第13話 変化
自覚した翌日から、何かが変わった——と言いたいところだが、実際には何も変えられなかった。
仕事は仕事として処理する。依頼の査定、契約書の精査。サブマスターとしての私は、昨日と同じように機能している。
変わったのは、レオナルドの足音が聞こえた時に心臓が跳ねるようになったことだ。
それだけのこと。それだけのことが、こんなにも厄介だとは思わなかった。
差し入れを受け取る時、指先が触れないように気をつけるようになった。会話は仕事の要件だけで切り上げる。目を合わせる時間を、意識して短くする。
以前の「距離を取ろう」とは質が違う。あの頃はまだ、何から距離を取っているのか自分でも分かっていなかった。今は分かっている。分かっているから、余計に近づけない。
——そんな日常が三日目に差しかかった朝。緊急の伝令が飛び込んできた。
「サブマスター! ファルネーゼ領から急報です!」
受付の職員が息を切らして執務室に駆け込んでくる。手に持った書簡の封蝋が割れている。急いで開封したらしい。
「巡回ルートの第三中継点付近で、想定外の魔獣の群れが確認されました。定期巡回の編成では対処できない規模だと」
書簡を受け取って目を通す。——大型の角猪が十二頭。通常の巡回で想定しているのは三頭から五頭だ。繁殖期の群れが移動してきたのだろう。
角猪の群れは個体数が増えると統率が取れた動きをする。散発的に現れる個体とは危険度が全く違う。今の巡回編成のまま当たれば、最悪の場合——
「レオナルドは?」
「訓練場です」
「呼んでください。会議室で――いえ、時間がない、ここで」
職員が走っていく間に、私は棚から地図を引き出した。ファルネーゼ領の地形図、巡回ルートの詳細、中継点ごとの地形データ。全て自分で作った資料だ。
第三中継点。丘陵の東斜面に位置する。西側は崖、東側は開けた草原、北に森。角猪は草原で群れるが、追い込まれると森に逃げ込む。森に入られたら厄介だ。視界が効かない上に、角猪の突進は木立の間でも止まらない。
つまり、草原で仕留めきる必要がある。包囲は西の崖を背にして半円形。逃走経路を北の森側だけに絞り、そこに——
「ジュリエッタ」
レオナルドが執務室に入ってきた。訓練着のまま、額に汗が滲んでいる。
「状況は」
「ファルネーゼ領第三中継点。大型角猪十二頭の群れ。巡回編成では対処不能。増援が必要です」
地図を広げて、指で地形を示す。レオナルドが隣に立った。——近い。肩が触れそうな距離。三日間必死に保っていた間合いが、一瞬で消えた。でも今はそんなことを気にしている余裕がない。
「草原で仕留めきらないと森に逃げ込まれます。包囲は西の崖を利用した半円形。北の森への逃走路に伏兵を配置。問題は人数です」
「何人要る」
「最低八人。前衛四、弓兵二、伏兵二。前衛にはガルシアを軸に——ただ、十二頭を相手にするなら、前衛の中に一人、群れの統率個体を単独で引きつけられる実力者が必要です」
目を上げた。レオナルドを見る——仕事の目で。
「あなたが行くべきです」
レオナルドが頷いた。迷いはなかった。
「統率個体の特徴は」
「群れの中で一番大きい個体。角の形状が他と異なります。左角が途中で折れているとの報告です。角猪の群れでは、統率個体が動きを止めると他の個体も一時的に動きが鈍る。その隙に——」
「一気に叩く。わかった。折れ角を探して引きつければいい」
「はい。ただし統率個体は群れの中央にいます。まず外周の個体を散らして——」
「前衛四人で外周を左右に割って、中央に道を作る。僕がそこを抜けて統率個体に当たる」
——そう。その通りだ。
私が言おうとしていたことを、レオナルドが先に言った。地図の上で、私の指とレオナルドの指が同時に同じ地点を指した。視線が交わる。
「弓兵は丘の上から援護。群れが散った個体を拾う。北の伏兵は森の入口を塞ぐ。——これでいいか」
「はい。完璧です」
言ってから、少しだけ息をついた。地図を挟んで向かい合っている。この距離で、この速度で、言葉を交わせる相手は他にいない。
私が地形を読み、危険を予測し、人の配置を組む。レオナルドが戦場の動きを描き、自分の体をどう使うかを即座に決める。二つの思考が噛み合って、一つの作戦になる。
「出発は?」
「最速で。今から緊急編成を組みます。一時間で出られますか」
「三十分で出る」
レオナルドが身を翻した。——その背中に、言葉が追いかける。
「レオナルド。群れの中央に突入する瞬間が一番危険です。前衛が外周を完全に割り切る前に飛び込まないで。——お願いします」
それは、サブマスターとしての指示ではなかった。
三日前なら、こんな言い方はしなかった。「前衛の展開を確認してから突入してください」と、もっと事務的に言えたはずだ。
レオナルドが振り返った。一瞬、その目が柔らかくなった。
「……わかった。気をつける」
頷いて、出ていった。
一人になった執務室で、私は自分の手を見る。地図を指していた指先が、微かに震えていた。
***
増援部隊は夕方には目的地に到着し、日暮れ前に作戦を完了した。
角猪十二頭、全頭討伐。負傷者なし。統率個体の無力化から群れの制圧まで、作戦通りに進行した——という報告が、翌朝の早便で届いた。
報告書を読みながら、息を吐いた。全員、生きて帰ってくる。
その日の午後、部隊が帰還した。ガルシアが真っ先にギルドに入ってきて、「完璧だった」と短く言った。
「サブマスターの編成と作戦がなかったら、あの群れは手に負えなかった。——レオナルドの突入も凄かったがな」
「怪我は?」
「全員かすり傷もない。あんたの言った通りの動きをしたら、角猪のほうが混乱して自滅した」
ガルシアが笑って訓練場のほうに去っていく。その後ろから、リナとエミリオが手を振っていった。
レオナルドが帰ってきたのは、他の冒険者たちより少し遅れてだった。鎧に乾いた泥がこびりつき、マントの端が裂けている。戦場帰りの姿。
廊下ですれ違った。
「お疲れ様です。報告書を読みました。見事な討伐でした」
仕事の言葉だけを、正確に並べた。
「君の作戦だ。僕は指示通りに動いただけだよ」
「——その指示通りに動ける実力が、あなたの価値です」
それだけ言って、足を速めた。これ以上話を続けたら、別のことを言ってしまいそうだった。無事でよかった、とか。心配していた、とか。
背中に視線を感じた。そして——レオナルドが何か言いかけた気配があった。息を吸う音。言葉の手前の、あの小さな音。でも声にはならなかった。
私は振り返らない。振り返ったら、この人がまた言葉を飲み込む顔を見てしまうから。
***
増援作戦の成功は、すぐに業界に知れ渡った。
三日後、ギルド間の合同案件の打ち合わせに呼ばれた。北東部の街道で連続して発生している魔獣被害に対し、複数のギルドが協力して対処しようという話だ。
会場は王都のギルド連盟本部。星の道標からは私とレオナルドが出席した。他にも中堅ギルドが三つ。長テーブルを囲んで、各ギルドの代表が顔を揃えている。
仕切っていたのは、老舗ギルド「鉄の誓い」のギルドマスター、ベルトラーニだった。白髪交じりの壮年で、腕は確かだが——古い体質のギルドの長にありがちな、実力主義というより年功序列の空気をまとっている。
打ち合わせが始まると、各ギルドが担当区域と編成を提案していく。私はファルネーゼの巡回で培ったデータを基に、星の道標の担当区域の提案をまとめていた。
「——で、星の道標さんは、どの区域を?」
ベルトラーニが私に目を向けた。
「第三区域を提案します。丘陵地帯で地形が複雑ですが、先日のファルネーゼ領での対応実績があり、地形データも蓄積しています。変動編成で対応可能です」
「ふむ」
ベルトラーニが書類に目を落とした。
「星の道標は新しいギルドだが、最近は名前を聞くようになった。——ただ、合同案件となると話が違う。各ギルドとの連携が必要になる。事務方の判断だけで回る仕事ではない」
事務方。
その言い方に、場の空気が微妙に変わった。
「事務方、というのは」
「失礼。サブマスターのことだ。ギルドの内部運営は得意でも、合同案件は現場の冒険者同士の信頼関係で動くものでね。冒険者ではないサブマスターがどこまで仕切れるか——」
「ベルトラーニ殿」
レオナルドの声が、静かに割り込んだ。
椅子に座ったまま、背もたれに体を預けている。姿勢は崩れていない。力んでもいない。ただ、声が普段より低く響く。
「僕の右腕を軽んじるなら、この話は降りる」
会議室が、静まり返った。
他のギルドの代表たちが目を見開いている。合同案件から降りるという発言は、ギルド間の協力関係に亀裂を入れかねない重い一言だ。レオナルドはそれを分かった上で言っている。
「それは——」
「彼女の名はジュリエッタ。三日前にファルネーゼ領で角猪十二頭の群れを負傷者ゼロで討伐した作戦を立案したのが彼女だ。現場の冒険者たちは、彼女の編成と指示を信頼して動いた。結果は報告書の通りだ。——事務方、などとは呼ばないでいただきたい」
レオナルドの目がベルトラーニを見据えている。怒りではなく、事実の重みで圧している。
「レオナルド」
私が声をかけた。
「——それは困ります」
前も口にした言葉。でも今日は、その後に続きがあった。
「降りる必要はありません。私が説明します」
立ち上がって、持参した資料を長テーブルの上に広げた。
ファルネーゼ領巡回のデータ。季節ごとの魔獣出没パターン。地形に応じた編成の変動実績。依頼成功率。負傷者数。全て数字で裏打ちされた実績だ。
「星の道標の強みは、データに基づく編成の最適化です。合同案件であっても、各ギルドの冒険者の実力と適性を把握できれば、ギルドの壁を越えた編成を組むことが可能です。——ベルトラーニ殿、鉄の誓いの冒険者の名簿をお借りできますか。この場で、第三区域に最適な合同編成案をお見せします」
ベルトラーニは少しの間黙っていた。それから、名簿を差し出した。
目を通す。冒険者の数は星の道標より多いが、適性記録が粗い。それでも武器の種類と経験年数は分かる。星の道標の冒険者のデータと組み合わせて、丘陵地帯に適した混成編成を——
「——この五人と、うちのガルシア、リナ、エミリオを組み合わせます。前衛は鉄の誓いの重装二人とガルシアの三枚壁。丘陵の狭い地形では重装の壁が有効です。索敵はエミリオの魔術に鉄の誓いの斥候一人を加えて二重体制。弓兵はリナと——」
五分で、編成案ができた。
ベルトラーニの表情が変わっていた。値踏みの目が消え、代わりに純粋な驚きが浮かんでいる。
「……うちの人間の特性を、名簿を見ただけで把握したのか」
「武器と経験年数から推測しています。実際の適性は現場で微調整が必要ですが、この骨格なら大きく外れません」
しばらくの沈黙。それから、ベルトラーニが低く笑った。
「——失礼した。事務方などと言ったことを詫びる。星の道標の第三区域担当を認めよう」
会議が終わった後、レオナルドが隣を歩きながら言った。
「ほら。僕の右腕は最強だろう」
満足そうに笑っている。自分のことのように誇らしそうな顔だ。
「……降りる、は言い過ぎです。合同案件の協力関係を壊しかけていました」
「壊れてもよかった。君を軽んじる相手と組む気はない」
まただ。レオナルドは——こういうことを、平然と言う。
返す言葉を探している間に、ギルド連盟本部の門を出た。夕暮れの街路に出ると、石畳に長い影が伸びている。
「……先に帰ります。報告書をまとめなければ」
「待ってくれ。もう暗くなる」
レオナルドが外套の内側から何かを取り出した。小さな手提げ灯だった。火が灯してある。
「いつ用意したんですか」
「会議の前に、本部の受付で借りた。帰りは暗くなると思ったから」
会議が始まる前から、帰り道のことを考えていた。私が夜道を歩くことを、最初から想定していた。
「……借り物なら、返さないといけないでしょう」
「明日返しに来る。ついでに連盟に提出する報告書も届ける」
断る理由が、ない。
手提げ灯を受け取った。小さな炎が、ガラスの中で揺れている。
レオナルドは私の隣を歩いた。半歩の距離。いつもと変わらない間隔のはずなのに、自覚した後では全てが違って感じる。
帰り道、仕事の話をした。合同案件の段取り、鉄の誓いとの連携、担当区域の事前調査。必要な話ばかりだ。必要な話しか、していない。
ギルドの前に着いた。
「おやすみ、ジュリエッタ。灯りは持っていっていいから」
レオナルドが背を向ける。
「おやすみなさい。——レオナルド」
呼び止めたのは、ほとんど無意識だった。
レオナルドが振り返る。
「今日の会議——ありがとうございました」
ベルトラーニに対する発言のことだ。降りる、と言い切ったこと。私の名前を出して、実績を並べて、事務方と呼ぶなと言い切ったこと。
「君が自分で決着をつけた。僕は最初に口を出しただけだよ」
「それでも。最初に声を上げてくれたから、私が立てました」
レオナルドが少しだけ目を見開いた。——こういう言い方を、以前の私はしなかった。「自分で対処できました」と突き返すか、「ギルドマスターとしての判断に感謝します」と仕事の枠に収めるか、どちらかだった。
ありがとう、と素直に言えたのは——好意を自覚した後だからだ。
「……どういたしまして」
レオナルドが少しだけ笑って、歩き出した。
その背中を見送って、ギルドに入った。
執務室に戻ると、窓際の棚に花瓶がある。筆記具の横に予備のインク瓶がある。椅子の背にはブランケットがかかっている。レオナルドが少しずつ置いていったものたち。
手提げ灯を机の上に置いた。小さな炎が、ほんのりと辺りを照らす。
今日、地図を挟んで向かい合った時のことを思い出す。私が地形を読み、レオナルドが戦場を描き、二つの思考が一つの作戦になった、あの瞬間。
仕事のパートナーとしては——完璧だ。
でも。
「お願いします」と言った時の、自分の声の震えを覚えている。「無事でよかった」と言えなかった、廊下での沈黙を覚えている。「壊れてもよかった」と言い切ったレオナルドの横顔を覚えている。
——仕事のパートナーというだけでは、済まない。
手提げ灯の炎が、静かに揺れている。




