第11話 影
その馬車は、星の道標にはあまりに不釣り合いだった。
朝の依頼書を確認している時、窓の外に漆黒の馬車が停まるのが見えた。二頭立て。馬の毛並みは手入れが行き届き、車体には金の装飾が施されている。御者の服装だけでも、この界隈では見かけない上等な仕立てだと分かる。
受付の事務職員たちがざわめく。私も手を止めて階段を降りた。
馬車から降りてきたのは、銀髪を後ろに撫でつけた壮年の男性。黒い外套の胸元に、小さな紋章が刺繍されている。見覚えがある。レオナルドの——ヴァレンティーニ家の家紋だ。
男は受付の前に立ち、周囲を一瞥した。ギルドの内装を眺める目に、あからさまな軽蔑はない。だが「こういう場所なのか」という品定めの視線が、丁重な物腰の隙間から透けていた。
「レオナルド・ヴァレンティーニに取り次ぎを。ヴァレンティーニ家執事、セルジオと申します」
執事。使用人の中でも最上位だ。家の当主が直接来るほどではないが、執事を寄越すというのは相当の用件を意味する。
私が対応に出ると、セルジオの視線がこちらに向いた。
「サブマスターのジュリエッタです。レオナルドに取り次ぎますので、少々お待ちください」
「——お手数をおかけする」
一拍の間があった。冒険者ギルドのサブマスターという肩書を、脳内で位置づけているような間。貴族の家の人間にとって、ギルドの事務方は使用人と大差ない存在なのだろう。
レオナルドを呼びに行くと、彼は奥の訓練場で若い冒険者に剣の構えを教えていた。
「レオナルド、お客様です。ヴァレンティーニ家の執事のセルジオという方が」
名前を聞いた瞬間、レオナルドの表情が変わった。
変わった、というより——固まった。普段の穏やかさが消え、代わりに現れたのは、感情を意識的に平坦にした顔だった。この人がこんな顔をするのを、初めて見る。
「……わかった。会議室に通してくれ」
「はい」
「——ジュリエッタ」
踵を返しかけた私を、レオナルドが呼び止めた。
「同席は——」
少し迷ってから、レオナルドは首を振った。
「いや、いい。一人で話す」
一人で。
普段のレオナルドなら、外部との面会には私を同席させる。ギルドの運営に関わることなら尚更だ。それを断るということは、これはギルドの用件ではない。
「わかりました」
それだけ答えて、セルジオを会議室に案内した。
セルジオは会議室に入る前に、廊下を一度だけ見回した。壁にかかった依頼掲示板、冒険者たちの装備が立てかけられた棚、使い込まれた床板。その目が何を思っているかは、想像がつく。
——こんな場所に、ヴァレンティーニ家の人間がいるのか。
会議室の扉が閉まった。
レオナルドが中に入り、扉が完全に閉じる直前。一瞬だけ彼がこちらを見る。その目が何かを伝えようとして、けれど言葉にはならなかった。
扉が閉まる。
——私には、関係ない。
自分に言い聞かせて、私は執務室に戻った。
***
仕事をしよう。
机に着いて、今日の依頼書を広げた。ファルネーゼ伯爵との定期巡回契約が始動して以来、編成の調整が日課になっている。来月から秋の巡回に切り替わるので、広域型の編成案を詰めなければならない。
ガルシアの斧は丘陵の開けた地形で活きる。リナの弓は視界の良い場所での索敵に向いている。エミリオの魔術は——
会議室では今、何を話しているのだろう。
——集中しろ。
ペンを握り直す。エミリオの索敵魔術の有効範囲は半径約二百歩。丘陵地帯では遮蔽物が少ないため、もう少し伸びるはずだ。それを前提にすると、巡回ルートの中継点の間隔は——
扉を叩く音がした。
「サブマスター、少しいいか」
ガルシアだった。大きな体を扉の枠に収めるように立っている。
「どうしました」
「来週のリーヴェ方面の討伐、編成を見たんだが——」
ガルシアが椅子に腰を下ろして、依頼書の写しを広げた。
「この組み合わせ、よく考えてあるな。前衛に俺とマルコ、索敵にエミリオ、後方支援にリナ。地形を考えるとこれがベストだ」
「マルコは盾の扱いが上手いので、ガルシアの斧と相性がいいと思いました。丘陵の開けた地形なら、リナの弓も通りやすい」
「ああ。——正直に言うと、紅蓮の剣にいた頃は編成の意味がよくわかっていなかった。ジュリエッタが組んだ通りに動いて、上手くいって、それが当たり前だと思っていた」
ガルシアが頭を掻いた。照れているらしい。この大男が照れると、妙に愛嬌がある。
「ここに来て、編成の理由を一つずつ説明してもらえるようになって、初めてわかった。あんたの采配で俺たちがどれだけ守られていたか」
「……大げさですよ」
「大げさじゃない。——サブマスターがいるから、安心して前に出られるんだ」
ガルシアは照れ隠しのように立ち上がって、「じゃあ、来週よろしく頼む」と言い残して出ていった。
安心して前に出られる。
その言葉が、じわりと胸に広がった。紅蓮の剣では、こういう言葉をもらったことがなかった。当たり前にこなしていた仕事を、当たり前だと思われていた。それが悪いことだとは思わない。でも——言葉にしてもらえると、こんなにも違うのだ。
ガルシアが去った後、今度はリナが顔を出した。
「サブマスター、これ、ファルネーゼの巡回の中間報告書です。——あと、今日お昼食べました?」
「……まだです」
「やっぱり。受付の子が『ジュリエッタさんは今日も昼抜きだ』って心配してましたよ。何か買ってきましょうか」
「いえ、大丈夫です。この書類を片付けたら食べます」
「本当ですか? 前も同じこと言って夕方まで食べなかったじゃないですか」
リナが腰に手を当てて、半分呆れたように笑っている。
「……本当です」
「信用しませんからね。一時間後に見に来ます」
リナが去って、執務室が静かになった。
心配してくれる人がいる。仕事を認めてくれる人がいる。この場所で、私は確かに必要とされている。
——仕事では。
仕事の充実は本物だ。ここでの私には価値がある。自分で作った仕組みが回り、冒険者が信頼してくれて、顧客が増えている。
それなのに。
視線が、つい窓の外に向かう。会議室は一階の奥にある。ここからは見えない。見えないのに、あの閉じた扉のことを考えている。
レオナルドが一人で向き合っているもの。貴族の家。折り合いの悪い実家。冒険者でいることを認めない家族。
あの固まった表情が、頭から離れない。
——踏み込むな。
あれは、レオナルドの個人的な問題だ。ギルドの運営に関わることなら口を出す権限があるが、家の問題は違う。サブマスターが立ち入る領分ではない。
ましてや、距離を取ると決めたのだ。線を引いたのだ。ここで気にかけてしまったら——
ペンを握り直す。巡回ルートの中継点。間隔は——
集中できない。
自分自身への苛立ちがわく。仕事に集中すればいい。それだけのことなのに。上手く頭が回らない。
結局、ファルネーゼの編成案を書き終える頃には、二時間が経っていた。普段なら一時間で済む作業だった。
***
廊下に足音が聞こえた時、思わず背筋が伸びた。
——レオナルドの歩き方だ。靴底を引きずらない、軽くて均等な歩幅。毎日聞いている足音を、体が覚えている。
足音は執務室の前を通り過ぎて——止まった。戻ってくる。
扉が叩かれた。
「ジュリエッタ。終わったよ」
扉を開けると、レオナルドが立っていた。表情は普段に戻っている。あの固まった顔はもうなく、いつもの穏やかな目をしている。——ただ、少しだけ疲れているように見えた。目元にほんの微かな影がある。
「お疲れ様です」
それだけ言った。聞きたいことはある。でも、聞かない。踏み込まない。サブマスターとして必要な情報なら、レオナルドのほうから言うはずだ。ギルドに関係のないことなら——
「縁談の話だったよ」
あっさりと、レオナルドが言った。
廊下に立ったまま、何でもないことのように。明日の天気の話でもするような口調で。
「実家が持ってきた縁談。北東のカヴァルカンティ家の令嬢と結婚しろ、という話だ」
「……そうですか」
声が揺れなかったことに、自分で安堵した。
「断った」
それも、あっさりと。
「理由も聞かれなかった。セルジオは昔から僕の世話をしてくれていた人でね。僕が何を言うか、来る前からわかっていたと思う。それでも持ってくるのが執事の仕事だと言っていた」
レオナルドは壁に肩を預けて、少しだけ苦笑した。
「真面目な人だよ。仕える家のために、断られるとわかっている話を、わざわざ馬車を仕立てて持ってくる」
聞かないつもりだった。踏み込まないつもりだった。
なのに、勝手に口が動く。
「——それで、終わるんですか」
言ってしまってから、後悔した。これは踏み込み過ぎている。サブマスターの領分ではない。
レオナルドが、少しだけ目を細めた。驚いたというよりは、私がそれを聞いてきたことを、噛みしめるような表情だった。
「……終わらないだろうな」
静かに告げる。
「うちは一度で引き下がるような家じゃない。断っても次が来る。次を断れば、その次が来る。カヴァルカンティ家でなければ別の家を持ってくる。家にとっては跡取りの結婚は家の存続の問題だから、僕一人の意思で止まる話じゃない」
分かっていた。貴族の縁談とは、そういうものだ。当人が断れば終わる単純な話ではなく、家と家の利害が絡み合った構造の問題で、一度断ったくらいでは止まらない。
「でも」
レオナルドが壁から背を離した。
「僕は断り続ける。何度来ても」
まっすぐな、迷いのない目。冒険者として剣を構える時と同じ目をしている。
「……ギルドのためですか」
また、聞いてしまった。聞くつもりがなかったのに。私の質問に、レオナルドは少しの間口を閉ざした。
「——半分は」
前と同じ答えだった。
「残りの半分は?」
「それは——」
レオナルドが言葉を切る。何かを言いかけて、飲み込んだ。そのわずかな躊躇が、いつも飾らないこの人には珍しい。
——その瞬間、見てしまった。壁に預けていた肩が離れた時、レオナルドの右手が一瞬だけ拳を握っていた。すぐに開かれたから、見間違いかもしれない。でも、あの手が——剣を振るう時にも震えないあの手が、きつく握りしめられていた。
「……今は、まだ言わないでおく」
笑っていた。穏やかに。でもその笑顔になるまでに間があった。言葉を飲み込んでから笑顔を作るまでの、短い空白。
レオナルドは踵を返す。
「仕事に戻るよ。——ファルネーゼの巡回編成、できてるか?」
「はい。机の上に置いてあります」
「後で見る。——ありがとう、聞いてくれて」
その言葉だけ、声が柔らかかった。
そのまま足音が遠ざかっていく。
執務室の椅子に座り直して、私は自分の胸に手を当てた。
——ほっとしている。
断った、と聞いて。ほっとしている自分がいる。
距離を取ると決めたのに。線を引いたのに。レオナルドの縁談など、サブマスターには関係のないことなのに。
ほっとした。それが何を意味するのか、分からないふりはもうできなくなりつつあった。
***
日が傾き始めた頃、レオナルドが執務室に来た。
手に持っていたのは、湯気の立つ陶器のカップだった。
「新しい茶葉、淹れてみた。——口に合ったか聞いていなかったから」
受け取ると、馴染みのある香りの中に、少しだけ新しい甘さが混じっている。優しい味だった。
「……おいしいです」
「よかった。来月の依頼でまたあの市場を通るから、同じものを見つけたら買ってくる」
何でもない会話。何でもない差し入れ。
数時間前に貴族の縁談を断った男が、サブマスターのために茶を淹れて持ってきている。家の圧力も、政略結婚の話も、この人の日常を全く変えていない。
「それと——」
レオナルドが執務室の隅に目をやった。壁にかかった外套掛けに、見覚えのないものがかかっている。
「今日は冷えるから。夜まで残るなら使ってくれ」
上等な外套だった。裏地に柔らかい毛織物が貼ってある。男物だが、仕立てが良い分だけ重くない。
「……これは?」
「昔、実家にいた頃に使っていたものだ。ギルドに置きっぱなしにしていたんだけど、僕には少し薄手だから。——君のほうが使うだろう」
全てが、受け取りやすい理由で包まれている。断る理由がないように、好意を気遣いの形に変換して差し出してくる。
——この人は本当に、ブレない。
政略結婚の話があった日も、なかった日も、同じように茶を淹れて、同じように気にかける。家の問題がどれだけ重くても、それを理由にこちらへの態度を変えない。
受け取るべきではないと思った。
でも外套を手に取った時、裏地の毛織物が掌に触れて――その温かさに、指が離れなかった。
「……ありがとうございます。お借りします」
「ああ。——じゃあ、僕はファルネーゼの編成案を見てくる」
レオナルドが去った後、外套を肩にかけた。
大きかった。肩幅が合わず、袖が手の甲まで覆う。男物だから当然だ。でも裏地が温かくて、一日分の冷えがすうっと溶けていく。
微かに、レオナルドの匂いがした。鎧の金属と、革と、それからかすかに森の匂い。冒険者の匂いだ。
——ずるい。
この前初めて浮かんだその言葉。今日はもう何度目だろう。
窓の外は暗くなり始めていた。レオナルドの外套を肩にかけたまま、巡回編成の修正案に目を落とす。
……こんな毎日が続けばいいのに、と不意に思った。




