第2話 迎え
「探したよ、ジュリエッタ」
二階の窓から見下ろすと、街灯の明かりの中にレオナルドが立っていた。金の髪に、琥珀色の目。数年ぶりに見る顔が、私を見上げている。
鞄を掴んで部屋を出た。どうせ荷物はまとめ終えたところだ。
古い木の階段を降りながら、息を整える。心臓がうるさいのは、急いだせいだと思うことにした。
表の戸を開けると、夜風と一緒にレオナルドの姿が飛び込んできた。窓から見た時より、ずっと近い。最後に会った時より逞しくなっている。街灯の影がそう見せているだけではないだろう。
「……どうして、ここに?」
「君の噂を聞いた——というのが半分」
レオナルドは少し困ったように目を逸らした。国一番の冒険者と呼ばれる男の、妙に子供じみた仕草だった。
「正直に言うと、ずっと君の動向を気にしていた。手紙の返事をもらった後もね」
断りの手紙のことだ。今にして思えば、素っ気ないとすら言える返事。それでもこの人は気にかけていた、と言う。
「……それに最近、紅蓮の剣の噂が少し変わってきていたから。気になっていたんだ」
それ以上は言わなかった。でも、十分だった。外に変化が漏れるほど、あのギルドはおかしくなっていたのだ。
「追放のことは、さっき耳に入った。だから来た」
街灯の明かりが琥珀色の目を照らしている。その目に同情の色はなかった。代わりにあったのは——待ちかねたような、けれどそれを必死に隠そうとしている不思議な光。
「火事場泥棒みたいで格好がつかないのはわかってる。でも——」
レオナルドが一呼吸置いた。
「ずっと君に来てほしかった。でも、君はあのギルドに必要な人だったから、無理には誘えなかった」
あのギルドに必要な人。
ロレンツォには、そうは思ってもらえなかったのに。
心臓が軋む。でも、それは痛みではなかった。もっと温かくて、だからこそ戸惑うような何かだった。
「僕のギルドを、君の手腕で支えてくれないか」
どこまでもまっすぐな言葉。駆け引きも飾り言葉もなく、ただ率直に。ロレンツォの演説とは何もかもが違う。
――即答は、できなかった。
レオナルドの申し出は嬉しい。こんな夜に駆けつけてくれたことも、ずっと気にかけていたという言葉も。
でも——つい数時間前まで、私はロレンツォのギルドを信じていた。十年間、自分の役目だと疑わなかった場所から、あっさり追い出された。信じることの怖さが、まだ胸の底にある。
「……少し、聞いてもいいですか」
「何でも」
「どうして、私なんですか」
レオナルドは少し考えるように目を伏せて、それから話し始めた。
「紅蓮の剣にいた頃、周りに貴族だとバレてからは散々だった。腫れ物扱いされるか、嫌味を言われるか。でも、君だけが違った」
覚えている。彼の身分は知っていた。昔のレオナルドは貴族の振る舞いが隠せていなかったから。でも、それで対応を変える理由はなかった。実力を見て依頼を振る、それがサブマスターの仕事だ。例え貴族だろうと、紅蓮の剣の一員ならば。ギルドに入った冒険者は、冒険者として扱う。それだけのことだ。
「君は僕の名前じゃなくて、僕の腕を見てくれた。紅蓮の剣の中で、そうしてくれたのは君だけだった」
レオナルドの声が少し低くなった。
「——あの時のことを、覚えているかな」
あの時。
言われなくても、わかった。レオナルドが紅蓮の剣を去る少し前のことだ。
周囲に煽られて、レオナルドが実力に見合わない依頼を受けようとした。高難度の討伐任務。当時の彼ではまだ早い案件。
周りの冒険者たちは誰も止めようとしない。貴族のくせに冒険者をやっている奴が痛い目を見ればいい——そんな空気が、酒場に漂っていた頃。
私はレオナルドの前に立った。
『あなたの実力なら、あと半年でその依頼を受けられるようになる。でも今日受けたら死にます』
突き放した言い方だったと思う。でも、あの場で優しい言葉は届かない。功を焦る若者にはありがちなことだ。なので事実だけを、真正面からぶつけた。
「あの一言がなかったら、僕は死んでいた」
レオナルドが静かに言うので、私は小さく首を振る。あの言葉で止まったのは、レオナルドに冷静さが残っていたからだ。だから、私の言葉が届いた。あそこで立ち止まれたのは、レオナルド自身の強さなのだ。
「短い間だったけど、紅蓮の剣にいてわかったことがある。あのギルドが回っていたのは、ロレンツォの力じゃない。君の采配だ」
――あの短い在籍期間で、そこまで見ていたのか。私は内心驚き、同時に納得する。そのくらい周りを見られる人間でないと、国一番と謳われる冒険者になんてなれないだろう。
「だからギルドを作ると決めた時、サブマスターは君しかいないと思った。立場に関係なく、実力を見て、命を守れる人間。そんな人を、僕は君以外に知らない」
夜風がレオナルドの髪を揺らす。琥珀色の目は真剣で、嘘がない。
沈黙が落ちた。
レオナルドは急かさない。街灯の下に立ったまま、じっと待っている。
その間に、色々なものが頭を過ぎった。
ロレンツォの演説。酒場の歓声。目を伏せた冒険者たち。便箋の折り目。がらんとした部屋。
——そして、レオナルドの手紙。
『いつか、僕のギルドを手伝ってくれないか』
あの頃は断った。ロレンツォのギルドを離れるつもりがなかったから。自分が選んだのではなく、そこにいることが当たり前だったから。
でも、今は違う。あの場所はもうない。そして目の前に、私の仕事を見ていた人がいる。
信じるのは、まだ怖い。
また裏切られるかもしれない。また「要らない」と言われるかもしれない。十年かけて築いたものがあっさり崩れた夜に、新しい何かを信じろと言われても——
レオナルドが、小さく息を吐いた。
「……返事は、いつでもいいよ。今夜は色々あっただろうから」
気遣いだった。追い詰めたくないという、この人なりの誠実さ。
——その一言で、逆に心が決まった。
ロレンツォは一方的に決めた。私の意志など聞きもせず、酒場で一人で盛り上がって、一人で追い出した。
この人は、待ってくれている。私が自分で決めるのを。
それだけで十分だった。
「……お世話になります」
声が少しだけ震える。自分でも驚くほど小さな声だった。
レオナルドの表情が変わっていく。
琥珀色の目が見開かれて、一瞬呆けたような顔をして——それから、ゆっくりと笑った。安堵と喜びを隠しきれないまま、それでも静かに。
「——ありがとう」
国一番の冒険者が、深々と頭を下げた。
大袈裟だ、と思った。サブマスターを一人雇っただけなのに。
でも不思議と、それが嫌ではなかった。
レオナルドが顔を上げると、さっきまでの真剣な空気が少し緩んでいた。目尻が下がっている。この人、こんな顔もするのか。
「ギルドは街の東区に構えている。明日、案内するよ」
「明日——いえ。今夜、先に書類だけでも見せてもらえますか」
レオナルドが目を瞬かせた。
「……今夜?」
「依頼の管理体制と冒険者の登録状況を把握しておきたいので。現状がわからないまま明日を迎えるのは落ち着かないんです」
少しの間があって、レオナルドが笑い出した。さっきのとは違う、堪えきれないという感じの笑い。
「もう仕事の話を?」
「悪いですか」
「いや——やっぱり君だ」
何がやっぱりなのかはわからなかったけれど、その笑顔に悪意がないことだけは確かだった。
「わかった。ギルドに寄ろう。書類は山ほどある——というか、整理できていないものが大半だけど」
「それは聞く前からなんとなく想像がついていました」
「……手厳しいな」
レオナルドが苦笑して、歩き出す。
私は鞄を握り直して、その隣に並んだ。半歩後ろではなく、隣に。サブマスターとして歩くなら、この位置だ。
夜風が二人の間を通り抜けていく。ついさっきまで一人で浴びていたのと同じ風のはずなのに、少しだけ温度が違う気がした。




