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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか!  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
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第5話 動ける範囲


 翌朝、柏木が階下に降りると、台所の奥から油の匂いが流れてきた。にんにくを潰した匂い、炊いた米の湯気、甘い缶コーヒーの匂いが混ざっている。朝だというのに空気はもうぬるく、窓の外では陽射しが庭の葉を白く照らしていた。タイの朝は、日本の夏の昼前みたいな顔をしている。


 スッティンがテーブルにコーヒーを置いた。


 「今日、会ってほしい人がいます」


 柏木はカップを持ち上げた。甘かった。砂糖を入れすぎている。だが飲めないほどではない。熱い国では、甘さも体力のうちなのかもしれなかった。


 「誰だ?」


 「プラチャー・ウォンスックという人です。ウドンターニー県警の警部補。私の古い友人です」


 「警察が支援者か?」


 「一部です。全部ではない。大部分の警察は動きません。だがプラチャーは、動ける範囲で動いてくれています」


 「なぜ動けない?」


 スッティンは少しだけ視線を落とした。言い慣れた説明なのだろうが、慣れているからといって軽くなる話ではないらしかった。


 「犯罪組織は、地元の有力者と繋がっています。政治家、事業家、そういう人間が上にいる。警察が動こうとすると、上から圧力がかかる。プラチャーはそれを知っています」


 「だからお前がやる」


 「私は警察じゃない。しがらみがない。だから動ける」


 柏木は頷いた。

 窓の外でバイクが一台、乾いた音を立てて通り過ぎた。


 「もう一人います」


 「誰だ?」


 「チャイロン・スリワットという人です。陸軍の少佐。ウドンターニーに駐屯しています」


 「軍も支援者か?」


 「プラチャーとチャイロンは学生時代からの知り合いです。二人とも、妹のことを知っています」


 スッティンはそこで言葉を切った。

 それ以上は今は話さない、という切り方だった。


 柏木も聞かなかった。


 「その二人が、俺の在留の問題を処理してくれるということか?」


 「はい。少なくとも、表向き困らない形にはできます」


 「非合法だと理解した上で?」


 「理解した上でです」


 「二人に何かメリットはあるか?」


 スッティンは少し考えた。窓から入る光が、頬の骨のあたりを薄く照らしていた。


 「メリット、という言葉が正確かは分かりません。ただ、彼らは自分たちが全部はできないことを知っています。自分たちの代わりに、私がやっていることも」


 「良心の問題だな」


 「タイ語で言うと、ブンクンに近いです。恩義、義理、借り。少し違いますが、近い」


 柏木はコーヒーを飲み干して立ち上がった。


 「会いに行こう」


 待ち合わせはウドンターニー市内の食堂だった。


 昼前だというのに、街はもう熱を抱え込んでいた。道路の上で陽炎が揺れ、信号待ちのバイクの群れが排気を吐き、屋台の鍋からは白い湯気が立っている。果物を積んだ荷車の横を、制服姿の学生が笑いながら通り過ぎていく。普通の街の音だった。普通の街の匂いだった。だが、その普通さがかえって薄い膜みたいに見えた。膜の下に別のものがある、と分かってしまった後では。


 食堂は通りから少し引っ込んだ場所にあった。半分外みたいな造りで、天井のファンがだるそうに回っている。氷の入った水のグラスがテーブルに並んでいたが、表面にはもう細かい水滴がびっしりついていた。冷たさが空気に負けている。


 奥のテーブルに二人の男が座っていた。


 一人は四十代前半。短く刈り上げた髪。私服だったが、背筋の伸び方が制服を着ている時のままだった。目が鋭い。人を見る時、顔より先に手元と腰回りを見る目だった。警察の目だ、と柏木は思った。


 もう一人は四十代後半。がっしりした体格。日焼けした首。座っていても分かる。軍人の体の使い方だった。必要な時だけ動く人間の座り方だ。


 二人が柏木を見た。

 柏木も二人を見た。


 先に立ち上がったのは警察の男だった。スッティンが紹介する。


 「プラチャーです」


 次に軍人の男。


 「チャイロンです」


 握手をした。プラチャーの手は乾いていた。チャイロンの手は厚かった。どちらも、仕事で人に触れることに慣れた手だった。


 席に着く。


 最初の数分は、ほとんど探り合いだった。タイ語が飛び、日本語に変わり、またタイ語に戻る。スッティンがその間を埋める。言葉が一度で届かないぶん、相手の顔を見る時間が長くなる。そういう会話だった。


 プラチャーが最初に口を開いた。


 「日本から来たと聞いています」


 「はい」


 「観光には見えませんね?」


 スッティンが訳す前に、口調だけで少し分かった。軽い冗談の形をしているが、確認だ。


 「観光ではない」


 プラチャーはわずかに口元を動かした。笑ったというより、一つ確認が済んだ顔だった。


 チャイロンが言った。


 「スッティンから話は聞いています。あなたはしばらくここに滞在するつもりだと」


 「そのつもりだ」


 「現在はビザ免除で入国している。三十日です」


 「知っている」


 「切れる前に切り替えます。書類上は、スッティンのNGOのコンサルタントという形にする」


 「問題は出ないか?」


 チャイロンは水を一口飲んだ。氷がグラスの中で小さく鳴った。


 「出ないようにする。それが私にできる範囲です」


 その言い方が、柏木には分かりやすかった。

 できる、ではない。

 **できる範囲**だ。


 プラチャーが続けた。


 「私からも一つ確認したい」


 「何だ?」


 「あなたは、ここで何をするつもりですか?」


 食堂の外をバイクが通り過ぎた。排気音が一瞬だけ会話を切る。唐辛子を炒める匂いが風に乗って流れてきた。


 柏木は答えた。


 「スッティンの現場に同行する。状況判断をする。必要なら人を動かす。危険があれば止める」


 プラチャーは柏木を見た。


 「戦うために来たわけではない?」


 「必要がなければ戦わない」


 「必要があれば?」


 「その時に決める」


 プラチャーは少し黙った。

 警察官の顔だった。言葉そのものより、言い方と間を見ている。


 「正直な人ですね」


 「嘘をつく必要がない」


 「そういう人は珍しいですよ」


 「日本でも珍しい」


 チャイロンがそこで初めて少し笑った。

 その笑い方は静かだったが、軍人らしい硬さの中に人間味があった。


 料理が運ばれてきた。焼いた鶏肉、青パパイヤのサラダ、もち米。唐辛子の赤が目に痛い。香草の匂いが強い。柏木は一口食べて、水を飲んだ。


 プラチャーがそれを見ていた。


 「辛いですか?」


 「辛い」


 プラチャーが何か言った。スッティンが少し困った顔をする。


 「何と言った?」


 「三日で慣れると言っています」


 「無理だな」


 チャイロンが短く笑った。

 その笑いで、四人の空気が少しだけほどけた。


 食事をしながら、話は本題に入った。


 チャイロンが言う。


 「スッティンの活動は、表向きは合法です。被害者支援、保護、連携。そこに問題はない」


 プラチャーが続ける。


 「問題は、その先です。相手が黙っていない」


 「知っている」


 「先月、一人死んだ」


 その言葉で、食堂の空気が少しだけ重くなった。


 ファンは回っている。皿の上にはまだ食べ物がある。外ではバイクが走っている。なのに、その一言だけで、周囲の音が少し遠くなった気がした。


 柏木は黙って聞いた。


 プラチャーはそれ以上、詳しくは言わなかった。

 言わないこと自体が、まだ話す段階ではないという合図だった。


 チャイロンが言った。


 「私たちは、直接は動けません」


 「警察も軍もか?」


 「動けば、組織が動く。組織が動けば、上が止める。上を動かすには証拠がいる。証拠を集めるには時間がかかる」


 プラチャーが氷の溶けた水を飲んだ。


 「その間に、人が消える」


 柏木は頷いた。


 「だからスッティンが動く」


 「そうです」


 「そして、お前たちは見ている」


 プラチャーは少しだけ眉を動かした。怒ったわけではない。痛いところを突かれた顔だった。


 「見ているだけではありません」


 「だが、前には出ない」


 「出られない」


 「同じことだ」


 数秒、誰も何も言わなかった。


 食堂の外で犬が一度吠えた。

 スッティンが口を挟まなかったのは、その沈黙が必要だと分かっていたからだろう。


 やがてチャイロンが言った。


 「違いはあります」


 柏木は視線を向けた。


 「見ているだけの人間は、何もしない。私たちは、できる範囲でやる」


 「その範囲が狭い」


 「狭いです」


 チャイロンはあっさり認めた。


 「だがゼロではない」


 柏木は少しだけ頷いた。


 その答えは嫌いではなかった。

 言い訳ではなく、限界の申告だったからだ。


 食後、プラチャーが先に席を立った。


 「私は署に戻ります」


 それから柏木を見た。


 「一つだけ。あなたがここで何をするにしても、目立たないでください」


 柏木は自分のベストとネクタイを見下ろした。


 「難しい注文だな」


 プラチャーが初めて少し笑った。


 「ええ。見れば分かります」


 店の外に出ると、昼の熱気がまた肌に貼りついた。食堂の中でいったん引いた汗が、すぐに首筋へ戻ってくる。道路の向こうでは陽炎が揺れ、バイクの排気が甘い果物の匂いと混ざって流れていた。


 プラチャーはそこで別れた。

 残ったのは柏木、スッティン、チャイロンの三人だった。


 チャイロンが言った。


 「少し歩けますか?」


 「構わない」


 食堂の横の細い路地に入る。日陰はあるが、涼しくはない。壁が昼の熱を溜め込んでいて、足元からむっとした空気が上がってくる。遠くで金属を打つ音がした。どこかの家で洗濯物が風に揺れている。


 チャイロンはポケットから煙草を出した。柏木にも勧める。柏木は自分のを出した。二人で火をつける。


 スッティンは少し離れた場所に立っていた。見張りというほど露骨ではないが、周囲を見ていた。通りの向こうを走るバイクの数まで数えていそうな目だった。


 チャイロンがぎこちない英語で言った。


 「あなたは軍にいた」


 「はい」


 「自衛隊の将校だったと聞きました。なぜ辞めた?」


 「訓練事故で左目を失った。片目の将校は必要とされなかった」


 チャイロンは柏木の顔を見た。サングラス越しでも、右目だけが動くことは分かるらしかった。


 「それでここに来た」


 「日本でやっていたことの延長線上にある」


 「スッティンから聞きました。外国人労働者を助けていたと」


 「仕事だった」


 「仕事だけではなかったとも聞きました」


 柏木は答えなかった。


 チャイロンも追及しなかった。煙草の煙が、熱気の中で薄くほどけていく。乾いた煙の匂いが、路地の湿った空気に混ざった。


 「私はスッティンの活動を支持しています。だが直接手を出せない」


 「知っている」


 「しがらみがある。上がある。組織がある。私が動けば組織が動く。組織が動けば、上が止める」


 「だからスッティンが動く」


 「はい」


 チャイロンは煙草の灰を落とした。


 「あなたのような人間が来ると、スッティンは少し安全になる」


 柏木は煙草を吸った。


 「少し、か」


 「十分ではありません」


 「正直だな」


 「軍人ですから」


 柏木は少しだけ口元を動かした。笑ったわけではない。だが、悪くない返答だと思った。


 チャイロンが続ける。


 「一つだけ、先に言っておきます。ここでは、きれいなやり方だけでは間に合わないことがあります」


 「分かっている」


 「本当に?」


 「日本でも同じだった」


 チャイロンは柏木を見た。


 「それでも来た」


 「動ける場所に来ただけだ」


 チャイロンはその言葉を少し考えた。


 「スッティンが、あなたを信頼する理由が分かります」


 「まだ早い」


 「そうかもしれません」


 煙草が短くなった。


 チャイロンは先に火を落とした。


 「在留の件は進めます。必要な書類は後でスッティンから渡します」


 「分かった」


 「それから」


 チャイロンは少しだけ声を落とした。


 「現場の話は、現場を見てからにしましょう。紙の上で聞くより、そのほうが早い」


 柏木は頷いた。


 その言い方で十分だった。

 まだ話していないことがある。

 だが今は話さない。

 そういう線引きが見えた。


 食堂を離れ、車に戻る。


 助手席に乗り込むと、シートがまた熱を持っていた。エンジンがかかり、遅れて冷風が出る。窓の外では、昼の光が街の輪郭を少し滲ませていた。


 帰り道、柏木は外を見ていた。


 市場の屋根。バイクの群れ。日陰で眠る犬。制服姿の学生。果物を山積みにした屋台。どれも普通の街の景色だった。


 普通の街の顔をしている。

 その裏で、人が消える。


 スッティンが運転しながら言った。


 「どう思いましたか?」


 柏木は少し考えた。


 「味方はいる」


 「はい」


 「だが、全員が手を汚せるわけじゃない」


 スッティンは頷いた。


 「そうです」


 「だから俺がいる」


 スッティンは少しだけ黙った。

 フロントガラスの向こうで、熱に揺れる道路がまっすぐ伸びている。


 「そう言ってくれると助かります」


 柏木は窓の外を見たまま言った。


 「まだ何もしていない」


 「それでもです」


 車は熱の揺れる道路を走っていく。


 柏木はシートに背を預けた。


 この国では、正しい側にいるだけでは足りない。

 動ける範囲を持つ人間が何人かいて、その隙間を縫うようにして、ようやく一人助けられる。


 きれいな話ではなかった。


 だが、きれいな話で人が助かるなら、最初から誰も死なない。


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