2-20 深淵の都-⑫
いつも通りの道を辿って、扉の向こうへと向かう。
澱んだ空気の神殿にいるより、草原に出た方が気分的にはずっとマシだ。びゅう、と吹き抜ける風を感じて、クロガネは深呼吸をした。
吐き気は収まったものの、余韻というか、気持ち悪さは今だクロガネの下腹部に蟠っている。やはり自然の風は心地がいい。
さて、とクロガネは歩きながらザンタリアへと向かう。
まずはリシアと合流することが第一。とはいえ現状、リシアと会ったのはあの洞窟で一度目。二度目は街中。
次はどこで合流するかとか、そういうのを決める前に死んでしまったから困った。
「一先ず……洞窟かなぁ」
先にザンタリアまで向かうのもいいかもしれないが、行ったところでまた異形……もといバンドーリアと戦うのも面倒だし、それをするぐらいなら本来の異形の出現タイミングを見計らう方が利口な気がしている。
一度目の時点で異形が出現したのが、街に着いて次の日。これが分かっていることがクロガネにとってのアドバンテージであるのだから、これを今回は活かすべきだろう。
一度目をなぞって行動した先で異形の出現タイミングにズレが生じた場合は、逆に考えればリシアと同様に記憶を保持しているという結論に辿り着ける。
「はぁ……なんか疲れた……」
目覚めて早々に吐き気に襲われるのはがっかりだ。本当に……がっかりである。
急ぐ気にもなれないクロガネは、ゆっくりと洞窟目指して歩く。
空は相変わらずの曇天。
風に乗って流れてくるのは雨の匂い。
……雨が降り始めるかどうか。そんなタイミングでクロガネが洞窟に着くと、そこには先客がいた。
狭い洞窟の奥で、両足を丸めて座っている女性が一人。
「あ」と思わずクロガネは声を上げる。「……先に着いてたんだ」
その声に顔を上げたリシアの表情は、クロガネが思っているよりもずっと酷いものだった。
「……っ」
言葉を返すよりも先に、リシアは慌てたように立ち上がり、そのままクロガネに飛びついた。
突然のことに驚くクロガネを余所に、その胸に顔を埋め、微動だにしない。
「リシア?」そう言って肩に手を当てて、そこでようやくリシアの身体が震えていることが分かった。「……」
何も言わず、静かにリシアの頭を撫でる。
「……ごめんなさい」
「? 何で謝るのさ」
「もう少しだけ……このままで……」
「気の済むまでいいよ」クロガネは視線を外へと向ける。「そんなにすぐ、雨は止まないからさ」
雨の音が次第に激しくなる。
クロガネはリシアの頭を撫でながらゆっくり腰を下ろした。結果的に、リシアはクロガネの膝の上に乗るような形だ。
まるで小型の動物みたいだなと思った。
雷の音に怯える動物が、主人の膝の上で震えているような、そんな感じ。
そんなリシアの姿を見て、クロガネは何とも言えない気持ちになった。こんなにも弱々しい姿を見せるリシアを、これから先も巻き込まなければならないのだろうか。それは果たして正しいことなのだろうか。
「……」クロガネは静かに決意する。この試練は、なるべく早く乗り越えるべきだ。自分のためでもあるし、何よりも……リシアのために。
雨はまだまだ降っている。
◇
雨が小降りになった頃には、リシアもすっかり調子を取り戻していた。
今までがっちり抱き着いていたのが嘘みたいに、今度はクロガネから微妙〰〰に距離をとって座っている。
調子が戻ったようで喜ばしい反面、名残惜しさもある。
なんというかこう、リシアが抱き着いている姿は、クロガネにとってはとても可愛らしいものだったからだ。
「なんかもう……ほんとにごめんなさい」とリシアは何度も謝るけれど、対するクロガネはそれを咎めるつもりなど毛頭ないのだから「気にしなくていいよ」と返す。それでもリシアはずっと申し訳なさそうな顔を向けてくるものだから、クロガネから話題を変えた。
また失敗して振り出しに戻った時に、どのように行動するか。
これらを決めておくだけで迷わずに済む。
とはいえ今回の試練での異形の動き次第で修正は必要だろうが、話した結果でいえば次回からは洞窟よりもずっと前で合流するように決めた。
というのも、恐らくだがクロガネの出現する位置と、その時点でのリシアの位置は対して離れてもいない可能性が高いからだ。
そうなれば雨が降る前に合流し、急ぐ必要性はあるがザンタリアにかなり早めに到着もできる。
勿論、異形と出会うリスクはあるのだろうが、街に詳しいリシアの先導があれば可能な限り人通りの多いルートで冒険者ギルドに向かえるだろう。
翌日に異形化するバンドーリアが、わざわざ自分から一目のある通りに出てくるとは考えづらい。目的が不明瞭ではあるが、モルス・クルス絡みであるのなら基本的に裏路地を移動する……はずだ。
そんなことを話している内に雨は上がった。
雨雲はまだ支配的ではあるが、それでも所々に青空が見える。
「よし、行こう」先にクロガネは立ち上がって、リシアに手を差し出す。
「うん」リシアは迷わずにその手を取って、立ち上がった。
洞窟から出ると、雨上がりの澄んだ空気が二人を包み込む。リシアはぐっと身体を伸ばし、それから大きく深呼吸する。
その直後だった。ぶわ、と風が背中を押すように吹き抜ける。無意識にリシアへと視線を向けていたクロガネは、その風でリシアの髪がなびく様子を見て、思わず見入ってしまった。
リシアがこちらに気が付くより先にクロガネは視線を逸らした。だから気が付かれてはいないはずだが、それでも心臓は少しの間、不快さのない緊張感を滲ませていた。
それから二人はまず、それぞれが洞窟に来る前の移動経路を辿った。
クロガネは扉が出現した位置へ。とはいえ、何もない場所から扉が現れてそこから出てきたと言っても信じられはしないだろうから、この位置で前回の記憶が突然流れ込んできたということにした。
実際、リシアはそうなのだという。ザンタリアに戻る道中で突然、前回の記憶が流れ込んできたというのだ。
冷静に考えると、クロガネは“試練だから”という理由があるのだが、リシアにも同様の出来事が起こっている理由は何だろうか。
よくよく考えれば不思議だ。何かしら理由はあるはずだが、これだという確信はない。
しいて言うなら、この世界に来て最初に出会ったのがリシアだということぐらい。
少しだけ考えたが、結論は出るわけもない。すべては想像の域を出ない。なにせ情報が無さすぎるのだから、深く考えるのはやめた。
そうしてお互いの行動を把握した後、ようやくザンタリアへと向かい始める。
それからは……全部、同じだ。最初と同じ。景色も、ザンタリアが近くなった頃にベヒーモスと出くわすのも、同じだ。
慣れた手つきでベヒーモスを倒し、街道に入る。
相変わらず行商人の嫌そうな視線に晒されながら城門をくぐり、街中へと入った。
矢先だった。
「邪魔だ! 道のど真ん中に突っ立っていやがって!」と、クロガネから見て斜め前方、馬車を引く行商人の怒号が響いた。それを皮切りに、周囲の人々が一斉にその誰かを認識し始める。クロガネの位置からは視認できなかったが、周囲に漂うピリついた空気感から、少なくとも良いことではないというのは理解できた。
──今まで通りではない、出来事。
イレギュラーだ。
そしてそれは、本当ならクロガネの専売特許であって欲しかった。
クロガネの認知していない変化が起こっている。
そしてそれに関して、真っ先に思い浮かべられる存在はひとつしかない。
嫌な予感。……予感と言うには、やけに現実味のある嫌な未来図が脳裏に広がる。それは表情にも出ていたようで、隣を歩いていたリシアにも波及した。
クロガネはリシアの手を掴んだ。リシアも握り返してきた。それは、言葉を交わさずとも二人の認識に相違がないということの証明だ。
——ここにいるべきではない。そんな直観に従ってクロガネが行動を始めようとしたのと、視線の先で何かが膨れ上がったのは、ほぼ同時だった。
「異形……!?」と声をあげたのはリシアだった。「うそ……」
「いや、あれは──」
……熾天。
熾天だ。
信じたくはないが、かなり最悪のパターンであることは確かだ。
これはクロガネとリシアのほかに、熾天もまた繰り返しの記憶を保持していると考えるのが……妥当である。
それどころか、前回の経験も引き継いでいるからこそ異形となる手順をすっ飛ばして熾天へと至っているのだろう。
「くそっ」
もうなりふり構っていられなかった。周囲の人を押しのけて、クロガネは勢いよく裏路地へと向かって走り出す。
そんなクロガネの行動に触発されたように、周囲の人も一斉に動き出した。全員が熾天から逃げるため、城門へと向かって動き出す。くそ、と思った。或いは口に出していたかもしれない。クロガネの向かう方向は、動き出した人々の流れを直角に横切るような形になってしまっている。
熾天が出現した時点で、街の外に向かうのは愚策だ。前回はエリナがいなければ生き残ることができなかったといってもいい。つまり、大聖庁方面に逃げるのがクロガネやリシアにとって理想ではあった。
が、これでは無理だ。
人の流れには逆らえない。そんなことは、最初に経験している。
最初に異形が出現したとき。あの時もそうだった。
「くっ、ろがね……さん……っ」
「リシア……離れ、ないでっ」
成すすべなく、二人は流れの中でもがくしかない。転んだりすれば、混乱して気を配る余裕のない人間たちの足に踏みつぶされて死ぬかもしれないから。
クロガネはリシアを抱きとめる。あの時はクロガネが死に損なった。もう、目の前でリシアだけが死ぬのは嫌だ。死ぬしか選択できないというのなら、そこに意味がなくとも、リシアを守るために死にたい。
人の流れが生み出したそれはさながら津波で、クロガネとリシアを街の外めがけて押し流す。
そんな濁流の中で、今まさに魔法を放たんとする熾天の姿が数瞬だけ視界に映った。
もう、離してなるものか。クロガネの腕にすっぽりと収まるリシアの身体を、より一層強く抱きしめる。
けれどそれは、負けた人間の行動だ。
誰かを守るためとか。
罪のない人を巻き込みたくないとか。
いろんな理由を、心の中に巣食う善性が次から次へと吐き出して、それらは血流と共に全身を駆け巡り、脳にまで到達している。
決して悪いことではない。
けれど、それは戦いにさえ到達できない人間の行動だ。
周囲が光に包まれる。超高温は一瞬で周囲を焼き尽くし、痛みを置き去りにした。
ある意味で慈悲深く、同時に、残酷だ。
大丈夫、まだ次がある。そう思って、少しだけ油断していたのは事実だ。
何を捨てれば、何を守れるのか。
何を守るために、何を捨てなければならないのか。
クロガネは、考えねばならなかった。
クロガネは、決めねばならなかった。
だが、その猶予はここに終わりを告げる。
これから、彼は後悔することになる。
自身の善性による行動の選択により、出力された非情なる結果に対して。




