0-03 洗礼-①
不可視の壁に触れながら、クロガネは改めてこの世界の魔法というものの存在を感じ取っていた。
ヤタガラスの展開したこの空間魔法には、クロガネに対する体調管理を含め、数多の条件付けがされているらしかった。
範囲はクロガネの目覚めた場所を中心に半径五十メートル程の比較的狭い範囲だが、それは裏を返せば付与する効果の密度或いは難度が高いと言い換えることが出来る。
クロガネの体調管理ひとつとっても、正確に言うのであれば栄養素の補給、病気の予防、筋肉の硬化防止など、数えればキリがないほど細分化されている。
今のクロガネには逆立ちしても届かない絶技と呼ぶ他ないそれを見る度、自分の至らなさと、ヤタガラスに出会えた喜びが綯い交ぜになり、不思議に気分になる。
チュートリアル──もとい、“あの手紙”を読んだ日から早くも一週間が経過した。
クロガネには明確な目的、すなわち、この世界で一人で生きていくという目標が定まったが故に、その次の日からは早速魔法や剣技の習得に時間を割いた。
この世界の基礎知識についてはヤタガラスの“光球”によって知ることが出来るため、その分魔法などの戦闘技術面に時間を割けるのは有り難かった。
そう。まず大前提としてこの世界には“魔物”が存在している。
厳密にはいくつかの種に分けられるが、基本的に魔物は人間に害を及ぼす。
そしてその魔物の存在によってまだ世界には未開拓の区域がいくつもある。クロガネの記憶に残る地球と比較すれば、遥かに未発達な世界だ。
そんな世界で生きていく上での選択肢は幾つかあり、それらは必ずしも常に危険と隣り合わせという訳ではないが、どれを選ぶにしても基礎的な戦闘技術が無ければどうなるか分からない。
「……はぁ」
だが、正直なところこの一週間の成果は芳しくなかった。
魔法に関しては未だ魔力を感知するに至らず、剣技に関してはそもそもヤタガラスが素人であるため独学で素振り程度しか出来ていない。
魔法職であるヤタガラスも、クロガネが魔力の感知を出来なければそれ以上に何かを教えられるということもなく。
そこに時間がかかると判断したのか、ヤタガラスは「助っ人呼んでくるね!」と言い残して三日ほど前から姿を見ていない。
「どうしたもんだか、なぁ……」
クロガネが目覚めてから八日目の陽が落ちようとしている。額を流れる汗を手で拭い、寝床に戻るため荷物をまとめた。
半日以上もの時間を木剣の素振りに費やしているが、こういうのは長年の積み重ねが物を言う部分であり、正直この付け焼き刃にどこまで意味があるのかをクロガネは掴みあぐねている。
初めは単なる森の中でしかなかったこの空間も、今ではヤタガラスがちょちょいと片手で作った一軒家が中心に鎮座している。
木造の平屋、見てくれは山小屋に近い。
完全に太陽が沈みきる前に中に入り、部屋の四隅にある蝋燭に火を灯す。
食事に関しては決まった時間になるとテーブルの上に出現する。テーブルにある砂時計が落ち切るのが合図だ。どういう原理なのか全く分からない。これに関してもクロガネは引いた。
まだ食事が出てくるには猶予があるため、床に座って目を閉じる。
魔力感知の特訓だ。
「魔力のかたち、色、質感、重量……」
曰く魔力とは人間の想像により変化する魔法の材料であり、人によって捉え方は変わる。
まず観測せねば魔力の存在は確定しない。確定しなければ当然扱うことも出来ない。
ある人は魔力を空気と認識し、ある人は水と認識する。炎とも雷とも認識する人が入れば、繊維と認識する人もいる。中には魔力を“無”と認識する人もいるらしい。
だがまぁ正直なところ──。
「あああああ、もう……ぜんっぜん、分からん」
数日前から魔力と思しき何かがクロガネの周りを漂っている雰囲気はあるが、如何せんクロガネには知識もなければ比較対象もいないため、それが魔力なのか、はたまた幻覚なのか判別出来ないでいた。
まさに全てが手探り。
地球においてあらゆるものが定義されているということの有難みをこんな所で感じるとは思いもよらなかった。
「あ〰〰……」
そして何気に腹が立つのが、魔力の感知をしようとする度に性欲が湧き上がることについてだ。
よくある話だそうで、三大欲求すなわち食欲、睡眠欲、性欲のどれかが湧き上がるのは特におかしい話ではないようだった。
今にして思えば、ヤタガラスがこの空間から離れたのはこれも理由なのかもしれない。申し訳なさと感謝が共存した。
この性欲も馬鹿に出来ず、ヤタガラスとの共同生活はクロガネとしてもあまりに申し訳ないが素直に言えばキツかった。
「あーもうヤダ。すぐエロい事考え始めちゃうのも、その対象がヤタガラスさんなのも全部含めて自分がヤダ」クロガネは床をのたうち回る。「チクショ〰〰……」
クロガネが目覚めてから出会った唯一の自分以外の存在がヤタガラスなのだから、そういった対象に選ばれるのも必然なのだが、恩人に性欲を向けるのは品性を疑う。
「うあ〰〰」
床に大の字で寝転がり、天井を呆然と眺めた。
ヤタガラスがここを離れる以前からも、離れてからも、クロガネはこの性欲を発散してはいない。恥ずかしさと、申し訳なさからだ。
これを発散せねば毒に成り得ることを頭では理解出来てはいる。
だが行動に移すのはまた別だ。
思考がまとまらない。
性欲だけではない。漠然とした未来への不安、或いは変わり映えしない一週間を振り返った時のもどかしさ。
クロガネは頭を掻きながら上半身を起こし、半ばヤケに魔力の感知を再開させた。
「………………」
普段は三十分もすれば性欲が暴走しそうになり、それに言い表せない不安を感じていたクロガネだった。
だが、今日のクロガネはその一線を超える決断をした。
いや、これを決断と呼ぶことは出来ないな、とクロガネは自嘲気味に笑った。
停滞し始めたこの現状をどうにかして抜け出したかった。
そう考えた時、クロガネが自ら踏み留まり、先を知ることが出来る状況ながらそれを拒んだのはこれしか無かった。
ゾワゾワ、と薄気味悪い性欲が背筋を伝って昇ってくる。
そうだ。
この性欲はクロガネの知っているものとは何かが違う。
三十分が経過しようとしている。
クロガネの額に汗が浮かび上がり、身体が火照ってくる。いつもの感覚。
それらをぐっと堪えて、クロガネは魔力を探す。
これはある意味、『旅』だ。
四十分。
五十分。
六十分。
それまでクロガネを侵していた性欲が次第に収まり、代わりに恐怖がクロガネを包み込み始めた。
火照っていた身体は凍えるほどに寒く、運動した後であるかの如く流れる汗は冷や汗とかって身体を伝った。
七十分。
八十分。
九十分。
──百分。
誰かに身体を触れられた気がした。
そこを起点に、身体中をとてつもない快感が走り抜けた。
「──ッ、ぁ゛」
いや、それを快感と呼ぶにはあまりにも苦痛だった。
今まで押さえ込んでいた性欲が暴発するかのように、暴力的な衝撃がクロガネを内部から痛めつけた。
制御出来ないそれらは十数秒間暴れ回ったのち、クロガネの下腹部に集中する。
そして、性欲を吐き出した。
快感なんてものではなかった。言うなればそれは嘔吐。
気が付けばクロガネは力無く床に突っ伏していた。
指一本動かせない。目を開けても、そこに光源は無い。日没前に付けた蝋燭はとっくに燃え尽きたようだ。
体感ではおおよそ百分間。
だが、蝋燭が燃え尽きるには少なくとも五時間は必要なはずだった。
恐らく己が吐き出したであろう“吐瀉物”の濃密な臭いが漂い、気分が悪くなる。
だが、出来るのはせいぜい呼吸を意識的に止めることぐらい。
すぐに臭いは諦めて、クロガネは静かに目を閉じた。
その晩、夢を見た。
ヤタガラスに似た雰囲気を纏う女性が、ころころと笑ってクロガネを見下ろしていた。
顔を見ようとしたが、あまりに眩しくて見えなかった。
代わりに、ヤタガラスには存在しない三重の光輪が見えた。