2-08 蘇生地点更新-①
目が覚めると、ベヒーモスの死体は忽然と姿を消していて、代わりに闘技場の真ん中に見覚えのある扉が一つ出現していた。
寝起きの一発目に見るのがベヒーモスの死体ではなかったことはある意味喜ばしいが、それはそれとしてベヒーモスの姿が消えていることは心臓に悪い。
おかげさまで、寝ている間に知らない場所に転移させられたのかと慌てて飛び起きるはめになった。
よくよく見れば周囲にはそれまでの戦闘痕がくっきり残っており、ここが別の場所ではないらしいことは感じられた。
変な姿勢で寝ていてバキバキな身体をほぐして、深呼吸をふたつ。
心を落ち着けてから、クロガネは扉に向かって歩き出す。
闘技場の中心。別に壁があるわけでもないそこに、ポツンと扉がある。見た目は、この闘技場に入る時の扉と変わりない。
だが装飾があるのは片面だけで、裏側──と形容するのが正しいのかは分からないが──はただの壁といった質感だ。試しに壁側を押してみるが、当然びくともしなかった。開いたらそれはそれで怖いが。
普通に考えれば扉を開けたところでどこにも通じていないはずだ。裏側が壁なのだから常識的に考えるならそもそも開かないか、開けられても壁があるだけなのだろう……が、そんな常識がこの空間に適応されていないことはクロガネもよく知っている。
取っ手を掴み、ゆっくりと開く。案の定、扉の先は全く見覚えのない景色が広がっているようだった。
「……」
びゅう、と風がクロガネの頬を撫でる。
少し肌寒く、湿度のある空気。
「……うっわ」
扉に先を覗き込むと、やはりあるのは下る階段だ。
これまでもずっと下っている。何となく予想はしていたが、やはりそういうことなのだろう。
「奈落の底まで下れ、ってことね……」
今回はそれまでと打って変わって、垂直に地下へと落ちていく丸い縦穴だった。真っ直ぐな縦穴の壁面から飛び出すように階段があり、螺旋状に地下へと続いている。
壁面には燭台が等間隔に並んでいて真っ暗というわけではないのだが、縦穴の底は見えない。まるで深海のようだ。表層は明るいものの、深度が増すごとに光の粒子は遮られて、次第に漆黒へと染まっていく。落ちたら、それこそどこまででも落ちていきそうだ。
背筋をひやりとした感覚が走る。
だが、今更怖気づいても仕方がない。どうせこの扉から先に進まねば、何も始まりやしない。
「はぁぁぁ…………」
たっぷりの溜息を吐いて、ついでに億劫な気持ちと恐怖を可能な限り吐き出す。
恐らく今回もこの縦穴の空間に入って扉を閉じたら、目を離した隙に扉は姿を眩ませることだろう。そうだと分かっているだけでも気持ちは少しだけ軽くなる。そうやって、少しでも希望が見出せそうなことを頭の中に増やしていく。希望的観測はいい結果に繋がる確証はないが、悲観的観測に囚われるのもよろしくはない。
要はバランスだ。極端であることが優位に働くのは、それこそ極端な出来事であって、基本的にそれは多くは起こりえない。
縦穴に足を踏み入れる。かなり涼しい。息を吐くと白く曇って、まるで寒い季節になったような感覚をうけた。
数歩ほど進んでから、取り敢えず振り返る。勿論、扉はそこにはないし、階段も扉のあった地点より上には続いていないようだった。
およそ三十分ほど進んだ頃だった。
どこまでも……それこそ地獄まで続いていそうですらあった長い長い螺旋階段に億劫さを感じ始めた頃、見計らったかのようにその扉は姿を現した。
扉の向こう側も階段は続いているようだが、それを遮るようにして現れた扉。
正直、何とかして扉の裏側に回り込み、いけるところまで階段を下っていきたい……という想いが全くなかったかというと嘘になるが、そうしたが故にこの扉が姿を眩ませて、この暗く陰鬱な縦穴に取り残されるかもしれないと考えると、そんな想いは一目散に背を向けて逃げていった。
取っ手に手を掛ける。クロガネの頭の中は、こんな縦穴からはとっととおさらばしたいという想いでいっぱいだった。
躊躇なく扉を開ける。そして、思いっきり落胆した。
心のどこかで、この先はきっとこれまでよりはマシな場所であるはずだとでも無意識で考えていたということだろう。
扉の先に広がっていたのは、あまりにも見覚えのありすぎる神殿の景色だった。
「…………げぇ」
せめて、これまでと違う場所であって欲しかった。
案の定というか神殿に光源はなく、クロガネは赫灼剣を赤熱化させそれを光源とする。
クロガネが扉から入った位置は、神殿から洞窟へ続く扉のちょうど反対側のようだった。要は、今の位置から真っ直ぐに進んでいくと下りの階段があり、その先に扉がある。
見慣れた神殿に落胆し、けれど勝手が分かっているという点では有難くもある。
神殿で少し休憩しようと思った時、決まって背を預けていた円柱を見つけて、同じように腰を下ろす。そこは決してクロガネの専用スペースというわけではないのだが、それでも決まった位置と見慣れた景色というのは心を落ち着けるもので、精神安定の意味で言うととても良い。
少しだけ休憩した後、クロガネは神殿を一周見て回ろうと立ち上がる。
この感じだと特段面白いものは見つけられそうにないな、とは思っていたが、それでも何かしら先に進んだのだという証が欲しかったのだ。
だが、想定外にそれは呆気なく見つかった。
クロガネが背を預けていた円柱の一部分が平らに削られていて、そこに文章が彫られていた。間違いなく、今までの神殿には存在しなかったものだ。
それに、円柱に彫られたその文章はクロガネにも読める文字。
この世界の文字ではなく、もっとクロガネの奥深くに刻まれた文字。
日本語。
「…………まさか、お目にかかれるとは」
“獣の試練”の突破おめでとう。クロガネ。
ここは奈落。生と死の混在する、世界の狭間。輪廻の外側、無の領域。
故に、その生は完全に非ず。死もまた然り。
死しても魂の行くあては無く、再びこの場に戻されるのみ。
貴方には、更なる試練が待ち受ける。
これまでとは比にならぬ、試練が待ち受ける。
己が目的を、忘れるなかれ。
己が望みを、見失うなかれ。
己が信念を、曲げるなかれ。
己が道を、踏み外すなかれ。
己が心を、曇らせるなかれ。
己が命を、軽んずるなかれ。
己が未来を、恐れるなかれ。
己が存在を、否定するなかれ。
己が全てを、投げ出すなかれ。
今までと違うところを見つけられたという嬉しさは、あっという間にその内容によって吹き飛ばされた。
「試練……だったんだ、あれ……ていうかやっぱり続くのか……」
少なくとも諸手を上げて喜べる内容ではなかったが、それでもがっかりするばかりではない。
ひとつは蘇生に関して。今まではよく分からないまま死んでは復活を繰り返してきたが、どうやらそれはこの先も変わらないらしい。それが分かるだけでもかなり気が楽になる。少なくとも、回数制限があってある時突然ゲームオーバー……なんてことにはならなそうだ。
それに、これが“試練”であるということ。
試練であるというならつまりそれを仕切っている誰かがいるかもしれない、ということだ。
かつ、この暗く、どこまででも下っていく世界を彷徨うのではなく、ある程度は道が整備されているともとれる。
「まぁでも、うん」クロガネの瞳に、明確に火が灯った。「獣の試練とやらで得るものはかなり多かったし、色々と学ばせてもらおうかな」
円柱に彫られた文字を、ゆっくりと手でなぞる。
それからクロガネは赫灼剣を円柱に向けて振るった。赤熱化した剣身は円柱を鋭く切り裂き、一切の乱れのない傷跡を残す。
回数更新だ。
獣の試練に挑んだ回数──実に六十二度の挑戦はこれにて幕を降ろし、新たな挑戦の一度目が始まるのだ。




