第15話 始まり
朝日が、執務室の窓から差し込んでいる。
いつもと同じ光だ。同じ窓、同じ机、同じ椅子。窓際の棚には、淡い黄色の押し花がある。もう色が褪せかけているけれど、捨てなかった。最初にレオナルドが持ってきてくれた花。
何もかもいつもと同じはずなのに、今朝は少しだけ世界の輪郭がはっきりしている気がする。空気が澄んでいるのか、光が明るいのか。——多分、どちらでもない。
依頼書に目を通す。ファルネーゼの巡回ルート第四中継点の定期報告、ベルナルディ商会の護衛日程の微調整、新規冒険者三名の登録申請。どれも日常の業務だ。
ペンを取って、査定を始める。仕事の手は、昨日と変わらない。当たり前だ。サブマスターとしての私は何も変わっていない。
——変わったのは、それ以外の全部。
廊下から足音が聞こえた。軽くて均等な歩幅。
以前なら、この足音が近づくだけで身構えていた。目を合わせる時間を計算し、会話の長さを測り、距離を保つために頭を使っていた。
今は——ただ、顔を上げた。
「おはよう、ジュリエッタ」
「おはようございます」
鎧姿のレオナルドが扉の前に立っている。今日は討伐依頼に出る日だ。
前までならならここで終わっていた。「おはようございます」「おはよう」。仕事の挨拶を交わして、それぞれの持ち場に戻る。それだけ。
今日は違う。
「——ちょっと待ってください」
椅子から立ち上がって、レオナルドの前に歩み寄った。
「鎧の——ここ、留め具が緩んでます」
右の肩当ての革紐が、半周分だけ緩んでいた。戦闘中に外れるほどではないが、衝撃を受けた時にずれる可能性がある。
手を伸ばして、革紐を締め直した。指先が鎧の冷たい金属に触れる。
「……君、こういうことも見えるのか」
「冒険者の装備の不備を見逃すわけにはいきません」
仕事の言葉だ。——でも。
革紐を締め終えた後、手がすぐに離れなかった。鎧の肩口に、一瞬だけ掌を置いた。言葉にならない気持ちを、そこに預けるように。
レオナルドが、少しだけ目を見開いた。それから——嬉しそうに、困ったように、笑った。
「……行ってくる」
「気をつけて。——帰還予定は?」
「明日の夕方。遅くなっても明後日の朝には」
「わかりました。帰ったら報告をお願いします」
仕事の会話だ。仕事の言葉しか使っていない。
でも、その言葉の裏にあるものが変わった。「気をつけて」は指示ではなく祈りだ。「帰ったら報告を」は業務連絡ではなく、帰ってきてほしいという願いだ。
レオナルドにはそれが伝わっている。伝わっているから、あの笑い方をする。
足音が遠ざかっていく。
椅子に戻って、依頼書に目を落とした。ペンを取る。仕事を始める。
——変わったのは、ほんの少しのことだ。
肩の革紐を直す。帰還を待つ。それだけのことが、以前はできなかった。距離を取らなければと思い、線を引かなければと思い、自分の手を自分で縛っていた。
今はもう、縛らない。
***
夕方、ギルドの酒場が賑わっていた。
合同案件の第三区域が無事に完了し、鉄の誓いとの連携も成功裡に終わったことが、今日正式に報告された。ベルトラーニから丁重な礼状が届き、次の合同案件への優先的な参加権も提示されている。
酒場のテーブルでは冒険者たちが杯を交わしていた。ガルシアが大声で笑い、リナがエミリオをからかい、職員が酒を運んでいる。新しく加入した冒険者たちも、古参の面々に馴染み始めている。
——この風景を、知っている。
別の場所の、別の夜。焼けた肉と安い酒の匂い。杯が打ち鳴らされ、テーブルを叩く拳が鳴り、歓声が酒場を揺らした夜。
紅蓮の剣の、追放の夜。
あの夜も酒場は賑わっていた。でも、あの賑わいはロレンツォの言葉に煽られた熱狂だった。私を追い出すことが祝い事になった夜。杯の音の裏で、何人かの冒険者が目を伏せていた。
今、目の前にある賑わいは違う。
ガルシアが笑っているのは、自分の仕事が上手くいったからだ。リナがからかっているのは、エミリオの索敵魔術が合同案件で絶賛されたからだ。職員が忙しそうに酒を運んでいるのは、冒険者が増えてギルドが大きくなったからだ。
誰かを追い出す熱狂ではなく、仲間の成功を喜ぶ笑い声。
自分の手で作った仕組みが、この場所を支えている。依頼の査定基準も、冒険者の適性記録も、変動編成の方針も、全て私が設計した。——でもそれはもう、私だけのものではない。事務職員たちが引き継ぎ、冒険者たちが実践し、ギルド全体の文化になっている。
私がいなくても回る仕組みを作った。それでも、私がいたいと思える場所を作った。
酒場の隅に立って、その風景を眺めていた。
「ジュリエッタさん! 飲まないんですか!」
リナが手を振っている。
「今日は見ているだけにします」
「またまた。——レオナルドさんが帰ってきたら一緒に飲みましょうよ」
レオナルドの名前が出た時、自分の顔が少しだけ緩むのがわかった。
——以前なら、こういう瞬間に引き締めていた。表情を作り直して、仕事の顔に戻していた。
今は、そのまま笑った。
***
翌日の夕方、レオナルドが帰ってきた。
鎧に泥がついている。マントの端はまた少し裂けている。でも怪我はない。歩き方で、わかる。
冒険者たちに囲まれて報告を受けているレオナルドを、受付の窓越しに見ていた。任務成功。負傷者なし。
——全員、生きて帰った。
冒険者たちが散っていった後、レオナルドが受付のほうに歩いてきた。
「ただいま。——報告書は明日でいいか?」
「明日で構いません。お疲れ様でした」
受付には職員がいる。二人きりではない。だから——
「お茶、淹れてあります。執務室に置いてあるので、着替えたら来てください」
レオナルドの足が止まった。
職員が不思議そうな顔をしている。いつもはレオナルドがジュリエッタに茶を淹れて持っていく側だ。逆は——初めてだ。
「……君が淹れてくれたのか」
「昨日届いた茶葉を試してみたかっただけです。——一人分だけ淹れるのも、二人分淹れるのも手間は同じですから」
仕事の理由。合理的な理由。——でもレオナルドは、私がそういう言い方をする意味をもう知っている。
彼の目が、柔らかく細まった。
「ありがとう。すぐ行く」
周囲の人がこちらを見て、何か言いたそうな顔をしたが、結局何も言わなかった。代わりに小さく笑っていた。
——気づかれている。多分、何人かには。
それでもいい。
執務室に戻ると、机の上に二つのカップが並んでいる。湯気はもう薄くなりかけていたが、まだ温かいはずだ。
少しして、扉が叩かれた。
「入ってください」
レオナルドが入ってきた。鎧を脱いで、普段着に着替えている。髪が少し湿っている。顔を洗ってきたらしい。
私が差し出したカップをレオナルドが受け取って、一口飲む。
「……おいしい」
「でしょう。——あなたが見つけてきた茶葉ですから」
レオナルドが笑った。嬉しそうに。あの泣き笑いの不器用な顔ではなく、穏やかな、安心した笑顔。
窓の外は夕暮れだ。橙色の光が執務室に差し込んでいる。窓際の棚の押し花が、夕日の色に染まっている。
二人で、茶を飲んでいる。仕事の話をするでもなく、特別なことを言うでもなく。ただ同じ部屋にいて、同じ茶を飲んで、同じ夕暮れを見ている。
「ジュリエッタ」
「はい」
「僕は——君に出会えて、幸運だった」
飾りのない、まっすぐな言葉。この人はいつもそうだ。大事なことほど、静かに言う。
以前の私なら、「仕事の相手として、ということですか」と返していた。あるいは「大げさです」と流していた。距離を取るために、言葉の意味を小さくしていた。
今は——
「……私もです」
それだけ。短い言葉。でもその言葉に、私の全部の気持ちが入っている。
何もかもが崩れたあの夜から、ここまで来た。ここまで来れたのは――優しく微笑む、レオナルドのおかげだ。
窓の外で、星が一つ見え始めている。夕暮れの空の端に、小さな光。
星の道標。
道を示す星。最初にこのギルドの名前を聞いた時は、レオナルドの理念を表す名前だと思っていた。立場に関係なく実力で生きられる場所。実力という星を頼りに進む道。
でも今は——もう一つの意味がある気がする。
この場所そのものが、私にとっての星だ。
迷って、怖がって、逃げようとして。それでもここに辿り着いた。自分の意志で選んだ仕事と、自分の意志で選んだ人がいる場所に。
「レオナルド」
「うん」
「明日の依頼、確認しておきたいことがあるんですが」
「……今?」
「今です。ファルネーゼの次期巡回計画と、合同案件の第二期の提案書を見てほしくて」
レオナルドが呆れたように笑った。
「告白の翌日に仕事の話か」
「翌々日です。——それに、仕事は仕事です」
「君らしい」
「……褒めてます?」
「褒めてる。最高の褒め言葉だ」
差し出した書類を受け取りながら、レオナルドが言った。
「君が君らしくいてくれることが、僕にとっては一番嬉しい」
——ずるい。
最初にこの言葉が浮かんだのは、いつだっただろう。茶葉を持ってこられた時か。外套を肩にかけた時か。
でも今は、意味が違う。
ずるい、ではなく。嬉しい、と素直に思えた。
「……ありがとうございます」
書類を広げて、二人で覗き込む。仕事の話を始める。巡回計画の数字、編成の微調整、提案書の文言。
肩が触れている。私達は、互いの体温を感じる距離にいた。
隣にいる。同じ書類を見て、同じ方向を向いている。
これが——私たちの始まりだ。
ジュリエッタとレオナルドの物語、楽しんでいただけましたでしょうか?感想などくださるととても嬉しいです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!




