2-19 深淵の都-⑪
「ずっと、ずぅっと昔。神代と今では呼んでいる時代に、天使は存在したと言われているの」
「天使……」
「とはいっても、神代と呼んでいるそれは今から三千年よりも前の時代のことを指しているだけなんだよねぇ。実は今の人類史はその三千年前までの記録しか残っていなくて、神代が存在したという証拠はないの……たった二枚の手紙を除いて」
「……手紙? それは……神代からの?」
「そう。唯一、今の時代に向けて宛てられた神代からの二通の手紙。そこに記載されていたのが、天使の存在と、それを束ねる神々の存在。そして……魔導について。……内容も重要ではあるけれど、問題なのは、この手紙の在り処なの」
そこでようやく、クロガネはエリナの言わんとすることが理解できた。
「まさか、とは思うけれど」
「……この手紙の一枚は、現在こちら側にある。けれど、もう一枚は……現在、モルス・クルスの手に渡ったと考えるのが妥当ね」
「いや、まじか……」そこから先は、クロガネでも容易に想像できた。「ということは、魔力を知り、魔術を生み出したのはこの手紙のおかげ……? それだけじゃなく、……熾天、あれも」
「ええ。今話した内容に、天使が存在した、と言ったわよね。地球から来たなら多分聞き覚えはあったと思うけれど、まさしくその天使のことなの。熾天使。或いは、セラフィム」
「じゃあなんだ……モルス・クルスは、神代の時代に存在した天使を再現しようとしている、ということ……?」
「……」
エリナは何も言わずに、静かに頷いただけだった。
だが、ここで話は終わらないはずだ。
クロガネは、熾天が出現した──というより、熾天に変異した──時のことを思い返す。
その姿を見たとき、ブランシェは「熾天」と確かに呼んでいたのをはっきりと覚えている。
そこから推察できるのは、今回が初めてではないこと。そしてそれは同時に、さらなる最悪の状況をも想像させてしまう。
すなわち……熾天は完成間際である可能性がある、ということだ。
聖術士が異形をあのかたちで封印していたのは、“前回はあれで何とかなったから”或いは“前回を踏まえて、より強固な封印としたから”と想像するのが妥当だろう。
が、その予想に反して、熾天は封印を解いてしまった。つまりモルス・クルスはこちらの想定よりも先にいる可能性があるのだ。
と、そこまで考えてからふと、クロガネはあることに気がついた。
「ちなみに、その手紙の片割れは今どこに?」
「……言えない。もし仮に手紙が二枚ともモルス・クルスの手に渡ったとしたら、もう私たちには勝ち目がなくなる。こればかりは決して言えないの。でも、そうね……私が考えうる限り、最も安全な場所にあるとだけは言えるわね」
どこから情報が洩れるか分からない以上、エリナはこれ以上のことは言えない……そういうことなのだろう。
そして、手紙はエリナが最も信用できる場所にあると明言したということは、つまりそれについてクロガネが関われることはないということでもある。
とはいえ、モルス・クルスがこの街に熾天を放っているということは、明言していないにせよこの街のどこかに手紙があるのだろうということはクロガネでも推察できた。
やるべきことはうっすらではあるが見えてきた。
再封印した熾天をどうにかする……というのはかなりの難題な気がする。これに関しては、今はできることをするしかない。
寧ろ目下の問題は、二度目の異形、或いは熾天が来る可能性……もしくは。
モルス・クルス、直接の襲来。
◇
エリナとの会話を終えて、大聖庁を出る。
まだ外は明るいが、それでも夜の気配が漂い始めていた。真っ赤に染まる夕焼けと、その反対側から迫りくる夜の闇が、空を二分している。
それまではずっと大聖庁に……悪く言えば軟禁されていたような状態だった。それ故に寝る場所も食事も勝手に用意されていたのだが、だからこそ完全にそのことが頭からすっぽ抜けていた。
「……ああ、そうか……今回はまだ冒険者ギルドに行ってないのか……」
思い返せば、今回は冒険者ギルドに向かう途中で異形……あの時点ではバンドーリアと呼ぶべきか。彼に襲われて、それからは冒険者ギルドとは無縁の日々を過ごしていたのだ。
「寝床も冒険者ギルドだし、行かないと……」
……と、思い立ったはいいものの、大聖庁から冒険者ギルドまでの道をクロガネは知らないのである。
大聖庁前の広場で、クロガネはしばらく立ち止まって周囲を見回した。
前の記憶を思い返す。前回は遠目に大聖庁を眺めただけだが、おおよその位置関係はうっすらと覚えている。多分こっちだ。信じるべきは自分の記憶だ。きっと間違いない。大丈夫……。
そう自分に言い聞かせながら歩き始めて間もなくのことだった。
「あっ、クロガネさ~ん!」
「ん?」後方からの声に振り返ると、そこにはリシアが立っていた。「あ! リシアさん! た、助かった」
「えっ、どうしてですか?」
「冒険者ギルドまでの道が分からなくて……」
「あぁ〰〰……なるほど」
そう言いながら、リシアはくすくすと笑った。
「冒険者ギルドと反対側に行こうとしてたから、なんでかなって」
「…………なんだって?」
自信満々に逆方向に行こうとしていた男がこの広場にいたようだ。クロガネである。
うおおおお恥ずかし!! 穴があったら入りたい!! そうクロガネは心の中で叫ぶと同時に、釣られてリシアも笑い出した。
それから、リシアと並んで冒険者ギルドに向かった。
道中、色々な話をした。他愛もない話だ。
本当なら少しでも情報共有するなりして、今後のことを話し合うべきなのかもしれない。
けれど、今はそんなことをする気分ではなかった。今はただ、リシアと話している時間が楽しいのだ。
クロガネには、そういう時間が必要だった。
冒険者ギルドについたら、前の記憶通りに受付の女性に挨拶をして、滞在票の申請を行う。
それが終われば、二階に上がって宿の手続き。受付の男性は前回と同じだったし、少し離れた柱の陰からこちらに視線を送る男がいるのも同じだった。
宿の手続きが終わっても、クロガネはすぐには部屋に向かわなかった。二階のテーブルでリシアが待っているからだ。
「なんか今日は、もうちょっと話したい気分なの」太陽はとっくに山の稜線の向こうに旅立って、空はすっかり夜の色に染まっている。もう帰った方がいいんじゃ、とクロガネは言った。言った……けれど。リシアの寂しげな表情を見て、ずるいなぁと思った。これじゃあ、追い出そうとしているみたいじゃないか。
というのもあって、クロガネが折れた。
どこから買ってきたのか分からないが、いつの間にやらリシアは二人分の飲み物をテーブルに置いていた。
我儘を聞いてくれたから、私の奢り。とリシアはにんまり笑った。
「……ありがと」
「これを飲み切るまでは、お話できるね」
「それが狙いか!」
「……ふふっ」
少し離れたところから、どたどたとせわしない足音が聞こえた。きょとんとしてその音の方向を見つめるリシアの様子を見る限り、どうやらリシアはその音の正体を知らないようだ。本当に話しかけもできず、片思いを拗らせているということなのだろう。
「なにかあったのかな?」とリシアは首を傾げて言った。
「なにかあったんだろうね」とクロガネは、困ったように笑って答えた。
宿の受付の男性を見ると、案の定、頭を抱えていた。顔は見えないが、おおかた呆れているであることは想像に難くない。
それから、リシアと話した。
本当に、他愛もないことばっかりだ。
好きな色。
好きな動物。
美味しい食べ物の店。
綺麗な装飾品の店。
この街のおすすめスポット。
……どうして今日、リシアがこんなに話したい気分だったのかは、正直よく分からない。もしかすると、言葉に言い表せない胸騒ぎ、或いは虫の知らせのようなものでも感じていたのかもしれない。
まぁ、『次』の時に聞けばいいのかな、とクロガネは地面に横たわりながら思った。
リシアと話していたから、それが正確に何時の出来事だったのかと聞かれると、それに答えるのは難しい。
ただとにかく言えることがあるとすれば、それは冒険者ギルドもとっくに静まり返った夜の時間帯だったということだけ。
最初に轟音が響き、少し遅れて地面が震えた。
そして、声が聞こえた。
『約束を破ったな……神籬エリナ』
男とも女ともとれる中性的な響きで紡がれる、怒気を孕んだ声。
そして同時に、どこか悲しげな響きもあった。
◇
■■■■──。
「……」
神殿の天井だ。
つまり、死んだということだ。
「……何だったんだ、あれ……」
正直に言うと、本当に何にも分からないまま死んだ。痛みとか苦しみはなく、死んだという実感もない。ただ、あの声が聞こえた直後にふっと暗転して、気がついたらここにいた。
対策するとかどうとか、そういう次元の話ではない。というより、『死』というものすら超えた何か不思議な出来事……そんな感じだった。
死という概念を超えるものがこの世に存在するとも思えないが、あまりにも異質な感覚で、あれを“死んだ”と表現するのは何か違うような気すらする。
まるでバグだ。本来辿るべき過程をすっ飛ばして、いきなり結果だけが出てきたような。
そんなことを考えているうちに、突然の気持ち悪さがクロガネを襲った。
「う、ぁ……」酔った、という感覚に近い。「う────」
クロガネの胃の中には何も入ってはいない。吐き出すものがないのに、吐き気だけが襲ってくる。最悪のやつだ。
何も吐き出せないだけに、余計に気持ち悪い。四つん這いになったり、横になったり、立ち上がってみたり。少しでも気が紛れるように色々な姿勢を試す。傍から見たら、これこそまさに『のたうち回る』というやつだろう。乾いた笑いは、すぐに吐き気に押し出されてどこかに消えた。
正確な時間は分からないけれど、大体三十分ぐらい経って、ようやく落ち着いてからクロガネは立ち上がった。
「……」
頭は回らないが、それでも分かることはある。
今回の終わりに聞こえたあの声。正体は分からないものの、何かしらの条件があったのは間違いないはずだ。
そしてそれは——エリナ。聖女絡みであることは間違いない。
彼女は何かを隠している。しかも、それがクロガネにとっての試練の『ゲームオーバー』足りえる程の大きな秘密を。




