第14話 選択
二度目の馬車は、一度目と同じ漆黒だった。
窓の外にあの二頭立ての馬車が停まるのが見えた瞬間、手が止まった。金の装飾に、手入れの行き届いた馬。ヴァレンティーニ家の紋章。
前回と違ったのは、馬車から降りてきた人数だった。執事のセルジオだけではない。もう一人、若い男が同行している。身なりの良い、背筋の伸びた青年。——ヴァレンティーニ家の身内だろうか。
レオナルドを呼びに行く。彼は窓の外を一瞥しただけで全てを察したらしかった。
「……また来たか」
前回のような固まった表情ではなかった。代わりにあったのは、静かな覚悟のような目だった。
「会議室に通してくれ。——今日も、一人で話す」
「はい」
セルジオを会議室に案内する時、前回と同じように廊下を一瞥していた。だが今日のセルジオの目は、品定めではなかった。もっと切実な——何かを諦めかけている人間の目に見えた。
会議室の扉が閉まる。
前回と同じ光景。でも、空気が違う。
前回は『一度目の縁談を断る』だった。今回は——おそらく、最後通告に近い何かだ。レオナルドが「一度で引き下がる家じゃない」と言っていた通り、次が来た。
そして次がある以上、その次もある。レオナルドが断り続ける限り、家は送り続ける。その圧力は、回を重ねるごとに重くなっていく。
執務室に戻って、椅子に座った。
——私がここにいるから、レオナルドは板挟みになっている。
そう思った瞬間、自分でも驚くほどはっきりと、その考えが形を結んだ。
レオナルドが縁談を断り続けている理由の『残りの半分』。あの人は二度、言いかけて飲み込んだ。何を言おうとしていたのか、もう分かっている。分かっているからこそ、怖い。
でも——怖いかどうかは、今は問題ではない。
問題なのは、私がここにいることで、レオナルドが家との関係を壊し続けているという事実だ。折り合いの悪い家。でも家族だ。レオナルドがこの先も冒険者として生きていく上で、家との決裂は取り返しのつかない傷になりかねない。
そしてその傷の原因が、私であってはならない。
机の引き出しを開けた。白紙の便箋が一枚、入っている。
ペンを取った。
——辞表を書こう。
サブマスターを辞する。星の道標を離れる。そうすれば、レオナルドが縁談を断る「残りの半分」の理由がなくなる。家との関係も修復できるかもしれない。ギルドの運営は仕組みが出来上がっている。事務職員たちは優秀だ。私がいなくても——
ペンの先が、便箋の上で止まった。
書き出しの言葉が、出てこない。
「サブマスター」
扉が叩かれた。ガルシアの声だった。
咄嗟に便箋を裏返した。
「どうぞ」
ガルシアが入ってきた。後ろにリナとエミリオもいる。三人が揃って来るのは珍しい。
「合同案件の第三区域、事前調査の日程が決まったんで報告に。——それと」
ガルシアが頭を掻いた。この大男が照れる時の仕草は、相変わらず愛嬌がある。
「あんたに伝えておきたいことがある。俺たち三人で話してて、ちゃんと言っておこうってことになった」
「……なんでしょう」
「紅蓮の剣を出た時は不安だった。正直に言えば、行く先がなくて仕方なくここに来た部分もあった」
ガルシアが真っ直ぐな目でこちらを見た。
「でも今は、ここにいてよかったと思ってる。——ジュリエッタ、あんたがいるからだ」
リナが続けた。
「あたしも。ここでは依頼の一つひとつに理由がある。なぜこの編成なのか、なぜこのルートなのか、全部説明してもらえる。自分で依頼を取る時も、当たり前に意味を考えるようになった。——それはサブマスターが仕組みを作ってくれたからなんだ」
「僕もです」
エミリオが小さく頭を下げた。
「索敵魔術を編成に組み込んでもらえたのは、ここが初めてです。サブマスターが僕の適性を見て、前に出していいと判断してくれた。——あの角猪の時も、僕が役に立てたのはあなたの編成があったからです」
三人の目が、同じことを言っていた。
——サブマスターがいるから、このギルドは安心なんだ。
喉の奥が、熱くなった。
裏返した便箋の白い裏面が、視界の端にある。
私はこの場所を手放そうとしている。この人たちが信頼してくれている場所を。自分の手で作り上げた仕組みを。全員を生きて帰す、という信念が息づいている場所を。
怖いから。傷つくのが怖いから。また失うのが怖いから。
——それは、逃げだ。
分かっている。分かっていて、それでも逃げようとしていた。
「……ありがとうございます。三人とも」
声が震えないように、気をつけた。
「報告書、後で確認します。日程の件も」
三人が出ていった後、裏返した便箋をもう一度表に向けた。
白紙のまま。一文字も書けていない。
——書けなかった。
この場所を捨てる言葉を、私の手は書けなかった。
***
会議室の扉が開いたのは、昼を過ぎた頃だった。
長かった。前回の面会は一刻もかからなかった。今回は半日近い。
セルジオと同行の青年が、廊下を歩いてくる足音が聞こえた。受付に出て見送りの挨拶をしようと立ち上がる。ギルドの人間として、それは当然の作法だ。
受付の前で、セルジオが足を止めた。
同行の青年は一足先に外へ出ていく。馬車の扉を開けて、中で待つ姿勢だった。慣れている。こういう場面で待つことに、慣れた人間の動きだ。
「お見送りします」
「……いや。結構です」
セルジオの声は静かだった。前回来た時の丁重さとは少し違う。もっと疲れた、もっと個人的な声だった。
彼は白い手袋を外しかけて、やめた。そのまま手袋を握りしめている。
「サブマスター殿」
私の肩書を、初めてまともに呼んだ。前回は「お手数をおかけする」と返しただけで、私の名も肩書も口にしなかったのに。
「……はい」
「あの子は——」
言いかけて、セルジオが口を閉ざした。
あの子。レオナルドのことを、そう呼んだ。執事が主家の人間を「あの子」と呼ぶのは、職務の言葉ではない。
セルジオは長い間黙っていた。言葉を選んでいるのか、言うべきかどうかを迷っているのか。
やがて、短く息を吐いた。
「——あの子が屋敷を出る日、私が馬車を手配しました。お嬢様のものだった膝掛けをこっそり積んだのを、あの子は気づいていなかったでしょうが」
執事としての逸脱だ。主家の意向に反して、出ていく子供に母の膝掛けを持たせた。それを今、赤の他人に話している。——この人は今日、何かを手放しに来たのだ。
「今日が、最後でした」
セルジオの目が、ギルドの内装を見回した。冒険者の装備が並ぶ棚、使い込まれた掲示板、私が整えた書類棚。ここがレオナルドの選んだ場所なのだと、確かめるような目。
「もう……お屋敷から参ることはありません」
背筋は伸びたままだった。声も乱れていなかった。でも、白い手袋を握る指の力だけが、この人の感情を裏切っていた。
「どうか——」
セルジオが、深く頭を下げた。ギルドの事務方に向ける礼ではない。もっと深い。
「……よろしくお願いいたします」
それだけ言って、セルジオは背を向けた。漆黒の馬車に乗り込む背中は真っ直ぐだった。扉が閉まり、馬車が動き出す。石畳を叩く蹄の音が遠ざかっていく。
——もう、来ない。
あの馬車は、もう来ない。ヴァレンティーニ家の紋章を付けた馬車が、このギルドの前に停まることは、二度とない。
つまり、レオナルドは——
膝から力が抜けそうになり、受付の縁に手をついた。
勘当されたのだ。
知識としては知っていた。貴族の跡取りが縁談を断り続ければ、行き着く先は勘当だと。でもそれは可能性の話だった。まだ先のことだった。レオナルドならうまく立ち回れるかもしれないと、どこかで思っていた。
もう終わっていた。
あの会議室の中で、今日、全てが終わったのだ。名前も、財産も、家族も。レオナルドは全てを失った。私のせいだ、と思った。――傲慢かもしれないが、そんな考えが頭から離れない。
辞表を書こうとした手を思い出す。白紙の便箋。一文字も書けなかった。
書けなかったことを、ほっとしていた自分がいた。冒険者たちの言葉に救われて、「ここにいてもいいのだ」と思いかけていた。
でも——私がここにいたから、レオナルドは家を失った。
いや、違う。
身を引こうとした。距離を取った。辞表まで書きかけた。でもレオナルドはそんなこと知らないまま、自分の意志で選んだ。私がどう動こうと、この人は同じことをしただろう。
——それが、レオナルドだ。
私がいてもいなくても、レオナルドはレオナルドの信じるものを選ぶ。家を捨ててでも、冒険者でいることを選ぶ。ギルドを守ることを選ぶ。
じゃあ——私が身を引いたら、何が残る?
レオナルドは家を失い、私もいなくなり、ギルドだけが残る。私がいなくなったギルドは回る。仕組みは作った。でも、それは——それは、レオナルドが望んだ形ではないはずだ。
考えがまとまらないまま、受付に立ち尽くしていた。
「ジュリエッタ」
振り返ると、レオナルドが立っている。
顔を見た瞬間——何かが違うと思った。
疲れてはいる。長い話し合いの後の疲労は見える。でもそれだけではない。覚悟を決めた人間の目をしている。戦場へ向かう目とも違う。もっと静かで、もっと深いところから来ている光。
——知っている。
この人が何を失ったのか、もう知っている。セルジオが教えてくれた。あの深い一礼が、全てを語っていた。
「少し、時間をくれないか」
「……はい」
「外に出よう」
断れなかった。——この人が全てを失った後の顔を、目を逸らして見ないふりをすることはできなかった。
***
連れていかれたのは、川沿いの道だった。
以前レオナルドに連れ出された時の、ベンチのある道。あの時は夕暮れだったが、今日は昼の光の中にある。川面が陽光を弾いて、白く光っている。
ベンチには座らなかった。川沿いの柵に並んで寄りかかる。半歩の距離——ではなかった。レオナルドがいつもより少しだけ近くに立っている。
「セルジオに、最後通告を出された」
前置きなく、レオナルドが言った。
「次の縁談を受けなければ、家はお前を勘当する。ヴァレンティーニの名を捨てることになる。——と」
勘当。
貴族にとっての勘当は、名前を失うだけではない。財産の相続権、家の庇護、社交界での立場。全てを失うということだ。
「……レオナルド」
「縁談は断ったよ」
あっさりと。あの日と同じように、何でもないことのように。
「蹴った、と言ったほうが正確かな。セルジオには気の毒なことをした。あの人は最後まで僕を説得しようとしてくれた。一緒に来ていたのは従弟だ。勘当になった場合の後継候補として、連れてきたらしい」
「……知っています」
声が、自分でも驚くほど静かだった。
「セルジオさんが。——全部は言わなかったけれど、もう来ないと」
レオナルドが少し目を見開いた。それから、ふっと力を抜いた。
「……そうか。セルジオらしいな」
「なぜ——断ったんですか」
もう答えは知っている。でも、この人の口から聞かなければいけなかった。
レオナルドが、川面を見ていた。昼の光の中で、琥珀色の目が透き通っている。
「ジュリエッタ。——僕はずっと、半分しか言わなかった」
風が吹いた。川面の光が揺れる。
「半分は、ギルドのため。残りの半分は答えなかった」
覚えている。言いかけて止めた、あの一瞬の躊躇。
「もう飲み込まない」
レオナルドがこちらを向いた。正面から。半歩の距離すら消えて、真っ直ぐに目が合った。
「僕が縁談を断ったのは、ギルドのためだけじゃない。家を捨てる覚悟ができたのは、冒険者でいたいからだけじゃない」
彼の瞳は、揺れていなかった。手提げ灯の炎のように揺れるのではなく、昼の太陽のように動かない光で、私を見ている。
「僕が君を必要としているのは——サブマスターとしてだけじゃない」
まっすぐに、よく通る声。静かなのに力強い言葉が、体の芯まで届いた。
「椅子を選んだのも、茶葉を覚えたのも、花を摘んだのも、外套を置いたのも、灯りを用意したのも——全部、同じ理由だ」
全部。
あの執務室に積もっていった一つひとつのもの。さりげなくて、断る理由がなくて、でも確かに私のことを考えて選ばれていたもの。
全部が、ひとつの想いだった。
「君が好きだ。——ずっと前から」
息が、止まる。
知っていた。分かっていた。もうとっくに気づいていた。
なのに、言葉にされた瞬間、世界が変わる。
知っていることと、聞くことは、違う。
顔が熱を持ち、視界がじわりと滲む。泣いている——私は泣いているのか。
「僕は君に、傍にいてほしい。サブマスターとしてじゃなく——」
「——待って」
遮った。遮らなければ、このまま受け取ってしまう。受け取りたい。受け取りたくてたまらない。でも——
「私は——」
声が震える。
「私は、怖いんです」
言ってしまった。ずっと蓋をしていた言葉が、溢れ出した。
「ロレンツォにも、最初は必要だと言われました。支えだと言われました。十年間、それを信じていました。でも最後には、要らないと——」
喉が詰まった。
「レオナルドは違うと分かっています。頭では、ずっと分かっています。でも——信じた先でまた失ったら、今度こそ立ち直れない。だから距離を取ったんです。甘えてはいけないと思ったんです。あなたが好きだと気づいてしまったから——これ以上近づいたら、失った時に」
言葉が止まった。
自分の口から出た言葉を、自分の耳が聞いている。
——好きだと、言ってしまった。
レオナルドが、一歩近づいてくる。
手が伸びた。休憩室の時と同じ、胼胝だらけの硬い手。あの時は額に触れた。今は——私の頬に触れた。涙を、拭っている。
「ジュリエッタ」
低い声。柔らかい声。
「僕は、ロレンツォじゃない」
「わかって——」
「最後まで聞いてくれ」
優しい声なのに、有無を言わさない力があった。
「ロレンツォは、君に支えてもらっていることを認められなかった。自分が君を必要としていることが、弱さに見えたんだろう。だから切り捨てた」
レオナルドの手が、頬から離れなかった。温かくて、硬くて、震えていない。この手は、震えない。
「僕は違う。君がいなければ、このギルドは存在しなかった。君の力がなければ、僕は理想を形にできなかった。——それを認めることは弱さじゃない。事実だ」
宝石のように輝く瞳が、真っ直ぐにこちらを見ている。
「君を必要としている自分を、僕は恥じない。君がいるから強くなれる自分を、弱いとは思わない。——だから、捨てない。何があっても」
——ああ。
この人は、こういう人だ。
飾らない。駆け引きをしない。思ったことをまっすぐに言う。椅子を選ぶ時も、茶葉を覚える時も、花を摘む時も、家を捨てる時も、同じまっすぐさで。
ロレンツォは自尊心のために私を必要とした。だから自尊心を満たしてくれる別の相手が現れた時、私は要らなくなった。
レオナルドは——レオナルドは、私を見ている。私の能力を、私の信念を、私という人間を。そしてそれを必要とする自分を、真正面から認めている。
同じ「必要だ」という言葉なのに、こんなにも違う。
ロレンツォとの関係は『なんとなく』だった。周囲が決めた縁談。決められた道の上を歩いていただけだった。失った時に耐えられたのは、自分で選んだものではなかったからだ。
レオナルドとの間にあるものは、『なんとなく』ではない。
この人は家を捨てた。名前を捨てた。その選択を、私が逃げることで無意味にしていいはずがない。
自分の目で見て、自分の心で感じて、自分の意志で——
「……怖いです」
まだ、怖い。
「でも——」
レオナルドの手の上に、自分の手を重ねた。頬に触れている、硬い手の上に。
「——逃げるほうが、もっと怖い」
好きな人の前から逃げ続けること。自分の気持ちに蓋をし続けること。この温かさを、自分から手放すこと。
それは——ロレンツォに捨てられた痛みよりも、ずっと怖い。
だって、ロレンツォに捨てられた時は、相手が選んだことだった。でも今ここで逃げたら、それは私が選んだことになる。自分の意志で、自分の幸せを手放したことになる。
それだけは——嫌だ。
「レオナルド」
名前を呼んだ。その音に滲む熱を、もう隠せない。隠す必要は、ない。
「私も——あなたが、好きです」
声が震える。震えているけれど、それでも、言えた。
レオナルドの目が見開かれる。——この人は、こんな顔もするのか。驚きと、喜びと、それから安堵が、全部一度に溢れている。
まっすぐな人。感情を隠せない人――いや、隠す気がない人だ。それが、私の好きになったレオナルドだ。
「……もう一度、言ってくれないか」
「何度でも言います。——好きです」
レオナルドが笑った。
泣きそうな、嬉しそうな、どうしていいかわからないような顔で——笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の中で、凍っていた何かが溶けた。
ロレンツォの声が聞こえなくなった。「臆病者は要らない」も、「お前がいなきゃ回らない」も。ずっと響いていたはずの残響が、消えていく。
代わりに残ったのは、目の前にいるこの人の顔だけだった。泣きそうな顔で笑う、不器用な表情。国一番の冒険者で、貴族の家を捨てた男で、私のために椅子を選んでくれた人。
「——ずっと待ってた」
レオナルドが言った。声が少しだけ掠れていた。
「君がいつか、自分から言ってくれる日を。——だから追わなかった。踏み込まなかった。君が自分で選んでくれなければ、意味がないと思ったから」
——だから。
だからこの人は、線を越えなかったのだ。
距離を取っても追わず、差し入れを拒まれても手を止めず、言いかけた言葉を飲み込んで、ずっと線の外側にいた。
私が自分の意志で、自分の足で、線を越えてくるのを待っていた。
涙が、また溢れる。今度は止めなかった。
川面の光が、滲んで揺れている。暖かな太陽の下で、二人で並んで立っている。半歩の距離はもうない。
レオナルドの手が、私の手を握った。硬くて温かい手。この手が選んだものを、この手が差し出してくれたものを、私はもう拒まない。
初めて、自分の意志で——恋を選んだ。




