第3話 新天地
朝の光の中で見るレオナルドのギルド――『星の道標』は、思っていたよりもずっと小さかった。
昨夜はレオナルドに連れられて裏から入り、書類の山と格闘しているうちに夜が明けた。薄暗い書庫ので紙束とにらめっこしていただけだから、建物の全体像をまともに見るのはこれが初めてだ。
東区の通りを一本入った先。石造りの二階建てで、看板は木の板に白い星が一つ描かれただけのもの。紅蓮の剣の酒場が三つ入りそうな広さの建物と比べると、まるで規模が違う。
「……こぢんまりしていますね」
「はっきり言うなあ」
隣のレオナルドが苦笑する。一睡もしていないせいで、目の下にうっすら隈がある。国一番の冒険者も徹夜には勝てないらしい。
もっとも、私も人のことは言えない。一睡もしていないのに頭は妙に冴えていた。
扉を開けると、朝の光が差し込む受付に数人の冒険者がいた。
目を引いたのは、その空気だった。
紅蓮の剣の冒険者たちは、どこか気の大きさを競うような空気があった。声が大きい方が偉い、度胸がある方が正しい。ロレンツォがそういう雰囲気を好んだから、ギルド全体がそうなっていた。
ここの冒険者は違った。人数は少ないが、皆が落ち着いている。受付に並ぶ姿勢にも、依頼書を読む横顔にも、浮ついたものがない。
レオナルドが私を紹介すると、彼らは礼儀正しく頭を下げた。好奇の目はあったが、値踏みするような空気はなかった。
「レオナルドが連れてきた人なら信用できる、って顔をしてますね」
「それ、褒めてる?」
「半分は。残りの半分は、私が何をする人間かまだ知らないのに信用しているのは少し危ないな、と」
レオナルドが小さく吹き出した。
「じゃあ、仕事で証明してくれ」
「そのつもりです」
***
「ここが君の部屋だ」
二階の廊下の奥、レオナルドに案内された部屋の扉を開けて、私は足を止めた。
ギルド全体の質素さとは、明らかに釣り合わない部屋だった。
窓際に置かれた机は、高さが絶妙に調整されている。長時間書類仕事をしても肩が凝らない高さ。椅子は座面が革張りで、背もたれの角度まで考えられたものだった。引き出しの中には上等な筆記具が揃っている。インク壺は三色。封蝋も印章も、新品が用意されていた。
壁の棚には空の記録帳が何冊も並んでいる。背表紙のないまっさらな帳面。私が自分のやり方で仕組みを作ることを前提にした、何も書かれていない帳面。
「……レオナルド」
「うん」
「受付の椅子は木の丸椅子でしたね」
「……うん」
「酒場のテーブルも、脚が一本がたついていましたね」
「…………うん」
「この部屋だけ、おかしくないですか」
レオナルドが視線を泳がせた。窓の外を見て、天井を見て、それからどうにも観念したように頭を掻いた。
「……君が来てくれると、信じていたから」
呆れた。
サブマスターが来るかどうかもわからない段階で、部屋だけは完璧に整えていた。他の設備はこれからだというのに。優先順位がおかしい。
「来なかったらどうするつもりだったんですか、この部屋」
「考えないようにしていた」
「…………」
何と言えばいいのかわからなかった。
呆れている。それは間違いない。けれど同時に、胸の奥がじんわりと温かくなっている。この人は私が断った後も、ずっと信じて待っていたのだ。
——紅蓮の剣では、こんなことはなかった。
あのギルドの仕事部屋は、私が自分で整えた。必要なものは自分で揃えて、使いやすいように自分で配置した。それが当たり前だった。誰かが私のために何かを用意してくれるなんて、考えたこともなかった。
だから、なおさら対処に困る。
「……ありがたく、使わせていただきます」
それだけ言って机の前に座った。椅子の座り心地が、腹立たしいほど良かった。
***
机に座ってからは、仕事の時間だった。
昨夜仕分けた書類を改めて精査する。ギルドの現状を把握するのがサブマスターの最初の仕事だ。
依頼の管理体制。分類はされているが、基準が統一されていない。難易度の評価が依頼主の自己申告のままになっているものが散見される。これは危ない。依頼主は自分の案件を軽く見積もる傾向がある。裏を取らなければ冒険者を死なせてしまう。
冒険者の実力記録。名前と大まかな等級は控えてあるが、得意な地形、戦闘の癖、他の冒険者との相性の記録がない。これでは最適な編成が組めない。
契約書の書式。依頼ごとにばらばらで、報酬の支払い条件が曖昧なものがある。大口顧客を取るつもりなら、ここを整えなければ信用を得られない。
問題は山積みだった。紅蓮の剣であれば致命的と言える水準だ。
でも——不思議と、暗い気持ちにはならなかった。
ここには、何もない。
何もないということは、何でも作れるということだ。
依頼の査定基準を一から作る。冒険者の適性記録の書式を設計する。契約書のひな形を整える。全部を、自分の手で。
指先が疼いた。これは、高揚だった。
課題を一つずつ書き出していく。紙の上に文字が増えていくたびに、仕事の輪郭が見えてくる。やるべきことが明確になる。明確になれば、あとは手を動かすだけだ。
気がつけば窓の外が夕焼けに染まっていた。一日中、席を立った記憶がない。
***
「どうだった?」
日が暮れてから、レオナルドが部屋に顔を出した。革鎧の上に土埃が薄くついている。日中は自分も依頼をこなしていたらしい。ギルドマスターが現役の冒険者を兼ねているのは珍しくないが、これだけの小所帯なら当然だろう。
「率直に言っていいですか」
「もちろん」
「依頼の査定基準が甘いです。難易度評価が依頼主の申告のままになっている案件がいくつかあります。このまま冒険者を送り出していたら、遅かれ早かれ事故が起きます」
レオナルドは黙って聞いていた。眉をひそめてはいるが、不快そうではなかった。
「冒険者の適性記録もほぼ白紙です。得意な武器や地形、仲間との相性が記録されていないと、最適な編成は組めません」
「……面目ない」
「それと、契約書の書式が統一されていません。大口の顧客を取りたいなら、まずここを整えないと信用されません」
全部言い切って、息をついた。
——言いすぎただろうか。
紅蓮の剣で同じことをすれば、ロレンツォは不機嫌になった。指摘のたびに顔を曇らせて、最後には「お前は文句ばかりだ」と言われるようになった。だから次第に言葉を選ぶようになり、遠回しに伝えるようになり——それでも結局、聞いてもらえなかった。
レオナルドの反応を窺う。
彼は腕を組んで、少し考え込むように天井を見た。それから——笑った。
「だから君が必要だったんだ」
拍子抜けした。
「怒らないんですか」
「何で怒るんだ。僕一人じゃ気づけなかったことを教えてくれたんだろう?」
さらりと言う。本当にさらりと。
「それに、問題が見つかったなら、直し方もわかるってことだ。そうだろう?」
「……そうですね。一週間もらえれば、査定基準と記録書式のたたき台は作れます。契約書のひな形はもう少しかかりますが」
「頼んだ。必要なものがあれば何でも言ってくれ」
レオナルドはそれだけ言って、ふと思い出したように付け加えた。
「あと、今日一日ずっと席に座っていただろう。食事は?」
「……」
「食べてないな」
「仕事に集中していたので」
「集中するのはいいけど、倒れられたら困る。酒場にまだ食事が残ってるはずだ。一緒に行こう」
仕事の問題を指摘されても顔色一つ変えなかった男が、食事を抜いたことには本気で眉をひそめている。
——この人は、変わっている。
そう思いながら椅子から立ち上がると、一日中座りっぱなしだった体がぎしりと軋んだ。
座り心地の良すぎる椅子のせいで、疲労に気づかなかったらしい。あの椅子の完璧さが、こういう形で裏目に出るとは思わなかった。
酒場に向かう廊下を並んで歩きながら、私はさっきのやり取りを反芻していた。
問題点を並べ立てても、怒らなかった。言い訳もしなかった。ただ受け止めて、「だから君が必要だった」と笑った。
ロレンツォなら——いや、もう比べるのはやめよう。
ここは紅蓮の剣ではない。ここは星の道標で、私は新しいサブマスターで、隣を歩いているのはレオナルドだ。
それだけのことだ。
——なのに、なぜか少しだけ、目の奥が熱くなった。
明日からは毎日一話投稿します。全話執筆済みなので、最後まで楽しんでいただけたら嬉しいです。




