第9話 本性
※ロレンツォ視点
終わりは、一つの失敗では来なかった。
それから数週間で、小さな綻びがあちこちで同時に裂けていったのだ。
薬草の採取依頼で、冒険者が指定と違う薬草を持ち帰った。依頼書に産地や細かな特徴が書いてあったらしいが、俺はそこまで読んでいなかった。依頼主の薬師に怒鳴られて、違約金を払った。
街道沿いの魔獣討伐では、倒しきれなかった個体が逃げて別の場所で被害を出した。最初の依頼書を読み直してみれば、繁殖期の個体は執拗に巣に戻る習性があると書かれていた。巣を押さえずに個体だけ追ったのが間違いだ。——そんなことは、依頼を受けた時には考えもしなかった。
近隣の領主から次々と苦情が届く。『紅蓮の剣に頼んだ案件で二次被害が出ている。このまま改善が見られなければ、今後の発注は見送る』。丁重な文面の裏に、はっきりとした怒りが透けていた。
そのたびに冒険者が抜ける。先月辞めた古参の剣士に続いて、中堅どころが二人、三人と去っていく。残っているのは新人か、他に行く当てのない者ばかりだった。
それでも、俺はまだなんとかなると思っていた。
——護衛任務の報せが届くまでは。
***
ベルナルディとの契約は切れていたが、まだ残っている顧客はいた。
——マッツィーニ商会。ベルナルディほどの規模ではないが、毎月の護衛依頼は紅蓮の剣の収入の柱だった。ベルナルディに去られた後、最後の大口顧客と言ってよかった。
その月の護衛任務に、俺は六人の冒険者を送り出した。
街道の全行程に六人。以前ジュリエッタがやっていた護衛の編成がどんなものだったか、正確には覚えていない。とにかく人数を揃えれば形にはなるだろうと思った。六人もいれば十分だ。多ければ多いほど安全なはずだ。
三日後、冒険者が戻ってきた。
送り出した六人のうち、無傷なのは一人だけ。
残りの五人のうち、二人が重傷。骨折と深い裂傷。もう一人は軽傷だが、精神的に参っていて口もきけない状態だった。
報告を聞いて、血の気が引いた。
街道の中間地点、渓谷沿いの細い道で山賊の待ち伏せに遭った。六人全員が固まって歩いていたため、前方と後方を同時に塞がれて身動きが取れなくなった。荷馬車を守りながら戦う余裕はなく、荷の三割が奪われた。
「——なぜ固まって歩いていた」
俺が聞くと、冒険者の一人が疲れ切った目で答えた。
「隊列の指示がなかったからだ。前衛と後衛の配置もなかった。誰が索敵で、誰が荷を守るかも決まっていなかった。だから全員が何となく固まって歩いた」
隊列の指示。前衛と後衛の配置。索敵の担当。
——全部、ジュリエッタが決めていたことだ。
俺は人数を揃えただけだった。六人を送り出せば仕事になると思っていた。でも、六人をどう配置するかが決まっていなければ、六人は六人分の力を発揮できない。烏合の衆だ。
ジュリエッタなら、街道のどの区間が危険かを事前に調べていたはずだ。山賊の出没情報を毎日気にしていた。渓谷沿いの細い道なら、前後に斥候を置いて待ち伏せを警戒させていただろう。荷馬車の近くには防御型の冒険者を置き、遊撃要員を別に確保していただろう。
六人を六人として活かす——それが配置の意味。人数ではなく、組み方で安全を作る。ベルナルディが「変動編成」と呼んでいたものの本質が、今になってようやくわかった。
わかったところで、もう遅い。
マッツィーニ商会の当主が、直接ギルドに乗り込んできた。
「荷の三割が失われた。護衛の冒険者にも重傷者が出ている。これがお宅の仕事か!」
怒りは当然だ。俺は頭を下げ、賠償を申し出た。
「賠償の問題ではない。命を預けられないギルドに、荷は預けられない」
そして最後の大口顧客が、去った。
***
酒場は静かなものだった。
追放の夜、この場所は歓声で揺れていた。杯が鳴り、テーブルを叩く拳が響き、俺の言葉に酒場が沸いた。あの夜、俺は将軍にでもなったような気分だった。
今、テーブルのほとんどが空席だ。残った冒険者は数えるほどで、誰も俺と目を合わせない。掲示板に張り出された依頼書は三枚。どれも報酬の安い雑用ばかり。
いや——三枚の中に、一枚だけ毛色の違うものが混じっている。他のギルドが断って回されてきた案件だ。極めて危険な、高難度任務。竜に奪われた宝物の奪還依頼。報酬は高いが、それは誰もやりたがらない仕事だからだ。
以前なら見向きもしなかった小さな依頼が、今では数少ない収入源になりつつある。まともなギルドが受ける仕事は信頼のあるギルドに流れ、信頼を失ったギルドには残り物しか回ってこない。
ソフィアが、いつもの席に座っていた。
俺は真っ直ぐにそこに向かう。他に行く場所がない。ソフィアだけが、変わらずにいてくれる。
「ソフィア」
「はい、ギルドマスター」
いつもの、花が開くような明るくて愛らしい表情。
「……もう駄目かもしれない」
声が震える。ギルドマスターが言う台詞ではない。でも、取り繕う余裕はもう残っていなかった。
「マッツィーニにも切られた。冒険者も依頼もない。まともな仕事が来ない。俺一人じゃ——」
言葉が詰まった。
「お前だけだ。今、俺のそばにいてくれるのは」
ソフィアが、俺の手に自分の手を重ねた。温かくて、小さな手だった。
「ロレンツォ様。私はずっとここにいますよ」
——その声に、縋りついた。
こいつだけは俺を見捨てない。こいつだけは俺の味方だ。ジュリエッタは正論ばかりで、冒険者たちは去っていき、顧客は離れた。でもソフィアだけは、最初からずっと——
「ねえ、ロレンツォ様」
ソフィアの声の調子が、変わった。
いつもの甘さが消えている。穏やかさの膜が一枚剥がれたような、乾いた声だった。
「……なんだ?」
「掲示板の依頼、見ました? あの一枚」
他のギルドが断った高難度の依頼のことだ。
「ああ。あんな依頼、受けられる冒険者はもう残って——」
「私がいるじゃないですか」
ソフィアが、微笑んでいた。
だが、その微笑みが——いつもとは違った。
今まで見てきたものとは、何かが根本的に違った。目の形は同じだ。口元の角度も同じだ。でも、目の奥にある光が変わっていた。
そこにあるのは、歓喜だった。
「ソフィア……?」
「ねえ、知ってます? 私、どのギルドでも長く続かなかったんですよ」
声が楽しげに弾んでいる。世間話でもするような軽さで、ソフィアは話し始めた。
「最初のギルドは半年で追い出されました。任務中に勝手に単独行動して、危険な魔獣に突っ込んだから。二番目は三ヶ月。撤退命令を無視して、死にかけて帰ってきたら除名。三番目は——もう覚えてないな。とにかく、どこに行っても同じことの繰り返しでした」
立ち上がりながら、ソフィアは窓の外を見た。穏やかさも柔らかさも、もうどこにもなかった。
「だって仕方ないじゃないですか。安全な依頼なんてつまらない。管理された任務なんて息が詰まる。私が求めているのは——」
振り返ったソフィアの瞳は、爛々と輝いていた。
「——死線なんです」
俺は、動けなかった。
「このギルドに来た時、すぐにわかりました。全部あの人が管理してるって。依頼の査定、冒険者の配置、顧客との交渉。隅から隅まであの人の目が行き届いていて、危険な依頼には絶対に手が届かない仕組みになっていた」
あの人……ジュリエッタのことだ。
「優秀な人でした、本当に。——だからこそ、邪魔だった」
ソフィアが笑う。笑顔の形をした、別の何か。
「あの人がいる限り、私は窮屈なままだった。でも、あの人を直接どうこうする力は私にはない。あの人は冒険者じゃなくてサブマスターだから、戦って排除なんてできない」
一歩、ソフィアが近づいた。
「でもギルドマスターは……ロレンツォ様は、別でした」
それだけでまるで、心臓を直接掴まれたような感覚が襲う。
「あなたは認められたかった。サブマスターに頼りきっているギルドマスターだと思われてるんじゃないかって、ずっと怖かった。違います?」
——違わない。
ジュリエッタが有能すぎることが、ずっと重荷だった。俺がギルドマスターなのに、実質的にギルドを動かしているのはジュリエッタだった。そのことを認めたくなくて、見ないふりをしていた。
「だから簡単でした。あなたの判断は正しいです。あなたは強い。あなたこそがこのギルドの長だ。——そうやって少し持ち上げ続ければ、あなたは気持ちよくなって、あの人の言葉がうるさくなって、最後には自分から追い出してくれる」
全部。
全部、ソフィアの計画通りだった。
「あなたを持ち上げて、あの人を追い出せば、私の邪魔をする人はいなくなる。ギルドがどうなるかなんて、最初からどうでもよかった。ギルドが壊れれば壊れるほど、まともな依頼はなくなって、残るのは危険な仕事だけになる。——ほら、今みたいに」
ソフィアが掲示板に歩み寄って、あの一枚の依頼書を剥がした。他のギルドが全て断った危険な案件。致死率を考えれば、まともな冒険者なら手を出さない依頼。
「これ。これですよ、私が欲しかったのは」
依頼書を胸に抱いて、ソフィアは目を閉じた。恍惚とした表情を浮かべ、うっとりと語る。
「死の淵にこそ生がある。ずっとそう思って生きてきました。安全な場所にいると、自分が生きているのかどうかわからなくなるんです。だから、ぎりぎりの場所に行きたい。死ぬかもしれない場所に立ってる時だけ、私は生きてるって思える。――その一瞬ためなら、死んでもいいわ」
目を開いたソフィアは、依頼書をひらひらと振った。
「これ、二人以上でないと受理されない案件なんですよね。規定上」
俺を見ていた。笑っていた。
「一緒に来てくださいますよね、ギルドマスター?」
拒否する言葉が、出てこない。
ソフィアに縋ったのは俺だ。ジュリエッタを追い出したのも俺だ。全部、自分で選んだ結果だ。
脳裏に、ジュリエッタの顔が浮かんだ。
冒険者の査定をしている時の真剣な顔。危険な依頼を止める時の厳しい顔。「階級に見合わない依頼を受ければ死人が出る」と言った時の、怒りではなく——恐れの顔。
あいつは怖がっていたのだ。人が死ぬことを。
そしてソフィアの本質を見抜き、止めようとしていた。ソフィアの昇格に反対したのは嫉妬ではなかった。この女の異常さに、ギルドの中でただ一人気づいていたからだ。
なのに俺は、それを『女の嫉妬』と笑った。ジュリエッタの言葉を聞かず、ソフィアの甘言を選び、自分の虚栄心を守るためにギルドで一番大事な人間を切り捨てた。
冒険者が去ったのも、顧客が離れたのも、ギルドが壊れたのも——全て、あの夜の酒場で俺が気持ちよくなるために払った代償だ。
わかっている。全部わかっている。今さらだ、何もかも。
「ジュリエッタを追放したのは——」
声が掠れた。酒場には、もう俺とソフィアしかいない。がらんとした空間に、自分の声が惨めに響く。
「——俺の、一番の失敗だった」
もう、取り返しがつかない。後悔には、何の意味もない。
ソフィアは微笑んだまま、扉に向かって歩き出していた。
彼女は振り返らない。振り返る必要がなかったのだ。
俺がついていくしかないと、分かっていたから。
明日からはジュリエッタ視点に戻ります。続きも読んでくださると嬉しいです。




