第12話 亀裂
ファルネーゼ伯爵の巡回契約が本格始動し、季節ごとの編成パターンの微調整が始まった。同時にベルナルディ商会の年間契約の更新時期が迫っている。契約条件の見直し、護衛ルートの最適化、冒険者の配置換え。それに加えて新規の依頼が立て続けに舞い込んでいた。
星の道標の評判が広がり始めている証拠だ。ギルドが成長している。嬉しいことのはずだった。
実際、嬉しかった。——嬉しかったし、忙しかった。忙しいことは、ありがたい。
朝は日の出前に執務室に入り、夜は事務職員が全員帰った後も灯りをつけて書類を捌いた。依頼書の査定、契約書の精査、冒険者の適性記録の更新、大口顧客への報告書の作成。どれも私がやるべき仕事で、どれも手を抜けない仕事で、どれもレオナルドのことを考えなくて済む仕事だった。
外套は返すことにした。
翌朝、出勤してすぐにレオナルドの机の上に畳んで置いた。「ありがとうございました。もう暖かくなってきたので」と短い書き置きを添えて。嘘ではない。今は外套がなくても耐えられる季節だ。
レオナルドは何も言わなかった。書き置きについても、外套を返されたことについても、一言も。
ただ翌日、執務室の椅子にブランケットがかけてあった。
誰が置いたのかは聞かなかった。聞けば、またあの照れたような目で「たまたま余っていたから」と言うのだろう。
ブランケットは——使った。椅子にかけてあるものを退けるほうが不自然だと、自分に言い訳をして。
そうやって、少しずつ。レオナルドの気遣いを受け取りながら、個人的な会話だけを削っていった。
依頼の報告は受ける。編成の相談には応じる。ギルド運営に必要な打ち合わせは、以前と変わらずこなす。ただ、それ以外の時間にレオナルドと二人きりにならないよう、意識して動線を変えた。
レオナルドが訓練場にいる時間帯に書類を届ける。レオナルドが食堂にいる時は執務室で食べる。すれ違う時は仕事の話を一つだけして、それ以上会話が続く前に歩き出す。
不自然だっただろうか。多分、不自然だっただろう。でもレオナルドは指摘しなかった。こちらが引けば追わず、こちらが仕事の話をすれば仕事の話で返す。ただ——執務室に、小さなものが増えていく。
新しい筆記具。インク壺の横に、いつの間にか置かれている予備のペン。窓際の棚に、小さな陶器の花瓶と一輪の花。
どれも、大げさではない。日常の風景に溶け込む程度のもの。だからこそ、拒めない。拒むほうが意味を持ってしまう。
この人は、距離を取られても追いかけてこない。ただ、手を止めない。
その一貫性が——正直に言えば、つらかった。
追いかけてくれたなら、拒めた。踏み込んできたなら、突き返せた。でも線の外側に立ったまま温かいものを置いていかれると、受け取るしかない。受け取るたびに、距離を取ると決めた自分が少しずつ崩れていく。
だから、仕事に逃げた。
仕事をしている間だけは、自分がサブマスターであるという一点だけで立っていられる。感情を棚に上げて、数字と事実だけで判断できる。それが心地よかった。
——心地よかったのだ。体が悲鳴を上げるまでは。
***
異変に気づいたのは、依頼書の文字が二重に見えた時だった。
目を擦って、もう一度見る。文字は一つに戻った。ただ、頭の奥に鈍い痛みがある。肩が重い。首を回すと、左の首筋に鋭い凝りが走った。
——疲れているだけだ。
机の上には、まだ未処理の書類が十数枚ある。ベルナルディの契約更新案、ファルネーゼの巡回ルートの修正、新規依頼の一次査定。どれも今日中に終わらせたいものだった。
ペンを握り直す。文字を書こうとして——指先の力が、抜けた。
ペンが、机の上を転がった。
拾おうとして手を伸ばす。体が——重い。腕を持ち上げるだけで、妙な疲労感がある。
「サブマスター」
リナの声が、遠くから聞こえた気がした。
「サブマスター、顔色が——ちょっと、大丈夫ですか!?」
リナが執務室に入ってきて、私の顔を覗き込んでいる。その表情がひどく心配そうだった。
「大丈夫です。少し、疲れが——」
「大丈夫じゃないです。休憩室に行きましょう。今すぐ」
リナに腕を取られて立ち上がった瞬間、視界が揺れた。
足元がおぼつかない。廊下を歩いているはずなのに、地面の感覚が曖昧だ。リナが腕を支えてくれていなかったら、壁にぶつかっていたかもしれない。
休憩室のソファに横になると、天井がぐるぐると回った。
「ここ数日、ちゃんと寝てました?」
「……寝てます」
「何時間?」
「……三時間くらい」
「三時間! いつからですか!?」
「……先週、くらいから」
リナが絶句した。
「ご飯は?」
「食べて——」
「嘘。ここ三日、パンを一つ買っただけだって聞きましたよ」
パンは食べた。一つだけ。それは嘘ではない。ただ、三日で一つだったことは意識していなかった。
「ターニャを呼んできます。あとレオナルドさんにも——」
「レオナルドには言わないで」
反射的に口をついて出た言葉だった。
リナが不思議そうな顔をした。当然だ。ギルドマスターにサブマスターの体調不良を報告しない理由がない。
「……今日、レオナルドは討伐依頼に出発する日でしょう。邪魔をしたくないんです」
「でも——」
「お願いします、リナ。少し休めば大丈夫ですから。依頼に支障が出るほうがギルドにとっては問題です」
リナは納得していない顔だったが、それ以上は言わなかった。毛布を持ってきて、水差しを枕元に置いて、「一時間後に様子を見に来ます」と言い残して出ていった。
休憩室は静かだった。窓から午前の光が入っている。天井の木目を見つめていると、少しずつ視界の揺れが収まっていく。
——何をやっているんだろう。
仕事に逃げて、体を壊して、挙げ句にレオナルドに心配をかけたくないと言い張っている。距離を取るための仕事だったはずなのに、仕事で倒れたら本末転倒だ。
目を閉じた。少しだけ眠ろう。体が休息を求めている。頭が重くて、考えることを拒んでいる。
このまま少しだけ——
***
足音で目が覚めた。
軽くて均等な歩幅。靴底を引きずらない、聞き慣れた歩き方。
——レオナルド。
目を開けると、休憩室の扉が開くところだった。レオナルドが入ってきた。鎧は——着けていない。討伐依頼の出発前なら、もう装備を整えているはずの時間なのに。
「リナから聞いた」
穏やかな声だった。怒っていない。責めてもいない。ただ、目が真剣だった。
「……言わないでと頼んだのに」
「リナを責めるな。彼女はギルドマスターに報告する義務を果たしただけだ」
正論だった。サブマスターの体調不良をギルドマスターに伝えるのは、職務上の判断として当然だ。リナは正しい。
レオナルドが、ソファの横に膝をついた。
手が伸びてきて——額に触れた。
硬い手だった。冒険者として剣を握り続けてきた掌。その硬い手が、ひどく慎重に額に置かれている。まるで壊れ物に触れるみたいに。
「熱はないな。……疲労か」
「少し根を詰めすぎただけです。昼まで休めば——」
「今日は休め」
静かで、でも揺るがない声だった。
「依頼はどうするんですか。今日出発の討伐——」
「延期した」
その一言に、ドキリとした。
「……え?」
「さっきリナの報告を聞いて決めた。出発は明日にする」
「そんな——依頼主に迷惑が——」
「余裕のある日程を組んでくれたのは君だろう?」
レオナルドが、少しだけ笑う。困っているような、でもどこか嬉しそうな笑み。
「余裕があるのは、君が予備日を設けてくれていたからだ。——それに」
レオナルドが、真っ直ぐにこちらを見た。
「君の体より大事な依頼はない」
——こういうことを言う。
この人は、こういうことを、何でもないように言う。
大仰な芝居ではない。熱を帯びた告白でもない。ただ事実を述べるように、「君の体より大事な依頼はない」と言う。言葉の重さに本人が気づいていないのか、気づいた上で言っているのか、どちらなのかもわからない。
「……こういうことをされると、困ります」
声が掠れた。
「困る?」
「はい。——困ります」
なぜ困るのかは言えなかった。言ったら、取り返しがつかなくなる。
レオナルドは黙って立ち上がり、水差しからコップに水を注いで差し出した。
「飲んで。それからちゃんと眠るように。仕事のことは考えなくていい」
「でも、ベルナルディ様の——」
「ベルナルディのところの更新案は僕が目を通しておく。判断が必要な部分だけ明日聞く。——君が一日いなくてもちゃんと回る仕組みを作ったのも、君だろう」
反論ができなかった。その通りだ。事務職員に一次査定を任せられる仕組みも、判断基準の文書化も、全部私がやったことだ。私が休んでも、止まらないようにできている。
水を受け取って、一口飲んだ。冷たい水が喉を通って、体の芯まで沁みていく。
「少し外すけど、昼には戻る。それまで寝ていてくれ」
レオナルドが毛布を直した。ずれていた端を、丁寧に肩まで引き上げる。その仕草が——ひどく優しくて、目の奥が熱くなった。
扉が閉まる。足音が遠ざかっていく。
天井を見つめた。
ああ——と思った。
ああ、私は、この人のことが——
言葉にならなかった。思考が形を結ぶ前に、胸の奥で何かが溢れかけて、それを必死に押し留めている自分がいた。
レオナルドの手の感触が、まだ額に残っている。硬い掌の、あの慎重さ。依頼をキャンセルして駆けつけてくる、あの迷いのなさ。毛布を直す手の、あの優しさ。
好き、という言葉が浮かんで——
同時に、別の声が頭の中で響いた。
『お前がいなきゃ回らないんだ、ジュリエッタ』
ロレンツォの声だ。すべてはそこから始まって、十年積み上げて……一瞬ですべてが崩れ落ちた。
レオナルドとの関係は、まだ何も始まっていない。始まっていないのに、もう怖い。始まってしまったら——
毛布の中で手を握りしめた。
今でもこんなに苦しいのに、好きになってしまったら。
——いや。
好きになっていなければ、こんなに苦しくないはずだ。もう遅い。もう好きになっている。自分で認めたくなかっただけで、とっくに——多分、ずっと前から。
毛布の中で目を閉じた。額にはまだ、あの硬い掌の感触が残っている。
——どうしよう。
そんな言葉だけが、暗闇の中でぐるぐると回っていた。




