1-54 傷心の先に
クロガネはそれまでの出来事を事細かに話した。
赫灼剣のこと、パヌルのこと。赤竜のこと、そして、赤竜の卵──フィアのこと。
「なんていうか、その。濃密だね……」
「だよね。うん。俺もそう思う」
「それで、明日には街を出ちゃうんだね」
「その予定。それで今日の内にと思ってわたわたと来たわけだけど」
クロガネはそこで言葉を区切り、ナリィを見つめる。
「やっぱ来てよかったよ」
真っ直ぐに見つめられて、ナリィは恥ずかしそうに目を逸らした。
「お、お礼を言いたいのは私の方です」
それから、二人は他愛もない話をした。
本当に、他愛もない話。
半刻ほど話した後、ナリィはふと口を開いた。
「……そうだ。シユウのところに行く予定は、あった?」
「あー……そういえば宿の場所を知らないから、どうしよっかなとは思ってた。」
シユウもナリィと同時期から人前に出ていない。当然ながらクロガネが医務室にいる期間も来てはいないため、実質的に外周警備以来である。
そもそも、それ以前であってもそこまで多くの交流があったわけではないため、宿の場所を知らないのは当然だった。
陽風の宿屋を知っているのだって、クロガネが夢で見た景色を覚えているからであって、実際に訪れたことがあるわけではなかったのだから。
と、そこまで考えて、有耶無耶になってはいるがいきなりナリィの宿に押し掛けるクロガネ、という構図の危うさに気が付く。
……いや、マナから教えてもらったのだから、セーフ。そのはずだ。そういうことにしよう。
「…………、私、あの日以降シユウにも会いに行けてなかったから……一緒に行く、とか、どうかな」
僅かに不安げに揺れるナリィの瞳。今までほとんど宿から出てはいないのだろうし、ましてやこの部屋ということはまさしく“あの日”の惨劇を間近で見ているはずだ。不安に思うのは当然だろう。
「ありがたいよ。すごく助かる。そうしよっか」
「こちらこそ、ありがとうございます!」ナリィは笑顔を見せると、すぐに立ち上がった。「じゃ、じゃあ、外に出る準備しますので……」
「了解。食器とか持っていくついでに一階のホールで──」
「あ、いえ、その……」
ナリィの言葉の歯切れが悪い。何か不都合あっただろうか。
「その……き、着替えをするんです、けど……その……」
「う、うん?」
「……き、着替えが終わって、部屋を出るまで、ここに、居てほしいんです……」
………………………………うん。
………………………………………………………………うん?
何を言っているのか理解する前に、思わず反射的に「うん」と返事をしてしまった。
結果から言えば、クロガネはナリィに背を向けている格好ではあるのだが、まさしくクロガネの背後ではナリィが着替えている。
しゅる、しゅる、と布が擦れる音。
いやに心臓が高鳴る。
こんなところでドキドキしている場合ではない。興奮している場合ではない。
クロガネ。心頭滅却しろ、クロガネ。
心頭滅却すれば火もまた涼し。いや、地獄の業火も水風呂の如し。これは言い過ぎかもしれない。
下唇を噛み締め、指で自身の太ももをつねり、表情筋をフル稼働させて変顔している、そんな男がそこにはいた。
クロガネである。
まさしく変人と呼ぶに相応しい行動である。
まさしくクロガネである。
冷静になれ。ナリィが居てほしいと言ったのは、決して下心があるとかそういうものではない、はずだ。
きっとこの部屋から出なかったのは単に出るのが億劫だったとかではなく、冷静に分析するならば僅か数部屋先が、セスタとククリが殺された場所であるからだろう。
そしてそこから推察するに、出なかったのではなく、出ることができなかった。
夜の暗闇、灯りのない暗がりに幽霊を想像して背筋を凍らせるように。
問題はそこに幽霊がいるかどうかではなく、居ないということを証明するすべがないことだ。
未知。即ちそれは根源的な恐怖。
──というのは、あくまでクロガネの想像の域を出ないのであるが。
何にせよ、クロガネはそうして分析したことで一先ずは落ち着きを取り戻した。
「あ、の、クロガネさん」
「へ? あ! はい、なんでしょう」
その時だった。背後からナリィに声を掛けられたのは。
「着替え、終わりました……」
「あ、了解で──」そう言って、深く考えす振り返ったクロガネの視界に飛び込んできたのは、下着姿のナリィの姿だった。「……す!?」
勢いよく視線を壁に戻すクロガネ。
な、何故!? まとまりかけていた思考が、再び混乱の渦に飲み込まれる。
「……ど、どうして嘘を……」
「ごめんなさい、でも、その……」ナリィの足音が近づいてくる。「は、はしたない女でごめんなさい……少しだけ、少しだけでいいんです……」足音はクロガネのすぐ手前で止まった。「抱きしめて、欲しいんです」
「へ……?」
そこでようやく気が付いた。
ナリィの声は震えている。緊張、或いは不安だろうか。
「クロガネさんの、心臓の音を、聞かせてくれませんか……?」
クロガネの思考が止まった。
やっとその言葉の真意を理解したからだ。
「不安なんです、生きてる証拠を、聞かないと」
クロガネは意を決して、ゆっくりと振り返り、視線を上げた。
恥じらう様子のナリィは、けれど不安に瞳を揺らしながら真っ直ぐにクロガネを見つめている。
「……うん、わ、分かった」
静かに、ゆっくりと、ナリィの肩に手を添える。ナリィは目を閉じて、されるがままに身を任せている。
やましい気持ちは捨てろ、クロガネ。
心臓の音を聞かせるだけだ。それだけ……。
一歩踏み出す。これでもう、ナリィとの距離はほとんどゼロに等しい。
そのまま、両腕をナリィの背中に回し、抱きしめる。
すぐに、ナリィはクロガネの胸に顔を埋めた。
僅か数秒が、とても長い。
少しだけナリィの背中に回した腕に力を込める。細い。こんなにも細くて、柔らかくて、折れてしまいそうだ。
「……ふふ、ふふふっ」その時、胸元でナリィがくすくすと笑った。「クロガネさんの心臓、破裂しそうなぐらい早いよ」
「そっ」クロガネは思わず緊張の糸が切れたように笑う。「そりゃそうでしょうよ……! お、女の子を抱きしめるなんて、初めてなんだから……!」
「そうなんですか? マナさんとか、ミナさんとは、やらないんですか?」
なんか、恥ずかしげもなく聞いてくる。
いや、こんな状況下ではもう、恥ずかしいもへったくれもないのか。
「いや、あれは向こうからガンガン来るだけであって……」
「そか……じゃあ、しょうがないですね」
クロガネの胸に顔を埋めていたナリィは、ゆっくりと視線を上げてクロガネを見つめた。
「私のために無理してくれて、すごく、嬉しいです」
「それは、何より……」
それからすぐにナリィは身体を離し、着替えを再開させた。
クロガネの心臓は、いつまで経っても痛いぐらいに高鳴っていた。
着替えが終わると、すぐに二人で一階のホールへと向かった。
途中、215号室の前を通り過ぎる時、ナリィは少しだけ足を止めた。そして、部屋の扉を優しく撫でる。
クロガネは何も言わなかった。言えなかった、という方が的確だろうか。
すぐにナリィは手を離すと、クロガネに向かって困ったように微笑んだ。
「すみません、お待たせしちゃいました。行きましょう」
「……うん」
階段を下りて一階に着くと、店主が驚いた顔をこちらに向けていた。
それからすぐ立ち上がり、駆け寄ってくる。
店主が話すより先に、ナリィが頭を下げた。
「すみません。ご迷惑おかけしました」
「……もう、大丈夫なの、か?」
「まだ、少しだけ怖いですけれど、はい。大丈夫です。お食事も、ありがとうございます」
「いい。そんなのは、いくらでもある……」
ずっと無表情だった店主の顔に、少しだけ安堵の表情が浮かぶ。
「あ、そういえば……」とナリィは店主を見る。「私がいなくなったら、お店を畳むって……」
それはクロガネが話した内容だった。
店主は少しだけ驚いた表情を見せてから、ふっと笑う。
「その予定、だが。まぁ……出ていけというつもりはない」
「そう、なんですか?」
「出て行くのは別の宿を見つけてからでもいい。何なら、ここにいる内は一番いい部屋でも使ってくれ」
「そ、そんな!」
そんな会話を隣で見ていたクロガネは、店主の表情を見てすぐに察した。
店主は、ナリィがここにいることを望んでいるのだ。いや、もっと正確にいうなれば、この宿を畳みたいというのは嘘なのだろう。
それにナリィは気が付いたのか、少し考える素振りをしてから、また深々と頭を下げた。
「ありがとうございます……これからも、お世話になります」
そうして初めて、店主は晴れやかな笑顔を見せた。
「おう」




