩くぞ」
「い、嫌だ! やめてくれ! 俺は悪くないのに! あいつらが俺を騙したんだ!」
「掘れ!!」
ピシャァァンッ!!
「あぎゃあぁぁぁぁっ!!」
容赦のない暴力の嵐。泣き叫んでも、言い訳をしても、看守は一切耳を貸さない。ゼノンがツルハシを握って岩に向かうまで、その無慈悲な鞭は何度でも、何度でも振り下ろされた。
「ひぐっ、うぅっ……! やります、やりますからぁっ!」
結局、ゼノンは涙と鼻水と泥にまみれた顔で、再びツルハシを握るしかなかった。
手のひらの豆が潰れ、血が柄を滑らせても、休むことは許されない。背中には鞭の激痛が走り、肺は酸欠で悲鳴を上げている。
(なんで……なんで俺が……! 俺は選ばれた人間なのに……! 世界を動かせる天才なのに……!)
暗く冷たい坑道の底で、惨めに岩を叩き続けるゼノン。
彼の肉体と精神は、この絶対的な暴力と過酷な現実の前に、急速に削り取られようとしていた。しかし、彼の心の中にある「自分は悪くない、世界が間違っている」という歪んだ自己正当化だけは、未だに頑なに残り続けていた。
それが、彼をさらなる地獄へと突き落とす最後の引き金になるとも知らずに。




