2-09 深淵の都-①
神殿から下っていく階段の先に、扉がある。かつてその先には一方通行の洞窟が繋がっていたが、今回は違っていた。
「……うお」
扉を開けた瞬間に、隙間から光が差し込む。おや? と思いながら開いた扉の向こうの景色に、思わず声を上げた。
そこは地下でもなんでもなく、平原が広がっていた。空は青く、雲が浮かんでいる。遠くには山々が見え、風が草を揺らしている。やや離れた位置には都市と思しき建物群も見える。
突然の光景の変化に、クロガネは大いに戸惑った。当然だ。地下空間があるはずの場所に、地上の風景が広がっているのだから。
思わず振り返る。開きっぱなしの扉の向こうには、確かに今まで下ってきた階段が見えた。
間違いない。ここが次の試練の場所なのだろうと、クロガネは理解した。
そう思うや否や、びゅうと風が吹き、扉が勢いよく閉まった。……と、同時に忽然と姿は消えた。まるで初めから何もなかったとばかりに。
「……やっぱこのパターンね、了解」
深呼吸を三度ほど。心を落ち着けてから、クロガネは辺りを見回した。
試練というのだから、何か課題があるはずだ。そして目的地もあるのだろう。
だが、今のところそれらしい情報はない。見えるのは平原と遠くの都市だけだ。ぐるりと見渡しても、正面に都市がある以外は、特に目立ったものはない。……となれば、あの都市が目的地と考えるのが妥当だろう。
そうしてクロガネは歩き出した。
地面を踏みしめる感覚が懐かしい。そういえばこれまで通った道はずっと石の床だった。それと比べるとあまりに歩きやすく感じる。足が地面を踏みしめるたびに、大地は適度にクロガネの体重を受け止め、反発してくれる。
さぁ、と風が吹く。草の揺れる音。僅かに湿度の混じった匂い。
クロガネは空を見上げた。雨が降ってきそうだ、と思った。けれど視界に映る雲は白く、厚みがない。雨雲ではないようだ。
だが雲の流れは速い。あっという間に雨雲が空を覆い尽くして、雨が降ってきそうな、そんな感覚。
「急いだほうがいいのかな……」
そんなことを思っている内に、山の向こうからどんよりとした表情の雲が顔を覗かせる。余程嫌なことでもあったに違いない。真っ黒なその見た目は、これから激しい雨を降らせるぞ周りに訴えているようだった。
都市と雨雲を交互に見る。雨が降る前に都市に辿り着くのは厳しそうだ。クロガネは足を速めながらも、雨風を凌げそうな場所を探して視線を巡らせる。
風に乗ってやってくる、草の匂いが強くなってきた。
不味いな、という感覚。びしょ濡れは嫌だなぁ、と思った矢先だった。
「お?」それはなだらかに隆起した地面の一部だった。小高い丘のようにせり上がったその斜面からは岩肌が覗いている。もしや、と思って注意深く近づいてみると、岩肌の一部に穴が開いている。当たりだ。「やりぃ」
中を覗き込めば、然程広くはないが雨風を凌ぐには十分な空間がある。クロガネは急いで中に入り、穴の奥へと進んだ。
立ち上がることは出来ず、中腰で進むしかなかったが、雨風を凌げるだけで十分だ。クロガネは穴の奥で腰を下ろし、一息つく。それを見計らったかのように、外では風が強まり、雨が降り出した。
「……」
まばらだった雨音は次第にその間隔を狭めていき、やがて激しい雨音へと変わった。風も強まり、穴の外では草が大きく揺れているのが伺える。
この悪天候はしばらく続きそうだ。クロガネは穴の中を見回した。端的に言うと、暇だ。雨が止むまでここで待つしかない。
そうして視線を巡らせるクロガネの目に留まったのは、穴の壁に刻まれた模様だった。
「んん?」また日本語だ。クロガネは近づいてその模様を見つめた。──この空間は外界から置き去りにされている。ここの一日は、外界の一秒に満たない。「……置き去り?」
──ここは奈落。生と死の混在する、世界の狭間。輪廻の外側、無の領域。
神殿の柱に刻まれていた文言が、クロガネの頭の中に蘇る。“奈落”とやらが“この空間”と同義であるのならば、ここは時間の流れが異常に早い場所ということになる。
わざわざ日本語で刻まれている辺り、クロガネに対するメッセージなのだろうと感じた。
もしその通りならば、この空間で過ごすことは決して損失にはならず、むしろ有益である可能性すらある。
言い換えれば、いくらでも時間をかけてこの試練に挑める、ということだ。
……と、その時だった。
「ひぃ〰〰〰〰っ」と、洞窟の外から女性の声。切羽詰まった雰囲気ではあるが、生き死にに関わるような声音ではないことは確かだ。「あっ、洞窟っ!」
もしかしたらこの近くに別の洞窟があるのかもしれない。と、考えたりもした。勿論そんなわけはない。この洞窟を見つけた時、周囲にそれらしいものが見つからなかったということはクロガネが確認している。
つまりだ。この声の主は、この洞窟目掛けて走ってきていると考えるのが妥当だろう。
気まずいなぁ。と思いながらも、クロガネは穴の中でじっとしていた。
「雨宿り場所とうちゃ…………く?」
狭い洞窟の中を警戒する素振りもなく、女性は転がり込むように中へと入ってきた。外は土砂降り。洞窟の中が危険かどうかよりも、まずは雨を凌ぎたいという気持ちが勝ったのだろうことは想像に難くなかった。
雨に濡れても色褪せる様子を見せない、輝くようなブロンドヘアと、不釣り合いな胸当てや篭手といった防具。背中には弓。冒険者か、それに近い同業者だろうか。にしては警戒心が薄い気もするが……。
そんな女性の視線は、真っ先にクロガネへと向けられる。
「……う?」
「……ど、どうも、先客で〰〰す……」
取り敢えずクロガネは視線を背けた。土砂降りの中を走ってきたのだから当然女性はずぶ濡れであるし、最悪なのは女性の服装が比較的軽装であることだった。防具はいくつか身に付けているものの、部分的だ。濡れた服が肌に張り付いている様子は、クロガネの目に悪影響を及ぼす可能性がある。
というか。すでに悪影響を及ぼしている。
「うひぃ……!?」女性は数瞬の戸惑いののちに、ぼっと頬を紅潮させながら慌てて自身の身体を丸めて縮こまった。「あっ、えっと、その、先客がいるとも知らず、すみません……」
謝りたいのはこちらの方だ。クロガネは心の中でそう呟いた。
こんな状況下で、良いもの見せてもらいました、なんて言えるわけがない。相手は間違いなく困っているというのに。
「まぁまぁ……取り敢えず、奥に入ってください。そこじゃ雨当たるでしょ」
「あ、えっとぉ……」
「お、俺は入り口の方に移動しますから……!」
「お心遣い、ありがとうございます……」
狭い洞窟の中で、二人は距離を取った。クロガネは入り口付近へと移動し、女性は奥へと進む。
その間、クロガネは極力女性の方を見ないように努めた。それを察したのか分からないが、女性は何度もすみません……と呟いていた。
洞窟の入り口からクロガネは外の様子を窺った。相変わらずの土砂降りだ。まだまだ止みそうにない。
周囲を満たすのは雨と風の音。そして洞窟の中にあるのは何とも言い難い気まずさと沈黙。
クロガネはせめてもの気まずさを紛らわすために、振り返らずに女性に話しかけた。
「……さ、災難でしたね。こんなに土砂降りになるとは」
「え……あ、はい……」
「……」
「……」
会話続かない!! クロガネは思わず頭を抱えそうになった。
というか普通に考えると、女性も相当気まずいはずだ。見知らぬ男と二人きりで雨宿りしているのだから。
……と、そこでクロガネははたと気が付く。
女性を奥に誘導したのは悪手だったのではないか、と。
これではまるで女性が逃げないようにクロガネが見張っている構図だ。気まずいというかこれはもはや女性からすれば危機的状況であると感じている可能性が非常に高い。
クロガネは思わず頭を抱えそうになった。
その顔面は蒼白であるに違いない。
「……へくちっ」
沈黙が支配していた洞窟内に響く、くしゃみ。
「……あ、すみません……」
そう言えば、とクロガネは思い出した。女性はずぶ濡れだった。かつ、外から吹き込む風はやや肌寒い。
このままいれば、風邪を引いてしまうかもしれない。クロガネは慌てて女性に声をかけた。
「ちょっと寒い、ですよね」
「へ? あ、いえ、お気になさらず……へくちっ……うう……」
「あの、どうかびっくりしないで下さいと、あらかじめ言っておきますね」
「……?」
クロガネは赫灼剣を抜いた。クロガネは振り返ってはいないが、女性が驚いているであろうことは容易に想像できた。
それから間もなく赫灼剣を赤熱化させると、「あの、極力見ないようにしますんで……」とクロガネは言い添えた上で、女性の方へと振り返り、赫灼剣の刃先を女性の方へと向けた。
この構図はいかにも危険な男が女性を脅しているように見えるかもしれない。というかまんまそうなのであるが、そこは勘弁してもらいたい。
あくまで、クロガネは女性に危害を加えるつもりはない。そんな思いを込めて、赫灼剣の柄を女性に向けて地面に置く。もし信用ならないなら、この赫灼剣でクロガネを刺し殺せ、という意味合いもある。
クロガネはすぐに背を向け、洞窟の入り口付近へと戻った。
「……」
洞窟内に再び静寂が訪れた。
それまで以上の沈黙。いっそこのままクロガネは外に出てしまおうか、と思ったほどだ。
それから、どれぐらいの時間が経過したのかはあまり覚えていない。というか、気まずい沈黙と後ろから刺されるかもしれないという緊張感から休んだ気はしなかったし、時間がどれぐらい経過したかなんて考える余裕もなかった。
土砂降りが一層激しくなったように感じたその時だった。クロガネの背後からぼそっと女性の声がした。
「……リシア、です」
「え?」
「私の名前、リシア、です……。あ、あなたの名前は……?」
会話。会話だ。クロガネは思わずほっと息を漏らした。
「俺は、クロガネです」
「クロガネさん……、その、えっと」女性は……いや、リシアは少し口ごもりながら続けた。「本当にお気遣い、ありがとうございます……その、暖かいです」
「それは、良かった」
雨はまだまだ止みそうにない。
けれど、雲の流れは速い。もしかしたら、思っているよりも早く雨が止むかもしれない。




