第5話 動ける範囲
翌朝、柏木が階下に降りると、台所の奥から油の匂いが流れてきた。にんにくを潰した匂い、炊いた米の湯気、甘い缶コーヒーの匂いが混ざっている。朝だというのに空気はもうぬるく、窓の外では陽射しが庭の葉を白く照らしていた。タイの朝は、日本の夏の昼前みたいな顔をしている。
スッティンがテーブルにコーヒーを置いた。
「今日、会ってほしい人がいます」
柏木はカップを持ち上げた。甘かった。砂糖を入れすぎている。だが飲めないほどではない。熱い国では、甘さも体力のうちなのかもしれなかった。
「誰だ?」
「プラチャー・ウォンスックという人です。ウドンターニー県警の警部補。私の古い友人です」
「警察が支援者か?」
「一部です。全部ではない。大部分の警察は動きません。だがプラチャーは、動ける範囲で動いてくれています」
「なぜ動けない?」
スッティンは少しだけ視線を落とした。言い慣れた説明なのだろうが、慣れているからといって軽くなる話ではないらしかった。
「犯罪組織は、地元の有力者と繋がっています。政治家、事業家、そういう人間が上にいる。警察が動こうとすると、上から圧力がかかる。プラチャーはそれを知っています」
「だからお前がやる」
「私は警察じゃない。しがらみがない。だから動ける」
柏木は頷いた。
窓の外でバイクが一台、乾いた音を立てて通り過ぎた。
「もう一人います」
「誰だ?」
「チャイロン・スリワットという人です。陸軍の少佐。ウドンターニーに駐屯しています」
「軍も支援者か?」
「プラチャーとチャイロンは学生時代からの知り合いです。二人とも、妹のことを知っています」
スッティンはそこで言葉を切った。
それ以上は今は話さない、という切り方だった。
柏木も聞かなかった。
「その二人が、俺の在留の問題を処理してくれるということか?」
「はい。少なくとも、表向き困らない形にはできます」
「非合法だと理解した上で?」
「理解した上でです」
「二人に何かメリットはあるか?」
スッティンは少し考えた。窓から入る光が、頬の骨のあたりを薄く照らしていた。
「メリット、という言葉が正確かは分かりません。ただ、彼らは自分たちが全部はできないことを知っています。自分たちの代わりに、私がやっていることも」
「良心の問題だな」
「タイ語で言うと、ブンクンに近いです。恩義、義理、借り。少し違いますが、近い」
柏木はコーヒーを飲み干して立ち上がった。
「会いに行こう」
待ち合わせはウドンターニー市内の食堂だった。
昼前だというのに、街はもう熱を抱え込んでいた。道路の上で陽炎が揺れ、信号待ちのバイクの群れが排気を吐き、屋台の鍋からは白い湯気が立っている。果物を積んだ荷車の横を、制服姿の学生が笑いながら通り過ぎていく。普通の街の音だった。普通の街の匂いだった。だが、その普通さがかえって薄い膜みたいに見えた。膜の下に別のものがある、と分かってしまった後では。
食堂は通りから少し引っ込んだ場所にあった。半分外みたいな造りで、天井のファンがだるそうに回っている。氷の入った水のグラスがテーブルに並んでいたが、表面にはもう細かい水滴がびっしりついていた。冷たさが空気に負けている。
奥のテーブルに二人の男が座っていた。
一人は四十代前半。短く刈り上げた髪。私服だったが、背筋の伸び方が制服を着ている時のままだった。目が鋭い。人を見る時、顔より先に手元と腰回りを見る目だった。警察の目だ、と柏木は思った。
もう一人は四十代後半。がっしりした体格。日焼けした首。座っていても分かる。軍人の体の使い方だった。必要な時だけ動く人間の座り方だ。
二人が柏木を見た。
柏木も二人を見た。
先に立ち上がったのは警察の男だった。スッティンが紹介する。
「プラチャーです」
次に軍人の男。
「チャイロンです」
握手をした。プラチャーの手は乾いていた。チャイロンの手は厚かった。どちらも、仕事で人に触れることに慣れた手だった。
席に着く。
最初の数分は、ほとんど探り合いだった。タイ語が飛び、日本語に変わり、またタイ語に戻る。スッティンがその間を埋める。言葉が一度で届かないぶん、相手の顔を見る時間が長くなる。そういう会話だった。
プラチャーが最初に口を開いた。
「日本から来たと聞いています」
「はい」
「観光には見えませんね?」
スッティンが訳す前に、口調だけで少し分かった。軽い冗談の形をしているが、確認だ。
「観光ではない」
プラチャーはわずかに口元を動かした。笑ったというより、一つ確認が済んだ顔だった。
チャイロンが言った。
「スッティンから話は聞いています。あなたはしばらくここに滞在するつもりだと」
「そのつもりだ」
「現在はビザ免除で入国している。三十日です」
「知っている」
「切れる前に切り替えます。書類上は、スッティンのNGOのコンサルタントという形にする」
「問題は出ないか?」
チャイロンは水を一口飲んだ。氷がグラスの中で小さく鳴った。
「出ないようにする。それが私にできる範囲です」
その言い方が、柏木には分かりやすかった。
できる、ではない。
**できる範囲**だ。
プラチャーが続けた。
「私からも一つ確認したい」
「何だ?」
「あなたは、ここで何をするつもりですか?」
食堂の外をバイクが通り過ぎた。排気音が一瞬だけ会話を切る。唐辛子を炒める匂いが風に乗って流れてきた。
柏木は答えた。
「スッティンの現場に同行する。状況判断をする。必要なら人を動かす。危険があれば止める」
プラチャーは柏木を見た。
「戦うために来たわけではない?」
「必要がなければ戦わない」
「必要があれば?」
「その時に決める」
プラチャーは少し黙った。
警察官の顔だった。言葉そのものより、言い方と間を見ている。
「正直な人ですね」
「嘘をつく必要がない」
「そういう人は珍しいですよ」
「日本でも珍しい」
チャイロンがそこで初めて少し笑った。
その笑い方は静かだったが、軍人らしい硬さの中に人間味があった。
料理が運ばれてきた。焼いた鶏肉、青パパイヤのサラダ、もち米。唐辛子の赤が目に痛い。香草の匂いが強い。柏木は一口食べて、水を飲んだ。
プラチャーがそれを見ていた。
「辛いですか?」
「辛い」
プラチャーが何か言った。スッティンが少し困った顔をする。
「何と言った?」
「三日で慣れると言っています」
「無理だな」
チャイロンが短く笑った。
その笑いで、四人の空気が少しだけほどけた。
食事をしながら、話は本題に入った。
チャイロンが言う。
「スッティンの活動は、表向きは合法です。被害者支援、保護、連携。そこに問題はない」
プラチャーが続ける。
「問題は、その先です。相手が黙っていない」
「知っている」
「先月、一人死んだ」
その言葉で、食堂の空気が少しだけ重くなった。
ファンは回っている。皿の上にはまだ食べ物がある。外ではバイクが走っている。なのに、その一言だけで、周囲の音が少し遠くなった気がした。
柏木は黙って聞いた。
プラチャーはそれ以上、詳しくは言わなかった。
言わないこと自体が、まだ話す段階ではないという合図だった。
チャイロンが言った。
「私たちは、直接は動けません」
「警察も軍もか?」
「動けば、組織が動く。組織が動けば、上が止める。上を動かすには証拠がいる。証拠を集めるには時間がかかる」
プラチャーが氷の溶けた水を飲んだ。
「その間に、人が消える」
柏木は頷いた。
「だからスッティンが動く」
「そうです」
「そして、お前たちは見ている」
プラチャーは少しだけ眉を動かした。怒ったわけではない。痛いところを突かれた顔だった。
「見ているだけではありません」
「だが、前には出ない」
「出られない」
「同じことだ」
数秒、誰も何も言わなかった。
食堂の外で犬が一度吠えた。
スッティンが口を挟まなかったのは、その沈黙が必要だと分かっていたからだろう。
やがてチャイロンが言った。
「違いはあります」
柏木は視線を向けた。
「見ているだけの人間は、何もしない。私たちは、できる範囲でやる」
「その範囲が狭い」
「狭いです」
チャイロンはあっさり認めた。
「だがゼロではない」
柏木は少しだけ頷いた。
その答えは嫌いではなかった。
言い訳ではなく、限界の申告だったからだ。
食後、プラチャーが先に席を立った。
「私は署に戻ります」
それから柏木を見た。
「一つだけ。あなたがここで何をするにしても、目立たないでください」
柏木は自分のベストとネクタイを見下ろした。
「難しい注文だな」
プラチャーが初めて少し笑った。
「ええ。見れば分かります」
店の外に出ると、昼の熱気がまた肌に貼りついた。食堂の中でいったん引いた汗が、すぐに首筋へ戻ってくる。道路の向こうでは陽炎が揺れ、バイクの排気が甘い果物の匂いと混ざって流れていた。
プラチャーはそこで別れた。
残ったのは柏木、スッティン、チャイロンの三人だった。
チャイロンが言った。
「少し歩けますか?」
「構わない」
食堂の横の細い路地に入る。日陰はあるが、涼しくはない。壁が昼の熱を溜め込んでいて、足元からむっとした空気が上がってくる。遠くで金属を打つ音がした。どこかの家で洗濯物が風に揺れている。
チャイロンはポケットから煙草を出した。柏木にも勧める。柏木は自分のを出した。二人で火をつける。
スッティンは少し離れた場所に立っていた。見張りというほど露骨ではないが、周囲を見ていた。通りの向こうを走るバイクの数まで数えていそうな目だった。
チャイロンがぎこちない英語で言った。
「あなたは軍にいた」
「はい」
「自衛隊の将校だったと聞きました。なぜ辞めた?」
「訓練事故で左目を失った。片目の将校は必要とされなかった」
チャイロンは柏木の顔を見た。サングラス越しでも、右目だけが動くことは分かるらしかった。
「それでここに来た」
「日本でやっていたことの延長線上にある」
「スッティンから聞きました。外国人労働者を助けていたと」
「仕事だった」
「仕事だけではなかったとも聞きました」
柏木は答えなかった。
チャイロンも追及しなかった。煙草の煙が、熱気の中で薄くほどけていく。乾いた煙の匂いが、路地の湿った空気に混ざった。
「私はスッティンの活動を支持しています。だが直接手を出せない」
「知っている」
「しがらみがある。上がある。組織がある。私が動けば組織が動く。組織が動けば、上が止める」
「だからスッティンが動く」
「はい」
チャイロンは煙草の灰を落とした。
「あなたのような人間が来ると、スッティンは少し安全になる」
柏木は煙草を吸った。
「少し、か」
「十分ではありません」
「正直だな」
「軍人ですから」
柏木は少しだけ口元を動かした。笑ったわけではない。だが、悪くない返答だと思った。
チャイロンが続ける。
「一つだけ、先に言っておきます。ここでは、きれいなやり方だけでは間に合わないことがあります」
「分かっている」
「本当に?」
「日本でも同じだった」
チャイロンは柏木を見た。
「それでも来た」
「動ける場所に来ただけだ」
チャイロンはその言葉を少し考えた。
「スッティンが、あなたを信頼する理由が分かります」
「まだ早い」
「そうかもしれません」
煙草が短くなった。
チャイロンは先に火を落とした。
「在留の件は進めます。必要な書類は後でスッティンから渡します」
「分かった」
「それから」
チャイロンは少しだけ声を落とした。
「現場の話は、現場を見てからにしましょう。紙の上で聞くより、そのほうが早い」
柏木は頷いた。
その言い方で十分だった。
まだ話していないことがある。
だが今は話さない。
そういう線引きが見えた。
食堂を離れ、車に戻る。
助手席に乗り込むと、シートがまた熱を持っていた。エンジンがかかり、遅れて冷風が出る。窓の外では、昼の光が街の輪郭を少し滲ませていた。
帰り道、柏木は外を見ていた。
市場の屋根。バイクの群れ。日陰で眠る犬。制服姿の学生。果物を山積みにした屋台。どれも普通の街の景色だった。
普通の街の顔をしている。
その裏で、人が消える。
スッティンが運転しながら言った。
「どう思いましたか?」
柏木は少し考えた。
「味方はいる」
「はい」
「だが、全員が手を汚せるわけじゃない」
スッティンは頷いた。
「そうです」
「だから俺がいる」
スッティンは少しだけ黙った。
フロントガラスの向こうで、熱に揺れる道路がまっすぐ伸びている。
「そう言ってくれると助かります」
柏木は窓の外を見たまま言った。
「まだ何もしていない」
「それでもです」
車は熱の揺れる道路を走っていく。
柏木はシートに背を預けた。
この国では、正しい側にいるだけでは足りない。
動ける範囲を持つ人間が何人かいて、その隙間を縫うようにして、ようやく一人助けられる。
きれいな話ではなかった。
だが、きれいな話で人が助かるなら、最初から誰も死なない。




