第4話 熱の国
飛行機がウドンターニー国際空港に降りたのは、現地時間の午後一時過ぎだった。
タラップを降りた瞬間、空気が変わった。
熱かった。
ただ気温が高いというだけではない。
空気そのものに厚みがあった。肺に入るたび、見えない布を押し込まれるみたいだった。日本の一月の空気は刃物に似ているが、ここの空気は鈍器だった。切るのではなく、正面から殴ってくる。
柏木は三歩歩いて立ち止まった。
陽射しが強い。白いコンクリートが光を跳ね返し、目の奥まで熱を差し込んでくる。滑走路の向こうで空気が揺れていた。遠くの景色が、熱で少し溶けて見える。
白いロングコートを脱いだ。
バッグに押し込む。
それでもまだ暑かった。
首筋に汗がにじむ。背中に熱が貼りつく。シャツの内側に、じわりと湿り気が広がっていく。日本を出た時には冬だった。数時間で季節ごとひっくり返された気分だった。
ターミナルに入ると、冷気が肌に当たった。ようやく息がつけた。だがその冷たさも、外の熱を忘れさせるほどではない。体の芯に入った暑さは、簡単には抜けなかった。
手荷物受け取りのベルトの前で待ちながら、黒のジャケットも脱いだ。バッグに入れる。
残ったのは紅色のベストとシャツ、シルバーのネクタイ、黒のスラックス、革靴。革手袋はまだつけていた。サングラスも外していない。
周りのタイ人が何人か柏木を見た。
外国人は多い。だが、この格好の外国人は多くない。真昼のウドンターニーで、ベストとネクタイと革手袋。暑さに喧嘩を売っているような格好だった。
視線には慣れていた。
到着ロビーに出る。
人を探す。
**KASHIWAGI**と書かれたボードを持つ男がいた。
三十代後半。タイ人。身長は百七十センチ前後。細身だが肩に厚みがある。日に焼けた肌。目が静かだった。笑っていない目ではなく、静かな目だった。何かを長い間見続けてきた人間の目をしている。
柏木はその男に近づいた。
「スッティンか」
「柏木さん」
日本語だった。発音がきれいだった。
「はい」
「長い旅でしたね。疲れましたか」
「いいえ」
スッティンは柏木を頭から足まで一度見た。それから、わずかに口元を動かした。
「暑いでしょう」
「暑い」
「コートは」
「バッグに入れた」
「ジャケットは」
「同様」
スッティンはまた柏木を見た。
「それでも十分に目立ちます」
「そうか」
「はい。かなり」
柏木は答えなかった。
空港の自動ドアが開くたび、外の熱気が吹き込んでくる。排気ガスの匂い、乾いた土の匂い、どこか甘い果物みたいな匂いが混ざっていた。知らない国の匂いだった。嫌ではない。ただ、油断すると体の中まで入り込んできそうだった。
「行きましょう」
車は古いトヨタのピックアップトラックだった。年季は入っているが、壊れにくさだけで選ばれたような車だった。荷台には何かが積んであり、ブルーシートで覆われている。
助手席に乗り込むと、シートが熱を持っていた。エンジンがかかり、エアコンが唸る。冷たい風が出るまで少し時間がかかった。
市街地を走る。
ウドンターニーは思ったより大きな街だった。バンコクほどではない。だが田舎でもない。ショッピングモールがあり、チェーンのコーヒー店があり、道路は広い。バイクが多い。信号待ちのたびに、排気の熱が窓越しに伝わってくる。屋台の鍋から湯気が上がり、果物を積んだ荷車が道端に止まり、犬が日陰で腹を見せて寝ていた。
「タイは初めてですか」
スッティンが聞いた。運転しながら、視線は前に向けたままだった。
「初めてだ」
「どう見えますか」
「普通の街だ」
「ここは普通の街ですよ」
スッティンは言った。
「問題は街の外です。農村部。あるいは裏側。表から見ると普通です。それがタイです」
「日本と同じだな」
スッティンは少し間を置いた。
「そうかもしれません」
車は市街地を抜け、少しずつ建物の密度が下がっていった。派手な看板が減り、低い家が増える。道路脇に乾いた草地が広がり、遠くに赤茶けた土が見えた。空が広い。広すぎて、隠れる場所がないようにも見えた。
シェルターは市街地から二十分ほどの場所にあった。
民家を改装した建物だった。外から見れば普通の家だ。二階建てで、庭に木が数本あり、洗濯物が干してある。目立たない。目立たないことに全力を尽くした家だった。
中に入る。
扇風機の風が回っていた。冷房は弱い。室内には米の匂いと洗剤の匂いと、人が多く暮らす場所特有の湿った匂いがあった。
十人ほどの人間がいた。若い女性が多い。タイ人らしき顔。ラオス人らしき顔。子どもが一人、床で何かをして遊んでいた。
全員が柏木を見た。
誰も何も言わなかった。
柏木も何も言わなかった。
その沈黙は、歓迎の前の沈黙ではなかった。
値踏みでもない。
もっと切実な種類の沈黙だった。この人間は安全か。ここにいていい人間か。そういう沈黙だった。
スッティンがタイ語で何か言った。
人々の表情が少し緩んだ。
「日本から来た、信頼できる人間だと言いました」
「タイ語で信頼できる人間はどう言う」
「コンティーチュア」
柏木は繰り返した。
「コンティーチュア」
発音が悪かった。だが何人かが笑った。小さく。本物の笑いだった。緊張を隠すためのものではなく、少しだけ空気がほどけた時の笑いだった。
子どもが柏木の革手袋を見ていた。
柏木が視線を向けると、子どもは母親らしい女の後ろに半分隠れた。だが完全には隠れなかった。怖がっているというより、珍しい動物を見る目だった。
「部屋を案内します」
スッティンが言った。
二階へ上がる。廊下は狭く、床板が少し軋んだ。窓の外では、強い陽射しに庭の葉が白く光っている。
案内された部屋は簡素だった。ベッドが一つ。机が一つ。扇風機。小さなクローゼット。壁は薄く、外の音が少し入る。
「ホテルではありません」
「見れば分かる」
「すみません」
「謝る必要はない」
スッティンは頷いた。
「今日は休んでください。詳しい話は夜に少しだけ。明日、現場の説明をします」
「分かった」
スッティンはドアのところで一度止まった。
「一つだけ」
「何だ」
「ここでは、夜に外へ出ないでください」
「理由は」
「まだ土地勘がないからです」
柏木はスッティンを見た。
「それだけか」
スッティンは少し黙った。
「それだけではありません」
「何がある」
「見られていることがあります」
柏木は何も言わなかった。
スッティンもそれ以上は言わなかった。
ドアが閉まる。
柏木はバッグを床に置き、ネクタイを少し緩めた。窓を開けると、熱気がすぐに入ってきた。遠くで犬が吠えている。バイクの音がする。鳥の声もする。知らない国の午後は、音の並び方まで違っていた。
ベッドに腰を下ろす。
汗がまだ引かない。シャツが背中に張りついている。扇風機の風はぬるいが、ないよりはましだった。
柏木は煙草を取り出しかけて、やめた。
この部屋で吸っていいか分からない。初日にやることではない。
代わりに水を飲んだ。
夕方、少しだけ外の光がやわらいだ頃、下へ降りた。
食事が用意されていた。タイ東北部の料理だった。香草の匂いが強く、唐辛子の赤が目に痛い。柏木は一口食べて、無言で水を飲んだ。
スッティンがそれを見た。
「辛いですか」
「辛い」
「大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
「本当に」
「たぶん」
スッティンが少し笑った。
その笑い方で、柏木は少しだけ分かった。
この男は人を安心させるために笑うのではない。必要な時だけ笑う。だから軽く見えない。
食事の席では、込み入った話はしなかった。
誰がどこから来たか。ここには何人いるか。子どもは一人だけか。そういう表面の話だけだった。
それで十分だった。
夜になると、熱は少しだけ引いた。だが日本の夏の夜みたいに涼しくはならない。空気はまだぬるく、肌にまとわりついていた。
二階の部屋に戻ってしばらくすると、遠くでバイクの音がした。
一台ではない。二台か三台。
通り過ぎるだけの音にも聞こえる。だが一度遠ざかってから、また近づいた気がした。
柏木は窓辺に立った。
灯りは少ない。道路の先は暗く、木の影が溶けている。何も見えない。見えないが、見えないこと自体が少し気になった。
しばらくして、階下でドアの開く音がした。
低い声で、スッティンが誰かと話している。タイ語だった。内容は分からない。だが声の調子で分かることはある。穏やかではあったが、気を抜いた声ではなかった。
数分後、またドアが閉まった。
柏木は窓から離れた。
ベッドに腰を下ろす。
この家は普通の家に見える。だが普通の家として使われてはいない。ここにいる人間は、隠れるために暮らしている。隠れる生活は、生活の形をしていても、どこかずっと戦時中に似る。
扇風機が回っている。
遠くでまたバイクの音がした。
柏木は天井を見上げた。
日本を出て一日目。
まだ何も始まっていない。
だが、もう日本ではなかった。




