第1話 臆病者
「臆病者は要らない」
――そのひと言で、私の十年は切り捨てられた。
冒険者ギルド「紅蓮の剣」の酒場。焼けた肉と安い酒の匂いが充満する中、ギルドマスターのロレンツォが酒場の真ん中に立っていた。幼なじみで、婚約者で——今まさに、私を追放しようとしている男。
「——聞いてくれ、みんな。俺はずっと我慢してきた」
酒場に詰めかけた冒険者たちが杯を置く。ロレンツォは注目を浴びると背筋が伸びる男だった。広い肩をそびやかして、酒場の端まで届く声を張る。こういう姿だけは、昔からギルドマスターらしかった。
「サブマスターのジュリエッタは慎重すぎる。もっと攻めた采配をしていれば、うちの稼ぎは倍になっていたはずだ」
違う、とは言わなかった。言ったところで届かないことは、ロレンツォの目を見た瞬間にわかった。
酔っている、と思った。酒にではない。自分の言葉に、自分が酔っている。
「おまけに、有望な新人の足まで引っ張る。ソフィアの昇格に反対したのは誰だ?」
ロレンツォの隣で、ソフィアがおとなしく微笑んでいた。困ったように小首を傾げている。まるで自分は関係ないとでも言うように。
私はその微笑みを見ていた。
「紅蓮の剣にいるのは、命がけで戦う勇猛な冒険者たちだ! 足を引っ張る臆病者なんか、ここには要らない! そうだろう!?」
歓声が弾けた。杯が打ち鳴らされ、テーブルを叩く拳、口笛。酒場の空気が一気に熱を帯びて、ロレンツォはその熱を全身で浴びていた。満足そうに顎を上げて、まるで戦場から凱旋した将軍のような顔をしている。
——私を追い出しただけなのに。
酒場の隅で、何人かの冒険者が目を伏せていた。杯に手をつけず、唇を引き結んで、歓声の輪から外れている。一人はテーブルの下で拳を握りしめていた。もう一人は、私のほうをちらりと見て、すぐに目を逸らした。
声を上げてほしいとは思わなかった。この空気の中で異を唱えれば、次に追い出されるのは彼らだ。
だから、私は静かに立ち上がった。
「——わかりました」
それだけ言って、酒場を出た。
扉が閉まる直前、歓声がもうひと際大きくなるのが聞こえた。私がいなくなったことが、もう一つの祝い事になったらしい。
***
夜風が頬を撫でる。
ギルドの建物を背に歩きながら、数週間前のことを思い出していた。
ソフィアが紅蓮の剣に来た日のこと。受付で愛想よく挨拶する彼女を見て、何かが引っかかった。
戦闘技術は高い。それは間違いない。けれど——笑顔の奥にある目の温度が、周りの冒険者たちと違った。危険な依頼の説明を聞くときだけ、わずかに瞳が動く。安全な仕事に興味がないのだ、この子は。
でも、そんな感覚だけで人を裁くわけにはいかない。だから登録は受理した上で、昇格は実績に見合った速度で進めると決めた。
ところがロレンツォは、ソフィアの階級を驚くほどの勢いで引き上げ始めたのだ。
サブマスターとして正式に異議を申し立てた。冒険者の命を預かる責任が私にはある。階級に見合わない依頼を受ければ、死人が出る。
しかし、それに対するロレンツォの返答は短かった。
「女の嫉妬は醜いぞ」
——嫉妬。
私がソフィアの階級を問題にしたのは、依頼の難易度と冒険者の実力が噛み合わなければ人が死ぬからだ。依頼書を一枚ずつ読み込み、討伐対象の生態や地形の特徴を照らし合わせ、冒険者一人ひとりの戦闘傾向と相性を考慮する。死者を出さないために、慎重にやってきた。
貴族や大商人の折衝だって引き受けた。彼らが本当に求めているものを聞き出し、ギルドの利益と冒険者の安全を両立させる提案を練り上げる。ロレンツォは客の前で豪快に笑って見せるのが得意だったけれど、契約書の細部を詰めるのはいつも私だった。
その全てを「女の嫉妬」の一言で片づけられた瞬間、私はようやく理解した。
ロレンツォは、私の仕事を見ていなかったのだ。最初から。
***
自室で荷物をまとめながら、泣くよりも先に計算していた。
明日からどうするか。
手持ちの資金で当面の宿代と食費は賄える。婚約も解消になるだろう。ギルドのサブマスターでなくなった以上、この街に留まる理由はない。次の仕事を探さなければ。
引き出しを開けて、中身を一つずつ鞄に移す。査定用の覚書、冒険者の適性をまとめた私的な記録帳、地図に書き込んだ地形のメモ。どれも紅蓮の剣のために作ったものだけれど、この頭の中にある知識まで置いていく義理はない。
不意に、手が止まる。
記録帳の間に挟んでいた便箋が滑り落ちた。冒険者からの手紙——任務の後にたまに届く、短い礼状。『あの時の采配のおかげで助かりました』。名前だけ添えた、素っ気ない一文。
この便箋を寄越した男は、さっき酒場の隅で目を伏せていた一人だ。
鞄に入れかけて、やめた。便箋を机の上に置く。
涙が出そうになったのは、ロレンツォの言葉を思い出した時ではなく、その便箋の折り目を指でなぞった時だった。
——泣くな。今は考えるほうが先だ。
引き出しの奥に、もう何通かの手紙があった。別の筆跡。くせのある、けれど丁寧な字。
差出人はレオナルド・ヴァレンティーニ。いまや国で一番と謳われる冒険者。
紅蓮の剣には、短い間だけ在籍していた。何度か仕事を割り振った覚えがある。貴族の出だと知れた途端に周囲が腫れ物扱いを始めて、居づらくなって去っていった——はずだった。
良いギルドではなかっただろうに、彼は去り際に礼を言いに来てくれた。そのあとで手紙が届いたのだ。
手紙には、いつか自分のギルドを立ち上げたいと書かれていた。立場に関係なく、実力で生きられる場所を作りたいと。
『いつか、僕のギルドを手伝ってくれないか』
あの頃はロレンツォのギルドを離れるつもりがなかった。紅蓮の剣を支えることが自分の役目だと、疑いもしなかったから。丁重にお断りの返事を書いた。
すっかり遠い人になってしまった彼の名前を聞いたのは、数日前の冒険者の噂話だった。
「あのレオナルドが自分のギルドを立ち上げるらしいぜ」
「サブマスターを探してるって話だ」
あの時は聞き流した。でも今、この手紙が指先にある。
***
荷物をまとめ終えて、部屋を見回した。
がらんとした部屋。棚も引き出しも空になって、私がここにいた痕跡はもうほとんどない。十年いたのに、こんなにあっさり消えてしまう。
ロレンツォとの婚約は、互いの家が決めた縁談のようなものだった。幼なじみで、一緒にギルドを運営して、なんとなくこのまま添い遂げるのだろうと思っていた。恋と呼ぶには淡くて、情と呼ぶには浅い。でも、それが私の人生の全てだった。
仕事も、婚約も、住む場所も、全部がロレンツォのギルドに紐づいていて——それが今日、全部崩れた。
窓の外を見る。さっきまで歩いてきた夜道が、街灯の明かりにぼんやり照らされている。
ロレンツォは今頃まだ酒場で祝杯を上げているのだろうか。ソフィアはあの微笑みのまま、隣に立っているのだろうか。
——でも、もういい。
崩れたのなら、初めて自分で選べるということだ。
手紙を鞄に入れて窓を開けると、心地良い夜風が流れ込んでくる。
——その夜風の中に、人影があった。
「探したよ、ジュリエッタ」
街灯の下に立っていたのは、レオナルド・ヴァレンティーニだった。最後に会った時より逞しく、精悍な顔つきは自信に満ち溢れている。
金の髪が夜風に揺れる。琥珀色の目がまっすぐに私を見ていた。
酒場の喧騒でも、ロレンツォの糾弾でもない。ただ静かに、確かに、私の名前を呼ぶ声がそこにあった。
初日は三話まとめての投稿となります。楽しんでいただけると嬉しいです。




