2-07 幽冥孤征/決
あ、ゾーンだ。と思った。
四十三度目以来、二度目の感覚。
慢心からゆったりした動作で起き上がるベヒーモスの動作が、余計に遅く見える。以前よりも更に、だ。あまりに遅過ぎて、あくびが出てきそうだ。
格好よく言うなら、洗練されている。そんな感じ。
クロガネは迷いなくベヒーモスに向かって歩く。赫灼剣は赤熱化させず、鞘に納めたままだ。なんとなく、『間に合う』という感覚。
そういう間にベヒーモスは起き上がり、戦闘態勢をとった。とはいえ、まだ黒煙は出していない。クロガネを過小評価している証拠だ。
だが、まだクロガネは駆け出しもしなければ、赫灼剣を抜くこともない。ベヒーモスの目を真っ直ぐに見ながら、ゆっくりと歩を進める。
そんなクロガネの様子がなにやら普通ではないということは、初見であるベヒーモスも流石に勘付いたのだろうか。それでも黒煙を出さないことから慢心はあるのだろうが、徐々に警戒の色が濃くなっていくのが分かる。
ゆっくりと、しかし確実に、張り詰めていく空気。
そう言えば今まで、こんなにベヒーモスの目を見つめたことはなかった。
というか、最も不意打ちに適した最初の一撃をこんなにも遅らせたのはこれが初めてだ。
大丈夫なんだろうかと不安がる自分もいる。
だが、それよりも遥かに大きく、大丈夫だという感覚が勝っていた。
本来ならば、こうしたうすぼんやりとした感覚に身を任せるのはよろしいこととは言えないだろう。けれど、良くも悪くも今は死んでも構わない。それ故に、こうした突飛な行動を取ることができるという点については、このやり直しの恩恵と呼んでもいいのだろう。
静寂。
地面を踏みしめる音さえ五月蠅く感じる。
ベヒーモスの呼吸が、やけにはっきりと聞こえる。
人間は、息を吸う時に注意が散漫になるらしい。前にどこかで聞いた程度の知識であるし、これが目の前のベヒーモスにも適応されるのかも分からない。けれど、この静寂を切り裂く最初の一撃をより確実なものにするために、それを狙うことは消して無駄にはならないはずだ。
ベヒーモスの呼吸に、クロガネ自身の呼吸を合わせていく。勿論、ベヒーモスが息を吸うタイミングに合わせて、クロガネは息を吐く。
すぅ……はぁ。すぅ……はぁ。
始めこそぎこちなかった呼吸も、徐々にシンクロしていく。ベヒーモスの呼吸から、次第に感情が伝わってくるような感覚さえ覚える。
あまりに不思議な感覚だ。これもゾーンによるものなのだろうか。
ベヒーモスが、息を吸って、吐く。
クロガネは、息を吐いて、吸う。
……ベヒーモスが息を吸った。
──今だ。
瞬間、クロガネの右手が赫灼剣を抜き放つ。ゾーンに入ったクロガネの動作は、ベヒーモスからすれば閃光の如き速度だった。
鞘から解き放たれるのと同時に、赫灼剣に魔力を流し込み、赤熱化させる。過去最高速、僅かコンマ数秒での赤熱化からクロガネの動作は更に加速する。
ベヒーモスが何かをするよりも早く、気が付けばクロガネはベヒーモスの目前に到達している。
「フッ……」
小さく息を吐く。
ベヒーモスが慌てて黒煙を噴出させるのを横目に、だがそれよりも遥かに速く、白刃はベヒーモスの左前腕を──両断した。
そう、ただ切り裂くだけではなく、両断。すなわち、腕を完全に切り落とす斬撃だ。
我ながらこれには驚いた。
“なんとなく”両断できそうだな。そんなぼんやりした感覚が、この一撃を境に確信に変わる。
クロガネの思考から“なんとなく”はきれいさっぱり消え去った。
クロガネのギアがさらに一段階上がる。
『ガァァァアアアアアッ!?』
ベヒーモスの悲鳴が空気を震わせる。だが痛がった様子も最初だけだ。即座にその表情は怒りに包まれ、一切の慢心が消え去ったのが明確に感じ取れた。
だが、だから何だというのだろう。
左前腕を両断したクロガネは、即座にベヒーモスの左側面に回り込んだ。当然、ベヒーモスはクロガネの姿を追って顔を動かす。
相手の隙を突く。
今まで狙ってはいたものの、成功した回数より遥かに失敗した回数が勝っていた。だがこの戦闘の最中で、ゾーンの恩恵もありクロガネは自身の間違いを理解した。
隙は、確かに相手の行動の中から出てくるのをジッと待つものでもある。
だが同時に、隙は生み出すことができるものでもあるのだ。
行動の先を読む。
クロガネの行動がベヒーモスにいかなる影響を与え、結果としてどのような行動を選択させるのか──それを予測する。
ゾーンによるものが大きいのは間違いないのだが、こんなにも単純なのだとクロガネは素直に驚いた。
側面に回り込んだクロガネは、ベヒーモスが顔を動かすのに合わせて地面を蹴った。
ベヒーモスの背中に飛び乗り、一直線に頭頂を目指す。
『クロガネの姿を追ってベヒーモスがこちらに顔を向ける』、それが分かっていれば、『そこを狙う』という選択肢は自然と出てくるものだ。
「だらァッ!!」
ぎょっと見開かれたベヒーモスの顔面に向けて、容赦なく逆袈裟に赫灼剣を振るう。だがベヒーモスの反応速度に一歩及ばなかった。
左目を切り裂きはしたが、それだけだった。咄嗟に顔を逸らしたベヒーモスの動作は素早く、クロガネの攻撃は表面を切り裂くに留まった。
これで決めるつもりだったのに、と内心で悔しがる。
だが、それでも左目を負傷させたことには変わりはない。
即座にベヒーモスの首筋に視線を移し、赫灼剣を構え……そこでクロガネはハッと思い出す。
黒煙。
クロガネの視界の端で、黒煙が渦巻いているのが見えた。
咄嗟にベヒーモスの身体を蹴り、飛び降りる。それから間もなく、ベヒーモスの黒煙はそれまでクロガネがいた場所を覆い尽くした。
『グルルル──』
黒煙にも感覚があるのだろうか。クロガネが背中にいないということをベヒーモスは感じ取ったらしく、黒煙がその姿を変える。
──鞭だ。
ベヒーモスの視野が狭まっているからか、鞭はクロガネを狙うというより、広範囲を薙ぎ払うように振るわれた。範囲殲滅。そんな言葉が似合う、恐らくはベヒーモスの中でもかなり本気の部類の攻撃だ。
ゾーンによってクロガネは始めて鞭のしなりを視認した。だが、それでもなお鞭の先端は霞み、正確な位置を捉えることはできない。
避けられないわけだ。例えゾーンに入ったクロガネであっても、あの攻撃を掻い潜ることは不可能だろう。
「まぁ、向かっていく必要性はないけど……」
クロガネは鞭の攻撃範囲外に退避し、ベヒーモスの攻撃をやり過ごす──だけには留まらなかった。
そもそも、クロガネには魔法がある。使わない手はない。
「……ライトニング・ショット」
これまでの戦闘によって培われた経験は、魔法に対しても遺憾なく発揮される。
魔力の制御精度が格段に向上したことで、それまでよりも遥かに早く、かつ高威力を両立させた。
『ガッ──!?』視界外からの攻撃に、ベヒーモスの顔は大きく弾かれ、かつ黒煙の動きが鈍る。『グルルル……』
だが、ベヒーモスは聡い。今の攻撃で、クロガネの位置を把握したことだろう。これまでの戦闘で、ベヒーモスはクロガネの魔法攻撃を受けることで、その魔法の発射位置を特定していた。
だからこそ、それは隙になる。
曲射。ライトニング・ショットを直線的に撃つのではなく、あえて曲げて撃つことでベヒーモスの予測を外す。
ベヒーモスは怒りと共に振り返るが、そこにクロガネの姿はない。
『ガ────?』
素っ頓狂な声を上げるベヒーモスの首筋に、クロガネは赫灼剣を突き立てた。即座に赫灼剣にありったけの魔力を流し込み、ベヒーモスの喉を中から焼き尽くす。
……が、クロガネはそれで終わらなかった。ベヒーモスのタフさは、これまでの戦闘で身に染みて理解している。
突き刺した赫灼剣を介して、魔法を放つ。
「アイシクル・ショット……ッ!」
それは赫灼剣を伝って、ベヒーモスの体内で炸裂する。
『────』
断末魔はない。
静かな決着だった。
◇
ベヒーモスの居ない闘技場を歩く。
それまではゆっくり眺める暇もなかったが、改めて見るとこの闘技場の壁面には様々な模様が彫られていることに気付く。人間と、モンスターの姿だろうか。それらが抽象画的に描かれている。かつ、見たことはあるが読めない文字も刻まれている。
確かミナが言っていた『神代文字』に似ていた。正直、神代文字の細部についてはクロガネも覚えていないのだが、確かこんな形状だったという感覚。
クロガネが闘技場を歩いているのにはもちろん理由がある。
別に闘技場を散策したいわけではない。ベヒーモスと何度も戦って、何度も殺された場所に愛着など持つわけないし、寧ろ一刻も早くここを離れたいと思っている。
だが、次の目的地に続くであろう扉が一向に見当たらないのだ。
「なぁんでだよ……」
円形の闘技場の外周を二周して、手掛かり一つ掴めない。ムカつく。
一週目は目視、二週目は打診。何の成果も得られず三周目に突入したところで、思わずため息が漏れた。
これまでは例外なく、ベヒーモスとの戦闘の終わりはクロガネの死亡であり、再度目覚めた後に倦怠感は残っていなかった。それ故なのか、或いはゾーンによる影響もあるのかも分からないが、とにかく倦怠感が凄まじかった。
疲れ果てて、クロガネは壁を背に座り込む。
「だぁぁぁ……」
達成感は──あるようで、ない。とにかくクロガネの脳内を支配するのは疲労感であり、そこに喜びが介入する隙は残念ながら存在しないようだ。
そうして疲れて座り込んだところを目ざとく感じ取って、それはやってきた。
睡魔だ。
わざわざ“魔”という単語を付けているところから、先人はよっぽど睡眠欲というものの強力さに手を焼いていたことが伺える。
「つ、かれた……」
まぶたが勢いよく落ちていった。
抗えない強力な睡魔がクロガネを包み込む。
ここで寝るのはよろしくない。頭では理解できている。
頭で理解できているだけだが。
────■■■■■。
そんな状況も相まって、クロガネが眠りに落ちる前に聞こえたその声の正体を知ることは出来なかったし、何ならその後もクロガネは思い出すことさえ出来ない。
何か聞こえたな。そんな興味の欠片もない言葉と共に、深い海の中へと潜っていく。




