第7話 距離
星の道標が変わり始めていた。
私が作った依頼の査定基準は、今では受付の事務職員たちにも共有されている。難易度の評価方法、依頼書の裏を読むチェックリスト、判断に迷った時の報告基準。全てを文書にまとめて、繰り返し説明した。
最初は戸惑っていた事務職員たちも、今では掲示板に張り出す前に自分たちで一次査定をかけている。私の確認が必要なのは判断が難しい案件だけになり、日常的な依頼の流れは止まらなくなった。
冒険者の適性記録も充実してきた。得意な武器、地形との相性、他の冒険者との連携の癖。一人ひとりの情報が蓄積されるほど、編成の精度が上がる。編成の精度が上がれば、任務の成功率が上がり、怪我人が減る。
仕組みが回り始めている。私に依存しない方法で。
——紅蓮の剣では、こうはならなかった。
あのギルドでは、査定も配置も私の頭の中にしかなかった。文書化しようとしたことはあるが、ロレンツォが「そんな堅いことをしなくても回ってる」と取り合わなかった。回っていたのは私がいたからで、私がいなくなれば全て止まる。そのことに、ロレンツォは気づいていなかった。
ここでは、仕組みを作ることを誰も止めない。むしろ事務職員たちが自分から「これはどう判断すればいいですか」と聞きに来る。その回答は手順書となってすぐに皆の知識となった。学ぼうとしてくれる人がいる職場は、作り甲斐がある。
執務室の窓から差し込む午後の光の中で、契約書のたたき台に目を通していると、扉を叩く音がした。
「ジュリエッタ、戻ったよ」
レオナルドが鎧姿のまま顔を出した。数日がかりの討伐依頼から帰ってきたらしい。鎧の肩口に乾いた泥がこびりついている。
「お疲れ様です。怪我はないですか」
「かすり傷ひとつない。……はい、これ」
差し出されたのは、小さな包みだった。開けると、淡い黄色の花の押し花が入っている。
「依頼先の山道に咲いていた。名前は知らないんだけど、君の部屋に合いそうだと思って」
戦場帰りの男が、山道の花を摘んで持ち帰っている。国一番の冒険者がやることだろうか。
「……ありがとうございます」
押し花を窓際の棚に立てかけた。質素だった執務室に、小さな色が加わる。
こういうことが、最近は当たり前になっていた。依頼から戻るたびにレオナルドは何かを持ってくる。珍しい茶葉、遠方の街の菓子、磨けば宝石になるだろう綺麗な石。大仰な贈り物ではなく、鞄の隅に入る程度の小さなもの。
それを渡す時のレオナルドの顔は、決まって少しだけ照れている。その表情を見ると、不思議と安心するのだ。
「それと、報告があります」
押し花を棚に置きながら、私のほうから話を切り出す。
「留守の間に、ベルナルディ商会から正式な打診がありました。来月の便だけでなく、年間の護衛契約を結びたいと。ベルナルディ様本人がギルドまで出向いてきました」
あの横柄だった商人が、わざわざ足を運んだのだ。先月の試行護衛で変動編成の効果を実感したらしく、態度が初回とは別人だった。条件交渉の下地は既に整えてある。
「年間契約……」
レオナルドが目を見開いた。大口顧客との年間契約は、ギルドの経営基盤を一変させる。毎月の護衛依頼が安定収入になり、冒険者の生活も安定する。新興ギルドにとっては大きな節目だ。
「本当か」
「はい。契約の詳細はこれから詰めますが、先方の意思は固いと見ています」
レオナルドの表情が、驚きからじわりと喜びに変わっていく。
「……君のおかげだ。変動編成を提案したのは君だ」
「提案しただけです。護衛の冒険者たちが実際に仕事をこなしたからこそ、信頼に繋がりました」
——でも、嬉しかった。
自分が提案した編成が認められて、ギルドの経営を支える契約に繋がった。紅蓮の剣では当たり前にやっていたことだが、ここでは全て自分の手で一から組み立てた。その成果が、目に見える形で返ってきている。
「それなら——」
レオナルドが少し改まった顔をした。
「今夜、食事に行かないか。年間契約の祝いと、今後の方針の打ち合わせを兼ねて」
仕事の打ち合わせ。それなら断る理由はない。
「いいですよ。どこに行きますか」
「東区の奥に、小さいけど良い店がある。ギルドの連中には内緒だ、取られるから」
最後の一言が冗談なのか本気なのか判断がつかない。ただレオナルドの目が楽しそうだったので、それで良いと思った。
***
日が暮れて、レオナルドに連れられたのは路地裏の小さな食堂だった。
看板もない。知らなければ通り過ぎてしまうような、石壁に木の扉がひとつあるだけの店。扉を開けると、焼いた肉とハーブの香りが温かい空気と一緒に溢れ出てきた。
席は六つしかない。窓際の奥まった席に案内されると、主人が黙って水差しとパンを置いていった。レオナルドとは顔馴染みらしい。
「依頼で遠出した帰りに見つけた店でね。料理は素朴だけど、素材がいい」
運ばれてきたのは、煮込んだ豆とソーセージ、焼いた川魚にレモンを絞ったもの、それからパンに添える自家製のチーズ。飾り気のない料理だが、一口食べて納得した。味が、しっかりしている。
「……おいしい」
「だろう? 見つけた時は嬉しくてね。いつか誰かを連れてこようと思ってた」
その誰かが私だったのかどうかは、聞かないでおいた。
最初は仕事の話をしていた。ベルナルディとの年間契約の条件、今後の人員計画、受けられる依頼の幅の拡大。話しているうちに、自然と話題が移っていく。
「レオナルドは、いつから冒険者になろうと思ったんですか」
聞いてから、少し踏み込みすぎたかと思った。彼が貴族の家と折り合いが悪いことは知っている。
けれどレオナルドは嫌がる様子もなく、グラスの水を一口飲んでから答えた。
「小さい頃、家の書庫に冒険者の手記があったんだ。曽祖父が若い頃に冒険者をしていたらしくて、その記録。読んだ瞬間に、これだ、と思った」
「曽祖父様が冒険者だったんですか」
「家では黒歴史扱いだけどね。貴族が剣を振り回して魔獣を追い回すなんて恥だ、と。でも手記を読む限り、曽祖父は楽しそうだった。自分の力で道を切り開いて、仲間と笑って、傷だらけで帰ってくる。そういう生き方に——憧れた」
レオナルドの声が柔らかい。大事な思い出を、話してくれている。
「家族には反対された。当然だろうな。跡取りが冒険者になりたいと言い出したんだから。でもやめられなかった」
「やめようとは思わなかったんですか?」
「何度も思ったよ。ギルドに入るたびに貴族だとバレて、腫れ物扱いか嫌がらせ。実力を見てもらえない。名前だけで判断される。紅蓮の剣もそうだった」
そこで、レオナルドが少し笑った。
「——君に会うまでは」
「私は普通にしていただけです」
「その普通が、どこにもなかったんだよ」
落ち着いた言い方だった。感傷ではなく、事実を述べている声。
「名前じゃなくて腕を見てくれた。実力に合わない依頼を受けようとしたら止めてくれた。特別扱いしないことが、僕にとっては特別だった」
そう言って、レオナルドが川魚の骨を丁寧により分けた。手先が器用だ。剣を振る手と同じ手で行われる、繊細な仕草。こう言うところに、身分の違いを感じてしまう。貴族だからではなく、レオナルドだからなのに。
「だからギルドを作ると決めた時、最初に浮かんだのは君の顔だった」
頬がほんのりと熱を持つ。
この人の言葉には裏がない。飾りでも駆け引きでもなく、思ったことをそのまま口にしている。それが心地よくて、同時に少しだけ怖い。
「君はどうだったんだ? 冒険者ギルドで働こうと思ったきっかけは」
「私は……特別なきっかけはないんです。ロレンツォが人手を必要としていて、幼なじみの私が手伝い始めて、気がついたらサブマスターになっていた」
「でも、十年も続けたんだろう? 向いていなければそんなに続かない」
「……そうですね。最初は頼まれたから始めただけでしたが、いつの間にか好きになっていたんだと思います。依頼の裏まで読み込んで、冒険者の実力を見極めて、全員無事に帰ってくる。その瞬間が」
「好きなんだな」
「——はい」
自分で言って、少し驚いた。こんなにはっきり『好き』と言ったのは初めてかもしれない。紅蓮の剣にいた頃は、好きかどうかを考える余裕もなかった。目の前の仕事をこなすだけで精一杯で、それが当たり前で、やめるという選択肢がなかっただけだった。
でも今は、選んでここにいる。自分の意志で。
「やっぱり、君に来てもらえてよかった」
レオナルドが微笑みながら言う。
「君がいなきゃ、このギルドは回らない」
——手が、止まった。
パンを千切ろうとしていた指が、動かなくなる。
『お前がいなきゃ回らないんだ、ジュリエッタ』
ロレンツォの声が、頭の中で重なった。
昔の声だ。追放されるより、もっとずっと前の。ギルドを始めたばかりの頃、初めての大きな依頼を成功させた夜に、ロレンツォがくしゃりと笑って言った言葉。あの頃はまだ、ロレンツォも私の仕事を認めてくれていた。
認めてくれていた——はずだった。
それなのに、捨てられた。
十年かけて支え続けた相手に、「臆病者は要らない」と突き放された。
レオナルドは違う。この人は私の仕事を理解している。何ができるかを知っていて、その上で必要だと言ってくれている。ロレンツォとは違う。
わかっている。頭では、わかっている。
でも——ロレンツォだって、最初はそうだったのだ。
最初は認めてくれていた。最初は必要だと言ってくれていた。それがいつの間にか変わって、最後には「要らない」になった。同じことが、また起きないと誰が言えるだろう。
今この距離が心地よいと感じているからこそ、怖い。失った時の痛みが、心地よさの分だけ大きくなる。レオナルドとの関係が深くなればなるほど、裏切られた時に立ち直れなくなる。
ロレンツォの時は、まだ耐えられた。あれは『なんとなく』の関係だったから。決められた道の上を歩いていただけだったから。
でもレオナルドとの関係は、自分で選んだものだ。自分の意志で選んだものを失ったら——
「——ジュリエッタ?」
レオナルドの声で、意識が戻った。
パンをちぎる手が止まったまま、どれくらい黙っていただろう。
「あ——すみません。ベルナルディ様との契約条件のことを考えていて」
嘘だった。咄嗟に出た、下手な嘘。
「年間契約の場合、護衛の拘束日数を月ごとに変動させるか、固定にするかで冒険者の負担が変わります。そのあたりの設計を早めに——」
口が勝手に仕事の話を並べている。話題を変えなければ。この空気を壊さなければ。さっきまでの柔らかい時間に、暗いものを持ち込みたくなかった。
「……そうだな。確かにそのあたりは詰めておかないと」
レオナルドは応じてくれる。声は穏やかだったが、返答に一瞬の間があった。
彼は、さっきまでと空気が変わったことに気づいている。
でも、追及しなかった。パンをちぎって口に運び、「この店のパン、少し酸味があるのがいいんだ」と何でもないことを言う。
その気遣いが、ありがたい。でも同時に、申し訳なかった。
食事の残りは、仕事の話で埋めた。護衛編成の改善案、新しい依頼の開拓先、冒険者の育成方針。どれも必要な話ではあったけれど、さっきまでの温度はもう戻らない。
私が、戻さなかった。
***
食堂を出ると、冷たい夜風が吹き抜けていく。
「送っていくよ」
レオナルドが当然のように言った。
「——いえ。今日のうちに済ませたい仕事があるので、ギルドに寄ります」
嘘ではなかった。ベルナルディとの契約条件の整理は早いに越したことはない。でも、本当の理由はそこではないことを、自分でもわかっていた。
二人きりで夜道を歩く時間を、これ以上長くしたくなかっただけだ。
「……こんな時間から?」
「書式を揃えておけば、次の交渉がスムーズに進みます」
レオナルドは少しの間黙って、それから頷いた。
「わかった。じゃあ、ギルドまでは一緒に行こう。途中までは同じ道だ」
断る理由がなかった。並んで歩く。会話は途切れがちで、私は意識して半歩分の距離を保っていた。
サブマスターとして歩くなら隣の位置だと、最初の夜に自分で決めたのに。今は半歩が、丁度いい距離に思える。
「今夜は楽しかった」
レオナルドが言った。前を見たまま、穏やかな声で。
「……私もです」
嘘ではない。楽しかったのは本当だ。レオナルドの過去の話を聞いて、自分の仕事を「好きだ」と言えて、この人と過ごす時間が心地よいと確かに思った。
——だからこそ、怖くなった。
ギルドの前に着くと、レオナルドが立ち止まる。
「ジュリエッタ」
「はい」
「……あまり根を詰めないで。おやすみ」
何か別のことを言いかけて、飲み込んだように見えた。レオナルドの目が少しだけ翳っていたのは、街灯のせいだろうか。
「おやすみなさい」
彼の背中が夜道に消えていくのを見届けてから、ギルドの扉を開けた。
誰もいない廊下を通って、二階の執務室に入る。
窓際の棚に、今日レオナルドが持ってきた押し花が立てかけてある。淡い黄色が、夜の暗がりの中でぼんやり光っている。
椅子に座って、契約書の書類を広げた。でも、ペンを取る手が動かない。
——明日からは、少しだけ距離を取ろう。
仕事に支障が出ない範囲で。レオナルドに不審がられない範囲で。この温かさに慣れすぎないように。
そう決めたのに、押し花を片付けることはできなかった。
明日は二話まとめての投稿になります。




