第10話 充実
レオナルドと距離を取ると決めてから、二週間が経った。
仕事は順調だった。ベルナルディ商会との年間契約が正式に締結され、毎月の護衛依頼がギルドの安定収入になった。その実績が呼び水となって、新しい顧客からの問い合わせが増え始めている。
冒険者の数も増えた。紅蓮の剣から移ってきたガルシアたちに加えて、星の道標の評判を聞きつけた新規の冒険者が門を叩くようになった。受付の事務職員が一次査定をかけ、私が二次査定で最終確認する仕組みは安定して機能している。先月は受理した依頼の成功率が九割七分。怪我人はゼロ。
全員、生きて帰っている。
紅蓮の剣では、ロレンツォが作った土台の上で歯車を回していただけだった——と、当時は思っていた。
それは違うと今なら分かる。もしそうなら、星の道標というギルドを組み立てることはできなかったはずだ。
査定基準も、適性記録も、編成の方針も、顧客との契約書式も。誰かに言われてではなく、自分の判断で設計した。その仕組みが回っている。私の目が届かない時間にも、事務職員たちが判断し、冒険者たちが動き、ギルドが前に進んでいる。
これが、自分で作ったものの手応えだ。
執務室の机に向かいながら、今日の依頼書に目を通す。通常の査定案件が五件、判断に迷うものが一件。判断に迷う案件だけを手元に残して、残りは事務職員に戻す。半年前なら全部自分で見ていたが、今はその必要がない。ギルドが育った証拠だ。
判断に迷う案件に目を落とす。山岳地帯の薬草採取依頼。一見すると難易度は中程度だが、採取地点が崖沿いの斜面であることと、この時期は霧が出やすいことを考慮すると——
「ジュリエッタ」
扉を叩く音と共にレオナルドが顔を出した。鎧は着けていない。今日はギルドにいる日だ。
「午後の会議の件で確認がある。時間はあるか」
「はい、今ちょうど手が空きました」
仕事の話なら、距離を取る必要はない。
二週間前にそう決めたルールを、私は忠実に守っていた。
レオナルドからの差し入れは受け取る。急に断るのは不自然だからだ。仕事の相談には応じるし、ギルドの運営に必要な会話は以前と変わらず交わす。レオナルドはギルドマスターで、私はサブマスターだから。ただ、それ以上には踏み込まない。食事の誘いはやんわりと断り、個人的な話題は自分からは振らない。
レオナルドは何も言わなかった。
距離が変わったことに気づいていないはずがない。あの人は、人の機微に聡い。けれど一度も問い詰めることはなく、私が引いた線をそのまま受け入れているように見える。
それが——少しだけ、寂しいと思った。
寂しいと感じること自体が矛盾している。距離を取ったのは自分なのに。
「午後、ファルネーゼ伯爵の代理人が来る。先月から打診があった、領地内の定期巡回討伐の契約だ」
レオナルドが執務室の椅子に腰を下ろしながら言った。この椅子はいつの間にか来客用として定位置になっている。以前は書類の山が積まれていたが、レオナルドがギルドにいる日はいつも空いている。
「ファルネーゼ伯爵——北東の領地ですね。あの辺りは丘陵地帯で魔獣の巣が多いと聞いています」
「そう。領主直轄の騎士団だけでは手が回らなくて、ギルドに委託したいという話だ。ベルナルディから紹介を受けたらしい」
ベルナルディからの紹介。つまり、年間契約の実績が次の顧客を連れてきた。仕組みが仕組みを生んでいる。
「条件は?」
「まだ概要だけだ。詳しくは午後の会議で。——だから、君に同席してほしい」
「もちろんです」
レオナルドが少し間を置いて、それから何気ない調子で付け加えた。
「先方は貴族だ。交渉は君のほうが向いている」
「レオナルドだって貴族でしょう」
「僕は貴族の作法は苦手だからな。剣なら任せてくれ、言葉の剣は君に預ける」
軽い冗談だった。少し笑ってしまう。
「では午後、よろしくお願いします」
「ああ。——それと」
立ち上がりかけたレオナルドが、思い出したように懐から小さな紙包みを取り出した。
「昨日、依頼の下見で市場を通ったんだ。茶葉の専門店があって、君が好きな種類の新しい産地のものがあった」
受け取ると、包みからほんのりと甘い香りが漂った。
押し花の時と同じだ。依頼の帰りに、鞄の隅に入る程度の小さなもの。大仰ではない。ただ、私の好みを覚えている。
「……ありがとうございます」
「口に合うと良いけど」
少しだけ照れたように目を逸らして、レオナルドは軽く手を振りながら執務室を出ていった。
依頼の下見のついで。些細なもの。断る理由がない。——いつもそうだ。レオナルドが持ってくるものには、断る理由がない。大きすぎず、重すぎず、でも確かに私のことを考えて選ばれている。
距離を取っていることに、この人は気づいている。気づいた上で、線を越えてこない。越えないまま、こうして小さなものを置いていく。
——ずるい人。
その言葉が浮かんだ自分に、少し驚いた。
***
午後の会議は、予想通り一筋縄ではいかなかった。
ファルネーゼ伯爵の代理人は、ヴィットリオという中年の男だった。伯爵家の家令を務めているそうだ。品の良い服装と丁寧な物腰の裏に、こちらを値踏みする目がある。
会議室に通して挨拶を交わすと、ヴィットリオは真っ先にレオナルドに目を向けた。
「ヴァレンティーニ家のレオナルド殿とお見受けする。お噂はかねがね」
「どうも。今日は星の道標のギルドマスターとして会うので、家の名前は忘れてもらえると助かります」
レオナルドの受け答えは飾り気がない。貴族の代理人相手でも態度が変わらないのは、この人の長所であり、時に短所でもある。
ヴィットリオが私に視線を移した。
「そちらが、サブマスターの——」
「ジュリエッタです。本日の交渉は私が担当いたします」
「ほう。ジュリエッタ殿——確か、以前は紅蓮の剣に在籍されていたとか」
声の調子が、わずかに変わった。紅蓮の剣の名を出す時の声には、明らかな色がついていた。
「ええ、以前は」
「紅蓮の剣は、先日崩壊したと聞きましたが」
その言葉が耳に入った瞬間、喉が詰まった。
「ギルドとしての認可が事実上停止状態にあるとか。冒険者も散り散りで、ギルドマスターは行方が知れないと——」
ヴィットリオは世間話のような口調で言った。こちらの反応を見ている目。情報を武器にする人間の目だ。
「崩壊したギルドのサブマスターだった方が、こちらのギルドの交渉を仕切ると。ファルネーゼ伯爵がお預けになる契約に、それで十分な信頼が担保されるのかどうか」
笑顔の形をした、切り込み。
私は口を開きかけた。反論はいくらでもある。星の道標の実績を示せばいい。ベルナルディとの年間契約の数字、依頼の成功率、怪我人ゼロの記録。事実で応じれば——
「ヴィットリオ殿」
私より先に、レオナルドの声が響いた。
穏やかな声だった。声を荒げてはいない。けれど、その一声で会議室の空気が変わった。
「彼女の判断が、このギルドの判断だ」
レオナルドは椅子に座ったまま、背もたれに体を預けている。力んだ様子はない。ただ、目だけが真っ直ぐにヴィットリオを見ていた。
「星の道標が今の規模で回っているのは、全て彼女の采配の結果です。この半年で一から作り上げたものが、そのまま我々の実績になっている」
レオナルドの声には感情的な熱がなかった。ただ事実を述べているだけだ。だからこそ、重い。
「彼女の以前の所属先がどうなったかは、彼女の能力とは無関係です。むしろ、彼女が去った後にそのギルドがどうなったかこそが、彼女の価値を証明している。——異論があるなら、僕に言ってください」
最後のひと言だけ、ほんの少し声の温度が下がった。
ヴィットリオの表情が変わった。値踏みの目が引っ込み、代わりに計算の目が出てくる。レオナルドの言葉の意味を正確に測っている。彼は、有能だからこそ空気を読み間違えない。
「……失礼。言葉が過ぎました」
「いえ。では、本題に入りましょう」
私が応じると、ヴィットリオは小さく頷いた。その後の交渉で、彼が私を軽んじる発言をすることは二度となかった。
交渉の中身は複雑だ。領地内の定期巡回討伐は、季節ごとに魔獣の種類と出没域が変わる。固定編成では対応できない。ベルナルディ商会との護衛契約で採用した変動編成の考え方を、巡回討伐に応用する提案を組み立てる。
季節ごとの魔獣データに基づく編成の切り替え、巡回ルートの最適化、緊急時の増援体制。ヴィットリオの質問は鋭かったが、全てに根拠を持って答えた。
二時間後、ヴィットリオは満足した顔で席を立った。
「正式な契約書は追って送らせます。——ジュリエッタ殿、お見事でした」
去り際の挨拶は丁重で、最初とは別人のようだった。
会議室に二人だけが残される。
「……レオナルド」
「うん?」
「さっきの——ありがとうございます。でも、あの程度のことは自分で対処できました」
「知ってるよ」
レオナルドは椅子から立ち上がりながら、あっさりと言った。
「君なら実績を並べて黙らせたはずだ。でも、先に言っておきたかった」
「先に?」
「うちのギルドで、君の経歴を理由に軽んじる相手には、ギルドマスターが最初に釘を刺す。それが筋だ」
理屈としては通っている。ギルドマスターが組織の人間を守る姿勢を見せることは、対外的な信頼にもつながる。
——でも、あの瞬間のレオナルドの目は、筋として語る目ではなかった。
「仕事としての判断です?」
聞くつもりのなかった言葉が、口から滑り出る。
レオナルドが一瞬だけ動きを止めた。
「……半分は」
「残りの半分は?」
沈黙。
レオナルドが窓の外に目をやった。午後の光が、柔らかく差し込んでいる。
「——君に嫌な思いをさせたくなかっただけだよ」
静かな声だ。飾りのない、まっすぐな言葉。
思わず息を呑んだ。
距離を取ると決めたのに。線を引いたのに。この人は、線の外側から手を伸ばしてくるのではなく、線の外側にいたまま、温かいものを置いていく。
「……ありがとうございます」
それ以上は、言えなかった。
***
ヴィットリオが口にした言葉が、仕事を終えた後も頭の隅に残っていた。
崩壊。ギルドマスターの行方が知れない。
執務室に戻ってからも、ペンを持つ手が時々止まる。依頼書の文字を追っているはずの目が、知らないうちに窓の外を見ている。
紅蓮の剣が崩壊した。
噂としては聞いていた。ガルシアたちが来た時点で、もうまともに回っていないことは分かっていた。でもそれを他人の口から聞くと、想像していたよりも重かった。
ロレンツォが行方不明。
あの男が逃げるとは思えない。逃げる知恵があるなら、もっと早くに手を打っていたはずだ。ということは——ソフィア。彼女と一緒にいるのだろうか。
ソフィアの本質に、私は薄々気付いていた。危険な依頼に輝く瞳。管理されることへの本能的な忌避。あの笑顔の奥にある歪み。気付いていたのに、止められなかった。ロレンツォに届かなかった。
——今さら何を考えているのだろう。
紅蓮の剣はもう私のギルドではない。ロレンツォはもう私の婚約者ではない。あの場所に戻る理由はなく、戻りたいとも思わない。
でも。
あのギルドに残っていた冒険者たちは——他に行く当てがなくて残っていた者たちは、今どうしているのだろう。崩壊したギルドから放り出されて、行く先があるだろうか。
ただ、心配だった。
自分でも厄介な性分だと思う。追い出された場所の人間のことを忘れられない。あの夜、喝采を上げた冒険者もいたというのに。
「——ジュリエッタ」
執務室の扉が開いた。レオナルドが外套を羽織って立っている。
「まだ仕事をしてたのか。もう日が暮れるぞ」
窓の外を見ると、確かに空が暗くなり始めていた。会議が終わってから随分経っていたらしい。
「すみません、少し考え事をしていて」
「……ヴィットリオが言っていたことか?」
見抜かれている。この人には、隠し事が通じない。
「——少しだけ」
正直に言った。嘘をつく気力がない。
「紅蓮の剣が崩壊したと聞いて。分かっていたことなのに、他人の口から改めて言われると」
どれだけ言葉を探しても、うまく言い表せない。
「十年いた場所ですから。壊れたと聞いて何も感じないほど、割り切れてはいなかったみたいです」
レオナルドは何も言わなかった。頷きもしなければ、慰めの言葉もかけなかった。
代わりに、外套のボタンを留めながら言った。
「少し歩かないか」
「……え?」
「今日の契約の話、いくつか確認したいことがある。歩きながらでいいだろう」
仕事の話。そう言われれば、断る理由はない。
——二週間前から何度も使っている、お互いの建前。
***
ギルドの外に出ると、夕暮れの風が吹いていた。冷たくはない。春が近づいている匂いがする。
レオナルドと並んで歩く。半歩の距離。私がここ二週間守り続けている距離。レオナルドはその半歩を詰めようとしない。
「ファルネーゼの巡回契約、編成はどう組む予定だ?」
「季節ごとに三パターン用意します。春から夏は繁殖期の魔獣に対応する機動型、秋は収穫期の街道警備を兼ねた広域型、冬は巣に籠もる大型種への少数精鋭型」
「冬の少数精鋭は誰を想定してる?」
「ガルシアを軸に、エミリオの魔術支援をつけます。ガルシアは大型種の経験が豊富ですし、エミリオの索敵魔術があれば巣の位置を事前に特定できる」
「なるほど。——いい組み合わせだ」
仕事の話をしている間は、自然に呼吸ができる。考えるべきことがはっきりしていて、感情の入り込む隙がない。
街の通りを抜けて、川沿いの道に出た。夕暮れの水面がぼんやりと光っている。
「レオナルド、確認したいことは」
「ああ——もう全部聞いたよ」
「……え?」
「確認したかったのは二つだけだった。あとは歩くための口実だ」
思わず立ち止まった。レオナルドを見上げると、少しだけばつの悪そうな顔をしている。
「……仕事の話だと思ったから、ついてきたんですけど」
「嘘は言ってない。確認事項はあった。二つだけだったけど」
正直に言うと、少し呆れた。でも怒る気にはならない。
川沿いのベンチが目に入る。レオナルドはそこに向かって歩き出し、当然のように隣に座った。半歩の距離。ベンチの上でも、律儀にその間隔が保たれている。
しばらく黙って川を見ていた。水の音だけが聞こえる。
「紅蓮の剣のこと」
レオナルドが、前を向いたまま口を開いた。
「君が気にしているのは、残っていた冒険者のことだろう」
「……はい」
見抜かれている。——いつもそうだ。
「行く当てがない冒険者がいるなら、うちで受け入れることはできる。全員は無理でも、査定をして適性があれば」
「……それは、ギルドマスターとしての判断ですか」
「ギルドマスターとしては、人手が増えるのは助かる。新しい契約も増えているからな」
レオナルドがこちらを向いた。
「でも、それだけじゃない」
「……」
「君が心配していることを、放っておけないだけだ」
——また。
この人は、また線の外側から温かいものを置いていく。
私が引いた線を越えずに、私が気にしていることに手を差し伸べる。仕事の建前を使って外に連れ出し、聞いてくれと言わないのに聞く姿勢を見せ、私が口にする前に答えを用意している。
ずるい。この人は本当に、ずるいくらい優しい。
「……ありがとうございます」
声が少しだけ震えた。それを隠すように、川面に目を落とす。
「それと——」
レオナルドが、ベンチの上に小さな包みを置いた。
「これは?」
「さっきギルドを出る前に買った。焼き菓子。二つ入りだったから」
二つ入りだったから。——最初から二人で食べるつもりで買っている。それを「二つ入りだった」という言い方にするところが、この人らしい。
包みを開けると、蜂蜜の香りがした。小さな焼き菓子が二つ、並んでいる。一つを取って口に含むと、ほんのりとした甘さが広がった。
「……おいしいです」
「だろう?」
レオナルドが、嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ると、じわりと何かがこみ上げてくる。
距離を取ると決めた。線を引いた。この優しさに慣れすぎないように。でも——
ここに座っている。レオナルドの隣で、焼き菓子を食べている。川の音を聞いている。仕事の建前を互いに使いながら、結局こうして二人でいる。
距離を取っているのに、離れられていない。
それは私が弱いからなのか。それとも——
「帰ろうか」
レオナルドが立ち上がった。空はもう暗い。
「送るよ。——ギルドまでだから、仕事の延長だ」
「……そういうことにしておきます」
並んで歩き出す。半歩の距離。
ギルドの前に着いた時、レオナルドが足を止めた。
「ジュリエッタ」
「はい」
「星の道標は君の場所だ。それは変わらない」
前を向いたまま、静かに言った。
「おやすみ」
「——おやすみなさい」
レオナルドの背中を見送って、ギルドに入った。
執務室に戻ると、窓際の棚に淡い黄色の押し花がある。二週間前と変わらず、そこにある。
机の上に、今朝レオナルドが持ってきた茶葉の包みが置いてある。
引き出しの中に、遠方の街の菓子の包み紙が畳んでしまってある。捨てられなかったのだ。
こんなつもりでは、なかったのに。
レオナルドが置いていくものひとつひとつが、この部屋に積もっている。小さくて、さりげなくて、断る理由がないものばかり。一つひとつは些細でも、積み重なれば部屋の景色が変わる。
そしてその景色を、私は心地よいと思っている。
怖い。
でも——寂しくは、ない。
それがもっと怖かった。




