1-53 傷心
時間がないなんて言い訳、していいはずがなかった。
クロガネは街を駆ける。
陽風の宿屋。忘れるはずもない。それは明晰夢で見た、まさにその場所。
セスタとククリが、殺された場所。
「…………」遂に一度も迷いもせず、クロガネは宿屋の前に立った。
人が殺された場所というのもあってか、閑散としている。
一階が酒場となっているようだが、そこに客の姿はなく、宿泊客もいないようだ。
極力平静を保ちながら、クロガネは宿屋の中へと入っていく。ぎぎ、と軋む扉を開けば、奥のカウンターに男が一人ポツンと座っている。
「あの」
「…………なんだい」
男の声は酷く掠れていて、まるで長い間誰とも話していないような印象を受ける。
「ここに、ナリィという女性が宿泊していると聞いたのですが」
「…………ああ。あの引きこもりなら、相変わらずだよ」その口ぶりから察するに、クロガネと同じくここを訪れる人が他にもいたのだろう。「宿代も払わず……」
それはどこか非難するようであり、だが同情するような声音でもあった。
「は……。どうせあの女が出ていったらここは畳む予定だがね。はは……」
男は自虐的に笑いながら席を立つと、おもむろに奥へと歩き出した。その先にあるのは厨房だろうか。
少しの間待っていると、男は簡単な食事と共に戻った。
スープとパン、そして甘い香りのする飲み物。何も言わずに差し出されたその食事を、クロガネは受け取る。
「……油断すると飯も食わねぇ。持ってってくれ。部屋は、二階の207番」
「ありがとうございます」
それ以降、男は何も言わずに厨房へと戻っていった。いや、もう話しかけないでくれ、ということなのかもしれない。
階段を上り、二階の廊下に出る。ざわ、と毛が逆立つような感覚。
ああ、嫌だ。夢で見た景色と何ら変わらないその場所で、思わず足が竦んだ。
時間がないから、だなんて理由で全てを後回しにしようとしていた。
それは、あの夢で見たこの景色を、現実だったのだと理解したくなかったからだ。
ゆっくりと歩いていく。
階段を上がって最初の部屋、201番と210番の前を通り過ぎる。廊下を挟んで両側に部屋は並び、進むごとに番号は増えていく。
207番よりも手前。
215番の扉を見て、クロガネは思わず立ち止まった。
夢でこの番号を見たわけではない。だが、直感的に“ここ”なのだと分かった。
無意識に手が伸び、扉の取っ手に触れた。だが、当然開いているわけもない。取っ手は回らず、がち、と音を立てるだけだ。
「…………」
クロガネは、ゆっくりと息を吐いた。
ここを開けて、それからどうするつもりだったのだろうか。自分ですら、それが分からない。
この扉の先に生きている二人がいるわけもなく。過去に繋がっている便利な扉でもない。
ただ、夢で見た通りの扉がそこにあるだけだ。
いやに静かな廊下で、うるさいぐらいの心音が響く。
胸に手を当てて、深呼吸。
「……よし」
そうしてクロガネは再び足を動かし、207番の部屋の前へと向かった。
いざ207番の扉の前に立ち止まったが、生活音などはない。周囲の静けさから、本当に小さな音であっても耳障りなほどだ。これで生活音が聞こえないわけがない。
再び深呼吸し、扉をノックする。
応答なし。
もう一度、ノック。──応答なし。
「……ナリィさん」クロガネは、もう一度だけノックをした。「聞こえますか、クロガネです」
──それでも、応答はない。
「…………」暫しの逡巡の末、クロガネは扉の取っ手を掴んだ。
がちり、と音を立てて回る。鍵はかかっていない
果たして勝手に入っていいものかと一瞬躊躇うが、返答がないのだから仕方がない。仮に倒れていたなら、治療するのは早い方がいいに決まっているのだから。
「入りますよー」そう言って扉を開けようとした直後だった。
「ご、ごめんなさい……」と、ナリィの声。そして、扉を向こう側から押さえられている感触。「今、散らかってて……少しだけ……」
「ん。了解。ごめんね急に来ちゃって」
「いえ、そんな……」
ゆっくりと扉を戻し、取っ手から手を離す。
「全然待つけど、時間かかりそう? 宿の店主から食事預かってるんだ」
「だ、大丈夫です、すぐに終わりますから」
そう言うなり、扉の向こうではせわしない足音と何かを動かす音が聞こえた。
クロガネは周囲を見渡すと、花瓶を置くためであろう小さなテーブルに食事を置いた。そこにはすでに花瓶は置かれていないが、テーブルの真ん中だけ丸く日焼けしておらず、つい最近まで花瓶があったのだろうと想像できる。
……ここは畳む予定だがね。
寂しげに笑う店主の言葉が、頭の中で響く。
本当にここを畳むつもりなのだろう。ギュッと胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
廊下に腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げる。
そうして五分も経たないうちに、ナリィは扉を開けて、俯きがちに部屋から顔を出した。
「すみません、お待たせ、しました」
「…………」
その目元に刻み込まれた涙の跡と、黒く染みついたかのような目の下のクマに、思わず息をのむ。
なるべく悟られないようにとナリィは顔に笑顔を貼り付けてはいるが、それでは到底隠し切れぬほどの疲労感が、彼女の表情からは溢れ出ていた。
クロガネは立ち上がって、そのままナリィの前に立つと、流れるように両手をナリィの両頬に添え、顔を上げさせた。
驚いて固まるその表情をじっと見つめて、クロガネは言った。
「……本当に、大丈夫ですか」
「え……?」
なるべく優しい口調で、そう尋ねる。
クロガネが静かに微笑むと、途端にナリィの瞳は揺らぎ、涙が溢れ出した。
優しく頭を撫でると、ナリィはクロガネの胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らし始める。次第にそれは大きくなって、ナリィは子供のように大声で泣いた。
きっと、ナリィは自分をみっともないと思っているはずだ。
かつてこの世界で目覚めたばかりのクロガネは、まさに今の彼女のように泣いたのを覚えている。みっともないと分かっていても、涙は止まらなかったのを覚えている。
それは決して、みっともないことではないんだよ。
あの日、ヤタガラスはきっとそう思っていたはずだ。
今、この時を生きているクロガネがそう思うように。
ナリィの気が済むまで、クロガネはその背中を優しく撫で続けた。
約、三十分後。
部屋の中で、ナリィは布団に包まって悶えていた。
クロガネはと言えば、宿の店主の元を訪ね、温かい食事を貰ってきたところだ。店主の驚きようを見る限り、本当に今までナリィはロクに部屋から出ず、食事も取らずにいたのだろう。
店主はどこか嬉しそうに、山盛りの食事をクロガネに渡してくれた。
「お待ち。いっぱい食事貰えたよ。俺も食べてけ、だってさ」食事をテーブルに置くと、ふわりといい香りが周囲に漂う。
もぞもぞと布団から顔を出したナリィの顔は、恥ずかしそうに真っ赤だ。目元も、頬も。「…………」何か言いたげだが、食事の匂いに油断したのか特大の腹の虫が鳴った。くきゅるるるるる。「…………うぅ……」
観念したのか、ナリィは布団から出てきて椅子に腰を下ろした。
「お邪魔するね」とクロガネは対面に座ると、食事を振り分けていく。ナリィには温かいスープとパン、そして甘い飲み物を。クロガネは冷めてしまった同じもの。
ナリィのことだから、私が冷めた方を……とか言い出しそうだと予想して、即座に冷めた食事をそれぞれ一口ずつ頂く。
「あっ」とナリィは声を上げた。「……冷めた方……」
「言うと思った」ニヤリ、と笑う。「先手必勝。というか、先に言われてても冷めた方は渡さないけどね」
ナリィは少しだけ口を尖らせて、けれどすぐにふっと笑顔を見せた。
「……ありがとうございます」
そう言うなり、ナリィはスープを一口飲んで、ホッとしたように目を細める。すぐにパンをちぎって、スープに浸して口へと運んだ。甘い飲み物を挟んで、またスープを飲む。
「……美味しい」
「そうだね。初めて食べたけど、すごく美味しい」
以降は、二人とも黙々と食事を進めていく。ナリィの分は明らかに通常よりも量が多かったはずだが、余程空腹だったのか、あっという間に平らげてしまった。
最期に甘い飲み物を飲み干すと、ナリィは惚けた表情を見せた。
「ごちそうさまでした」
一先ず、ナリィの表情は明るくなったようだ。
食事を摂れたのもそうであるし、思いっきり泣いたことで少しは心の中の蟠りも解消できたことだろう。
人間というのは、鬱々としているとどこかで転換しなければ浮き上がることは出来ず、沈むばかり。負の感情とは謂わば重しだ。それを外す努力をしなければ、水面は遠ざかっていく。
とはいえ、負の感情に飲まれている人間が自発的にその重しを外すことは難しい。だからこそ、誰かが手を差し伸べる必要がある。
かつてクロガネはヤタガラスに手を差し伸べられた。
だからこそ、今こうしてクロガネはナリィに対して手を差し伸べることができている。
「……はは」まだ完全ではないが、少しでもナリィの助けになれたのならよかった、とクロガネは思った。「ナリィさんの笑ってるところ見れて、良かったです」
「えっ? ……えっ?」
「そんなところでごめんなさいなんですけど、ご報告です。多分聞いてないと思うので」
「え、あ、はい……」
「明日には一旦街を出て、えっと、まぁ、色々あって赤竜に会いに行くことになったんです」
ナリィの表情が固まる。
「……せ、赤竜に、ですか」
「そうなりますよね! すいません! 説明を端折りすぎた……えーと、どこから話したもんかな」




