2-22 深淵の都-⑬
少しだけ、長い夢を見ていた気がした。
神殿で目が覚める。
これが何度目かは、正直数えていなくてもう分からない。
この神殿にいると、時間の感覚が狂う。どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが夢なのか。どこからどこまでは生きていて、どこからどこまでは死んでいるのか。
正直、記憶は飛び飛びだ。恐らく気が狂っている時の記憶が飛んでいる。
……それらと比べると、今回は少しだけ心が落ち着いているようだ。
とはいえ、扉を開ければその先には変わらず熾天がいる。
なんにも状況は変わっていない。好転する兆しなんてものは微塵もなく、ずっと悪化し続けているといっていい。
その時、突然クロガネの身体が大きく揺れた。まるで地面が突然傾いたみたいに、勢いよく左方に倒れ込む。
これまでとは少し違う感覚。倦怠感と眩暈、気持ち悪さ。
「……、魔力が……」
知っている。クロガネはこの感覚が、魔力枯渇の前触れであることを知っている。
だが、どうしてこのタイミングで魔力が枯渇するのだろうか。そんな疑問は、たいして時間もかからずにあっさりと判明する。
「……」
身体から、魔力が抜けていくのを感じる。そしてそれは、ある一転に収束していく。……赫灼剣だ。
赫灼剣がクロガネの意思を無視して、魔力を強制的に吸い上げている。
驚きはした。が、それだけだった。
きっと、こんなに不甲斐ないクロガネに対して嫌気が差したのだろうと思った。妥当だ。その通りだ。何も言い返せないし、言い返すこともしない。
クロガネは立ち上がることもせず、横になったまま、赫灼剣に魔力を吸い取られるのをただ感じ取っている。
容赦なく魔力を吸い上げていく。何度も死んで、恐ろしい思いをして、クロガネは少しおかしくなってしまったのかもしれない。これ以上魔力を吸われたら間違いなく死に至ると分かっているのに、そんな状況に反してクロガネは静かに笑っていた。
「ふは、あはは……はは……」
視界が狭まっていく。身体が重くなっていく。意識が遠のいていく。
死ぬということ自体は今までと何ら変わりないというのに、酷く心は穏やかで、クロガネは眠るように死んでいった。
そうして、蘇っては赫灼剣に魔力を吸われて死ぬ、というのを何度も繰り返すことになる。
どうやらこれは試練を投げ出しているという判定にはならないようで、そういう意味でもクロガネは心地良ささえ感じていた。可笑しい話だ。本来は死ぬということは恐ろしいはずなのに、クロガネの中にはいつしか二つの死が存在していた。
苦しい死と、心地良い死。
どうせ死ぬなら、心地良く死にたい。そんな考えは、決して間違っているわけではないはずだ。
けれど、魔力を吸い取られて死ぬのには時間がかかる。痛みはないがじわじわと死んでいく。感覚的には餓死に近いのだろうか。
暇つぶし、などと言っていいのか分からないが、クロガネは気持ちを紛らわせるために、瞑想を始めた。
柱にもたれかかり、目を瞑って、呼吸をしているということに意識を向ける。
吸って、吐いて、吸って、吐いて。
そういえば、時間の経過が分からないんだよな、と思い至って、途中からは時間を数えるようになった。
何度も、途中でどこまで数えたのか分からなくなる。その度にイチから数え直していたから、結局どれだけの時間が経過したのかは分からなかった。
分からなくなるのは、雑念があるからなんだろうな、と思った。
人間というのは不思議なものだ。
きっとこのまま気が狂って、クロガネは普通には戻れないのかもなと思っていたが、ちゃんと目標があれば生きていけるものらしい。
その目標も、大それたことじゃない。
数字を一から百まで数える。子供みたいなかわいい目標から始まって、出来たら次は二百だ、次は五百だ、一千だ、二千だ、と目標を積み上げていく。
瞑想し始めて最初は、数え直して三百五十と少しのところで死んだ。
次も、その次も変なところで数え直して、死んだ。
四回目から、数え直しをしなくなった。
『4321』が最後だった。
次は、『4653』。
次は、『5086』。
次は、『5511』。
……気を抜いて、数え間違い。二回。
次は、『6129』。
次は、『6791』。
伸びている。明確に、時間が伸びている。
死ぬまでの時間が伸びている。言い換えるなら、──クロガネの数える速度は上がっていないという前提は必要ではあるが──魔力量が増えている、ということだともいえる。
魔力が引き抜かれる量が減ったかと言われると、そうは感じない。瞑想していると、魔力が引き抜かれる感覚が鋭敏になっていく。少なくなった、という感覚はない。
そうしてクロガネが異変を感じ始めた頃、まったく予期せず、一つ目の転換点を迎えることになる。
数字が一万を超えても、死なない。
結局、その時はクロガネが死んだのは一万二千を超えてからだった。
次第にクロガネの思考は冷静さを取り戻し、状況を検証するという目的ができた。
それによって、より一層クロガネは無心で数字を数え続ける。
『12842』。『13613』。『14355』。『15244』。『16045』。『17021』。『17945』。『19033』。『20040』。『21226』。『22317』。『23631』。『24837』。『26264』。『27599』。『29167』。『30619』。『32329』。『33925』。『35773』。『37506』。『39491』。『41352』。『43470』。『45480』。『47767』。『49921』。『52367』。『54685』。『57314』。『59801』。『62625』。『65293』。『68308』。『71184』。『74425』。
そして、二度目の転換点。──『148850』。
六十秒は、一分。
六十分は、一時間。三千六百秒。
二十四時間は、一日。八万六千四百秒。
『148850』秒は、言い換えれば実に約四十一時間。それだけの時間、クロガネは赫灼剣に魔力を吸われ続けていたことになる。
クロガネはそれを理解したとき、思わず変な声を上げて笑ってしまった。
四十一時間も瞑想して、無心で数字を数え続けて、そうして死んだ。馬鹿みたいだと思った。きっと俺は頭がおかしくなったんだと思った。
けれど、頭はきっちり動いている。ちゃんと考えている。ちゃんと覚えている、
扉の向こうにいる熾天のことも。扉を開ける度、殺されるリシアのことも。クロガネはちゃんと覚えている。
けれど、今はなぜかとても穏やかだ。心が落ち着いている。
「いひ、ひひひ……」何も面白くはないけれど、口角だけは吊り上がる。笑いが止まらない。自分でも何で笑っているのか分からない。「はっは、あは」
ゆっくりと立ち上がる。周囲を見ると、どこもかしこも、クロガネ、クロガネ、クロガネ、クロガネ、クロガネ、クロガネ、クロガネ、クロガネ、クロガネ、クロガネ……。クロガネの顔をした死体がそこら中に転がっている。
瞑想するのに決まって柱にもたれかかっていたから、柱の周りにずらりと並んでいる。まるで日陰者みたいだと思った。家族もなく、友人もなく、住む家もなく、金もなく、その日の食べ物すらなく、ただ柱に寄りかかって偽善を振りまく人間が来ることを祈って、施しをもらえることを願うような、そんな日陰者。
なにかがぷっつりと切れたような感覚がある。
本当なら、手放したくはなかったはずのものを支えていた糸が、ぷっつりと切れたような感覚。
クロガネは死体を見下ろして、けれど何の感情も浮かばない。何の感情も浮かばないということに対して、まったく酷い人間だな、という気持ちはあるのだけれど。
リシアを助けられず、熾天にも立ち向かえず、そんな情けない自分の死体。もしかすると、死ぬたびにそういった情けなさや弱さ、不甲斐なさ、総じてゴミ箱に捨てられて然るべきな感情を死体に押し付けていたのかもしれない。だから、死体を見ても何も感じないのかもしれない。
そう思ったら、死体を見ても何も感じないことに対して、少しだけ罪悪感が湧いてきた。
ゆったりとした動作で赫灼剣を抜き、赤熱化させる。
剣身に収まりきらなかった魔力が、炎となって周囲に飛び散った。それはクロガネの身体さえも包み込むほどの勢いで、赫灼剣を持つ右腕がじりじりと焼けていくのを感じた。
痛い。痛い。痛いけれど。リシアの苦しみを思えば、こんなのは痛くない。
そうして、クロガネはゆっくりと赫灼剣を死体に向けた。
死体の肩に赫灼剣を触れさせる。まるで騎士叙任式だ。相手は、騎士には成り切れなかったただの死体だけど。
ひとつに火をつけたら、瞬く間に死体が燃え上がる。一つの柱の周りに寄り添うように並ぶおよそ十人分の死体が、キャンプファイヤーみたいに燃え上がる。
また別の柱にもたれかかる死体に、火をつける。
また別の柱に。また別の柱にも。
復活地点の神殿が、炎で真っ赤に染まっていく。
赫灼剣は、溜め込んだ魔力を全部吐き出すみたいに、轟々と燃え上がる。その熱は鍔を溶かし、柄をも焼き尽くすほどだ。ついにクロガネは赫灼剣を持っていることもできず、地面に置いて、炎を眺めることしかできなくなった。
気が付くと右手は、もう焼け爛れているとかそういう状態ですらなく、ただの炭の塊みたいになっていた。剣を握るかたちのまま手は微動だにしなくなっていて、まるで右腕が石になってしまったみたいだった。
炎を眺めると、心が落ち着くのはなぜなのだろう。
気が付くと、赫灼剣を構成する鍔や柄は完全に溶けてなくなっていて、剣身もそろそろ溶けるのではないかと思うほどに光り輝いている。
燃えろ。
燃えろ。
焼き尽くせ。
全部、全部、灰にしろ。
いい子ぶって、誰も救えないような俺は。
死んだ方がマシなんだ。
クロガネは満面の笑みを浮かべて、最後に自分もその炎の中に飛び込んだ。




