2-00 眩い光ほど暗い影を描く
眩い光ほど、暗い影を大地に描くことになる。
けれど人間というのは、そういうものには中々気付かないものだ。
そこに君がいる限り、私はその眩しさにばかり気を取られて、足元を眺めてはいなかった。
考えうる限り最悪の未来は、いつだって私のすぐ後ろで、静かに息を潜めている。
その日も、ナリィは冒険者協会のロビーにいた。
扉が開くたびに顔を上げる。それが、ここ数日のナリィの癖になっていた。
受付前の長椅子に腰掛けて、膝の上で手を組んで。誰かが入ってくるたびについ期待してしまう。ずっとそわそわしながら、彼の帰りを待っていた。
けれど冒険者協会の扉をくぐってくるのは、クロガネとは似ても似つかない冒険者ばかり。ナリィはそのたびに小さく息を吐き、また視線を膝の上へと落とす。
──遅い、なぁ。
クロガネたちが赤竜の元へ向かってから、すでに十日ほど経過していた。元々の想定よりも時間がかかっている。
もちろん、相手は赤竜。何があってもおかしくはないし、帰りが延びることだってあるだろう。フィアの母親に会いに行くだけ、なんて気軽な話でもない可能性も大いにあるはずだ。
……頭では、そう分かっている。
分かっているのに……この胸の奥のざわつきは、ちっとも消えてくれない。
「……待ってます、なんて言っちゃったしなぁ」
ぽつりと零した独り言は、賑やかなロビーの喧騒にあっけなく溶けてどこかへいってしまった。
いってらっしゃい。待ってます。
別れ際にそう告げた自分の声を思い出して、ナリィは少しだけ頬を緩める。
待つというのは、思っていたよりもずっと落ち着かないものなのだとは知らなかった。
……そんな帰りを待つ平和な時間は、一切の前触れなく終わりを迎えることになる。
──異変。
それは、冒険者協会の外から上がった悲鳴が始まりだった。
次いで、地を伝う重い震動。ロビーの窓がびりびりと鳴く。
地震──とは違う。冒険者としての経験ですぐに分かった。これは大型のモンスターの接近を知らせるものだと。
それはナリィに限らず、冒険者協会の内部にいた他の冒険者も同様だったようで、ほぼ全員の視線が一斉に外へと向けられた。
「……っ、な、なに……?」
反射的に立ち上がったナリィの耳に、誰かの叫び声が突き刺さる。
「竜だ! 赤竜が来やがった!!」
その一言で、ロビーの空気が凍りついた。
赤竜。この街にとって、それは長く恐怖の代名詞だった。
いや、これは正確ではない。過去形ではなく、現在進行形。
いまだこの冒険者という職業の者にとっては、褪せることのない恐怖そのものだ。
これまで幾度となく襲撃を受け、血が流れたことも少なくはない。
そんな赤竜絡みの問題も、クロガネの手によって解決する希望が見えたというのに、このタイミングでどうして。冒険者協会の面々の表情は、決まってそんなことを思い浮かべているようだった。
ナリィはふと嫌な想像をする。
とても、嫌な未来の想像。
いや、とその考えを打ち消すように頭を振った。
不安になったところで、何も変わらない。いいことはない。
誰もが武器に手を掛け、あるいは身を竦ませる。一瞬先に迫っているかもしれない惨劇の予感に、平然としてられるものは決して多くはない。それが出来るのは、本当の強者か、或いは何も知らぬ馬鹿か。
即座に武器に手を掛けることができたのは数名程度だ。いずれも冒険者としては優秀なA級の面々。
「何を呆けている!」沈み込むような冒険者協会内部を突き穿つ、鋭い声。「我々が前に出ずして、誰がこの街を守るというのか!」
一斉に声の主の方向へと視線が集中する。そこに立っていたのは、冒険者協会の支部長エフレインだった。
その手には大剣が握られている。まだ記憶に新しい、カルファレステ街でのパヌルとの戦闘時にも使われたあの大剣だ。
あの戦闘を経てエフレインは過去の勘を取り戻したのだろうか。厳しくもあり、だが心に響くものがその声には確かに存在している。
周囲の雰囲気が変わったのが、ナリィにも分かった。不安や恐怖、そういうものに包み込まれていた空気が、エフレインの一言で戦闘前の緊張感に変わった。
「この街はクロガネに救われた。だがそれは、今後もクロガネに護ってもらえるなどということではない!」
そんな一言を皮切りに、エフレインは次々と指示を飛ばす。冒険者たちは即座にそれに応じ、武器を片手に外へと駆け出していく。
ナリィもまた同様に武器を手に取り、弾かれるように外へと駆け出していた。
だが、冒険者協会を出た直後にそれは否応なく視界へと飛び込んでくる。
すでに街の直上からこちらを見下す、竜の影。
「……」ナリィは、一目見た瞬間にまず、違和感を感じた。「……なんか、大きい?」
かつて目にした赤竜の姿よりも、明らかに大きい。単なる遠近感での錯覚ではない。似てはいるが、違う。
深紅というよりは黒に近い、燃え滓のような赤い鱗。一回り、いや二回りは大きいか。体躯の違いはもとより、その他にも異なる部分はいくつか見受けられた。
「角……」
その最たるものは、頭部に存在する一対の角。まるで王冠のように頭部を飾る、太く短い黄金の角だった。
黄金色に見えるのは、単にその色だというわけではなさそうだ。遠目では分かりづらいが、恐らくは発熱している。
外に飛び出した冒険者たちは、竜の姿を見て一斉に息を呑む。
言葉には出さないが、誰もが似たようなことを思ったはずだ。
そうして僅かな時間の睨み合い。冒険者たちは先手を打つことは出来なかった。直観的に理解できたからだ。もし“アレ”がひとたび牙を向いたのなら、この街は一瞬で壊滅する。きっと、成すすべもなく。
嫌な静寂だった。ただの睨み合いだが、冒険者側はただそこにいるだけで精神がゴリゴリと削られていく感覚があった。
だがそんな静寂も、長くは続かない。
先に動いたのは、竜の方だった。
「あ……」と誰かが溢した。
竜が、ゆっくりと地面へと降りてきたのだ。
その大翼による風はもはや暴風で、人間のちっぽけさを突き付けられるようだった。前傾姿勢で、吹き飛ばされないようにするのがやっとだ。
腕で顔を庇い、目を細める。特に身体が大きいわけではないナリィは、余計にその風圧に押された。
ずん、と竜が地面に着地する。自重と大きな爪で石畳を軽々と砕き、破壊された石片が辺りに飛び散った。
ナリィを含めた冒険者の視線の先、僅か百メートルも離れていない場所での出来事だ。幸いというべきか、そこは中央に噴水のある広場で、住民はとっくに避難した後のようだった。
「……?」ナリィはそれに、微かな違和感を覚える。
この街を壊そうとしている動きではないように思えたからだ。空中にとどまっていたのも、まるで自身が降り立つ場所の周囲にいる人が避難するのを待っているようですらあった。
そしてその予想は外れていなかったとより明確に感じられたのは、その竜が攻撃する素振りを一切見せなかった時だった。
周囲の冒険者たちが首を傾げてしまうほどに、竜は敵意を見せなかった。寧ろ地面に降り立ったあと、ゆっくりと前足を抱え込むようにして座り込んだのだ。
敵意は感じない、が、だからと言って無条件に近付けるかというとそうでもない。竜の大きさはやはり圧倒的だ。近付いたが最後、脚で踏み潰されるか、翼で吹き飛ばされるか、ブレスで焼かれるか。
……どちらも動かなかった。
正確には冒険者は動けなかったというべきだが。
だが、そんな中で唯一、その足を前に踏み出した者が現れる。
ナリィだ。
周囲の冒険者の制止を聞く素振りもなく、ナリィは竜の元へと歩いていく。
きっと、クロガネならばこうしたはず。胸の内にあったのはそれだけだった。
そんなナリィを、無理矢理にでも止めようとする冒険者の男がいた。彼は駆け足でナリィに向かっていこうとした──が、エフレインがそれを止めた。
どうして。そんな表情を彼はエフレインに向ける。だがエフレインは、何も言わずに首を横に振るだけだった。
近付いていく。一歩ずつ、近付いていく。
見上げるほどの体躯。敵意を見せていないとはいえ、感じずにはいられない威圧感。ナリィの心臓は、早鐘のように打ち鳴らされる。
この足を止めてしまえば、きっとそれより先には進めなくなる。だから、ナリィはただ、前を向いて歩き続けた。
そうしてナリィが竜の目前にまで達した。直後、竜の目が僅かに細まったのを、ナリィは見逃さなかった。
そして、竜の腕がゆっくりと開かれる。この時になってやっと、この竜は何かを運んできたのだと気が付いた。
ずっと竜の存在にばかり気を取られて、その行動の意味を理解してはいなかった。
竜が運んできたものを、覗き込む。
その腕の中を見て、ナリィの息が止まった。
「────っ!?」
血。
真っ先に目へ飛び込んできたのは、その色だった。
マナとミナ。
二人が、折り重なるようにして横たわっている。
白い肌は土気色に変わり果て、衣服は赤黒く染まっている。片や頭に、片や胸元に、目を背けたくなるほどの傷の痕。
あの、いつも騒がしくて、底抜けに明るかったミナが、ぴくりとも動かない。
冷静沈着なマナの瞼も、固く閉じられたまま開く気配すら見せない。
「マ……マナさん、ミナさん……!?」
二人に寄り添うように、もう二つの影があった。
ルーベリアと、フィアの姿だ。
竜人の姿をとったルーベリアは、片腕をだらりと垂らしたまま、満身創痍といった様子でフィアを庇っている。ナリィは当然、ルーベリアの存在を知らない。だが、フィアのことは知っている。フィアを大事そうに庇う姿から、直観的に彼女がフィアの母親──すなわち赤竜なのだろうと推測できた。
そんなルーベリアの腕の中で、フィアがぼろぼろと大粒の涙を零している。
「ぱ、ぱぱ……ぱぱが、いないの……」
ひっく、ひっくと喉を鳴らすフィアの言葉に、ナリィの思考が真っ白に染まる。
パパ。フィアがそう呼ぶのは、ただ一人だ。
──クロガネ。
慌てて辺りを見回す。けれど、どれだけ探しても、その姿はどこにもなかった。
あの、人好きのする笑みも、暖かな声も。
ずっと……ずっと、帰りを待ちわびたクロガネの姿は。
ここには、ない。
そこにいたのは、傷ついた四人と──そして。
巨大な竜の身体が、炎と白煙に包まれていく。みるみるうちに縮こまり、人の輪郭をとっていった。
白煙が晴れたあとに立っていたのは、一人の男。
頭から伸びた、明らかに人のものではない角。宝石のような深紅の髪。学者と言われても頷けるほどに整った身なりとは裏腹に、その双眸には隠し切れぬ疲労の色が滲んでいる。
「……取り乱さずに、聞いてほしいのですが」
男の声は、不思議なほどに静かだった。それが、彼にとって最大限、ナリィを慮った声のトーンだったと気付いたのは、ずっと後のことではあるが。
「私は劫火竜と呼ばれています。そこの赤竜……ルーベリアの番であり、フィアの……そうですね。遺伝子的には、父です。詳しい事情は追って話します。今はとにかく、この二人の手当てを」
「──アレク!」たった一人で竜へと──劫火竜へと近付いて行ったナリィの切羽詰まった表情を見た瞬間に、エフレインは叫んでいた。
「はいよ!」
後方で待機していたアレクは間髪入れずにそう返すと、一気にナリィの元まで駆け寄る。この時点で劫火竜は人の姿となっており、即座に敵対する意思はないと勝手に結論付けた。
そうしてナリィの視線を辿ると、勿論、四人の負傷者が目に入る。
……いや、この二人は果たして負傷者と呼べるのだろうか。
基本的に怪我人の前では笑顔を絶やさなかったアレクがこの時初めて、大きくその表情を歪める。
「……うそだろ」
ミナは──胸部の外傷。背中側から貫通した傷跡……完全貫通創。咳と共に吐血するのは、肺にまで損傷が及んでいるからだろうか。
だがそんなミナでさえも“まだマシ”だと思えてしまうのが、マナの状態だった。
頭蓋の破裂骨折……。頭のかなり広い範囲が損傷して、脳が露出している。即死は免れたとしても、脳の損傷は致命的。まだ生きているというのが信じがたい。
アレクであってもこれまで経験のないほどの重傷者。
思わず身体が震えた。根源的な恐怖。こうも目前にまで迫った死の気配に、アレクは思わず後ずさりしそうになった。
だがそんなアレクの服の裾を、ナリィが強く握る。
「た」ナリィの声は酷く震えていた。「助かり……ます……よね……?」
無理だ。思わずその言葉が出てしまいそうになるのを、アレクは何とか堪えた。
今、なんて言おうとしたんだ、アレク。自分へと問いを投げかける。この状況下で、俺がきっと最後の頼みの綱であるこの状況で、俺はなんて言おうとしたんだ、アレク!!
アレクは血がにじむほどに強く拳を握りしめ、自身の口内を咬み千切った。じわ、と鉄の味が口内を満たし、暖かな血が指の隙間から流れ出る。
そして即座にそれらの傷を、自身の治癒魔法で治療する。
恐怖。畏れ。不安。いらない負の感情は、今、血と共に流れ出ていった。
気張れ、アレク。
「うん、大丈夫」アレクはそう言い切った。「絶っ対に、助ける」
怪我をする前よりも健康にする。それがアレクの目指す治癒魔法の理想形。
そうだよな、アレク?
気持ちが定まれば、そこからは早かった。アレクの視線が勢いよく動き、この現状を余すことなく把握する。
目の前の、劫火竜と名乗った男の魔力の流れを把握し、そこでこの男がずっと抱えていた疲労の色を見抜く。ずっと、この男がマナとミナを延命していたのだ。これほどの重症でありながら、決して見捨てることなく。
「担架!!」アレクらしくない、荒々しい声が響く。だがそんな声音だからこそ、この場にいた冒険者全員が事態の深刻さをこれ以上ないほどに理解した。「あと、治癒士は全員来い!! 他は魔力回復薬をありったけ持ってこい!!」
「聞こえたなお前ら!!」アレクの声に追従するようにエフレインが叫ぶ。「動けッ!!」
それを号砲にしたように、冒険者や協会の面々が一斉に動き出す。治癒士は一人残らずアレクの元に集い、治癒魔法が発動する。少し遅れて担架が運び込まれ、職員たちが指示を飛ばし合いながらマナとミナ、ルーベリアとフィアを順次運んでいった。
マナとミナに関しては一瞬たりとも治癒魔法を止めることは出来ない。複数人がローテーションで治癒魔法をかけ続けた。魔力を使い果たした治癒士は、襲い来る倦怠感と吐き気を堪えながら魔力回復薬を飲み、自身の順番が来るまでに無理矢理にでもコンディションを整える。
受付嬢のレイラが青ざめた顔で人をかき分け、カラステが声を張り上げて野次馬を遠ざけていく。
静かだったロビーは、瞬く間に怒号と足音で埋め尽くされていった。
そうしてようやく負傷者が自身の手を離れ、一息付けたといった様子の劫火竜の視線が……その場に立ち尽くすナリィへと向けられる。
「……少々遅れてしまいましたが、ありがとうございます」
劫火竜の声でハッと我に返ったナリィは、所在なさげに胸元で手を組みながら振り返った。
「な、なにが、ですか……」
四人の姿を誰よりも先に見て、きっとこの場の誰よりも胸を痛めていたのは、ナリィだ。
思考が定まらず、頭の中を混乱が支配するナリィには、劫火竜の言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「私、何も、できな、くて……何すればいいかも、わからないのに……なにが……」
「私を、誰よりも先に信じてくれたことに対してですよ」
劫火竜の声は、やはり静かで、そしてとても暖かく、柔らかい。
「あなたが信じてくれたから、余計な混乱を生まずに済んだ」
この時のナリィは理解できなかったが、要はナリィが先に動いたことで、不要な混乱が起きずに済んだ。それは例えば、どうにかして敵意がないことをアピールした劫火竜に対して、先手必勝と攻撃を仕掛ける冒険者が現れる可能性があったということだ。
恐怖に怯える人間というのは、何がきっかけで暴走するか分からない。劫火竜はそれが理由で、竜人化することも選択できずにいたのだ。
今こうして無事に四人を冒険者協会へと引き渡せたのは、ナリィの勇気ある行動があったからこそだと、劫火竜は言いたかった。
「ありがとう」そうして微笑む劫火竜の姿を見て、ナリィは胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
そんな二人の元へとエフレインが歩み寄る。ナリィの肩を優しく叩くと、堪えきれないといった雰囲気でナリィは顔を俯かせた。
エフレインは優しく微笑んだあと、すぐに目を僅かに細めて劫火竜へと向き直る。警戒心こそ解けてはいないが、劫火竜の存在を認めた上で彼に向けて言葉を発する。
「……初めまして、だな。私は冒険者協会の支部長、エフレイン」
「私は、劫火竜。彼女らと違って、名前はありません」
劫火竜に対して聞きたいことは山ほどある。だが、聞くべきことは決まっていた。
エフレインは真っ直ぐに劫火竜の目を見据え、静かに言葉を紡ぐ。
「なにがあった……、魔峰フェルガナで……」
劫火竜は、余計な言を一切挟まず、静かに頷く。
「端的に言いますと、異端組織モルス・クルスの襲撃に遭ったのです」
「モルス・クルス……?」
その名に聞き馴染みはない。けれど、その響きが孕む言い表しようのない不吉さだけは、その場の誰の胸にも等しく刺さった。
「そしてクロガネ含む五名は敗北、間一髪……というには、少し遅すぎるかもしれませんが、私とアールが到着し、彼らを撃退しました」
「アール!? あの、アールが?」
驚きの表情を見せるエフレインを、ナリィは不思議そうに見つめた。
「ええ。そしてアールの判断により、クロガネは現在ある場所にいます。詳しくは契約で話せませんが……今後、モルス・クルスとの戦闘が本格化するであろうことが予想されます。それに対抗すべく、クロガネには力をつけていただく必要がありました」
「……」
洪水の如く押し寄せる情報の波に、エフレインもナリィも、ただ呆然とするしかなかった。
「きっと彼ならば、見違えるほどになって帰ってくるはずです。今は信じて待つほかありません」
◇
みんなが前を向いて動いているのに、自分ひとりだけが、動けずにいる。ナリィは冒険者協会のロビー、受付前の長椅子に座ったまま、ただぼんやりと眺めていた。
頭の中はぐちゃぐちゃで、何から手をつければいいのか、自分に何ができるのか、その一つも思い浮かんでこない。
冒険者協会の奥では、アレクを中心に治癒士たちがマナとミナの手当てをしている。治癒士総動員での治療が始まってから、早くも五時間が経過しようとしていた。なおも慌ただしい声は止むことはなく、予断を許さない状況が続いていることをナリィは肌で感じていた。
頼れる人であったはずのマナとミナの惨状、そしてクロガネの不在。
それらはナリィのなかで、過去の出来事と結びついた。
セスタ、ククリとの死別。クロガネの拘束。
過去の出来事というのは、そう簡単には消えてはくれない。それはただの汚れなどではなく、明確な傷跡としてナリィの心に刻まれている。
「……クロガネさんが、いれば……」
無意識に零れ落ちた言葉に、ナリィ自身が驚く。
……彼が来てから、多くのことが変わった。
どれだけ絶望的な状況でも、彼であれば何とかなる気がした。何とかできる気がした。
倒れた者を救い、立ち向かうべき相手には、真っ直ぐに立ち向かう。
みんなが、当たり前のように彼を頼りにしていた。
ほかの誰でもない、ナリィ自身も。
ああ、そうか。
今になって、はっきり分かった。
あの人はいつの間にか、こんなにも大きな存在になっていたのだ。
あまりにも眩い光だったから、傍らにあるうちは気付けなかった。
彼を失った今になって初めて──その不在が落とす影の深さに、立っていられないほど足が竦んでしまう。
けれど、それじゃだめだ。
それじゃ、だめなんだ。
ここはクロガネが帰ってくる場所であるべきで。
クロガネに照らされないといけない場所であるべきではない。
ナリィは胸元で強く両手を握り、きつく目を閉じた。
それなら――自分が今、立ち止まっている場合ではない。
ナリィは勢いよく立ち上がると、周囲を見回し、駆け出した。
自分にできることはちっぽけで、或いは居ても居なくても変わらないことかもしれない。
でも、それは『何もしなくていい』理由には成り得ない。
魔力回復薬を積んだ馬車が冒険者協会の前に到着する。
「……っ、手伝います!」
ナリィはいの一番に駆け寄り、馬車の荷台に積まれた魔力回復薬を抱え上げる。
早く、帰ってきて。クロガネ。
ナリィの目は、遠くを見つめている。
長い長い夜が明けるのを、待つように。




