表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
4/131

第4話 タイへ

飛行機がウドンターニー国際空港に降りたのは、現地時間の午後一時過ぎだった。


 タラップを降りた瞬間、空気が変わった。


 熱かった。


 一月のタイ東北部。乾季だった。湿度は低い。だが気温は三十度を超えていた。日本の冬から来た体には、空気そのものが壁のように感じた。


 柏木は三歩歩いて立ち止まった。


 白いロングコートを脱いだ。バッグに押し込んだ。


 それでもまだ暑かった。


 ターミナルに入った。エアコンが効いていた。少し楽になった。手荷物受け取りのベルトの前で待ちながら、黒のジャケットも脱いだ。バッグに入れた。


 残ったのは紅色のベストとシャツ。シルバーのネクタイ。黒のスラックス。革靴。革手袋はまだつけていた。サングラスも外していなかった。


 周りのタイ人が、何人か柏木を見た。


 外国人は多い。だがこの格好の外国人は多くない。ベストとネクタイとサングラスと革手袋。真昼のウドンターニーで。


 視線には慣れていた。


---


 到着ロビーに出た。


 人を探した。


 「KASHIWAGI」と書かれたボードを持っている人間がいた。


 三十代後半。タイ人。身長は百七十センチ前後。細身だが、肩に厚みがある。日に焼けた肌。目が静かだった。笑っていない目ではなく、静かな目だった。何かを長い間見続けてきた人間の目をしていた。


 柏木はその男に近づいた。


 「スッティンか」


 「柏木さん」


 日本語だった。発音がきれいだった。


 「はい」


 「長い旅でしたね。疲れましたか」


 「いいえ」


 スッティンは柏木を頭から足まで一度見た。それから、わずかに表情が動いた。


 「暑いでしょう」


 「暑い」


 「コートは」


 「バッグに入れた」


 「ジャケットは」


 「同様」


 スッティンはまた柏木を見た。


 「それでも」


 「何が」


 「十分に見えます。威圧的という意味で」


 柏木は答えなかった。


 「行きましょう」


---


 車に乗った。


 トヨタのピックアップトラック。古いが頑丈そうだった。荷台に何かが積んである。ブルーシートで覆われていた。


 市街地を走った。


 ウドンターニーは思ったより大きな街だった。バンコクほどではない。だが田舎でもない。ショッピングモールがある。チェーンのコーヒー店がある。道路は広い。バイクが多い。


 「街は初めてですか、タイは」


 スッティンが聞いた。運転しながら、視線は前に向けていた。


 「初めてだ」


 「どう見えますか」


 「普通の街だ」


 「ここは普通の街ですよ」


 スッティンは続けた。


 「問題は街の外です。農村部。あるいは裏側。表から見ると普通です。それがタイです」


 「日本と同じだな」


 スッティンは少し間を置いた。


 「そうかもしれません」


---


 シェルターは市街地から車で二十分の場所にあった。


 民家を改装した建物だった。外から見ると普通の家だ。二階建て。庭に木が数本。洗濯物が干してある。


 中に入った。


 十人ほどの人間がいた。若い女性が多い。タイ人らしき顔。ラオス人らしき顔。子どもが一人、床で何かをして遊んでいた。


 全員が柏木を見た。


 誰も何も言わなかった。


 柏木も何も言わなかった。


 スッティンがタイ語で何か言った。人々の表情が少し緩んだ。


 「日本から来た、信頼できる人間だと言いました」


 「タイ語で信頼できる人間はどう言う」


 「コンティーチュア」


 柏木は繰り返した。


 「コンティーチュア」


 発音が悪かった。だが何人かが笑った。小さく。緊張を隠した笑い方ではなく、本物の、小さな笑い方だった。


---


 二階に上がった。


 スッティンのオフィスだった。机が一つ。椅子が二つ。壁に地図が貼ってある。ウドンターニー周辺。ラオスとの国境が赤い線で引いてある。いくつかの点が書き込まれていた。


 「座ってください」


 二人で座った。


 スッティンが水を出した。柏木は飲んだ。


 「聞いてもいいか」


 「はい」


 「銃はあるか」


---


 スッティンは水のグラスを持ったまま、少し間を置いた。


 「なぜ」


 「必要だ。使わなくても構わない。だが持っていれば交渉になる。持っていなければ交渉にならない場面がある」


 「あなたは撃てますか」


 「自衛隊で十五年、小銃射撃の訓練をした。拳銃も扱った」


 「日本の自衛隊の拳銃は何ですか」


 「シグ・ザウエルP220。それから古いニューナンブM60。最近は部隊によってHK45も入っている」


 スッティンは頷いた。


 「撃てます、ということですね」


 「照門と照星が合えば撃てる。距離と弾数の問題だ。それ以外の問題は大抵、慣れで解決する」


 「使うかもしれません」


 「使う時は使う」


 「躊躇しませんか」


 「する必要がある時にする。必要のない時にはしない。それだけだ」


 スッティンはグラスを机に置いた。


 柏木を見た。静かな目だった。


 「あります」


---


 スッティンは机の引き出しを開けた。


 鍵のかかった金属ケースを取り出した。テーブルの上に置いた。


 「これがうちにある銃です」


 開けた。


 中に拳銃が一丁あった。


 柏木は手に取った。


 ベレッタM92FS。九ミリパラベラム弾。マガジン装弾数十五発。全長二百十七ミリ。重量九百五十グラム。


 古い銃だった。製造から何年経っているか分からない。だがフレームに傷はあっても、機関部はきれいだった。整備されている。


 柏木はスライドを引いた。薬室に弾はなかった。マガジンを外した。弾が入っていた。


 「どこから」


 「前のスタッフが持っていたものです」


 「死んだスタッフか」


 「はい」


 柏木はマガジンを戻した。スライドを閉めた。


 銃口を下に向けて、グリップの感触を確かめた。古い銃だが手に馴染んだ。大きすぎない。重すぎない。


 「この銃を知っています」


 スッティンが言った。


 「知っているというのは」


 「映画で見ました。アメリカの古い映画です。刑事が使う銃です。悪い奴らと戦う人間が使う銃です」


 柏木はスッティンを見た。


 「それがどうした」


 「あなたに持ってほしかった。最初から、この銃を持ってほしいと思っていました」


 「なぜ」


 スッティンは少し考えた。


 「あなたは正しいことをするために来た。それに合う銃がある。俺にはそう見える」


 柏木は返事をしなかった。


 そういう理屈は、柏木の頭には元々なかった。銃は道具だ。使えれば何でもいい。


 だがこの銃は、死んだ二十四歳のものだった。


 それだけは頭に残った。


---


 「弾はあと何発あるか」


 「マガジンが三本。それぞれフルです。四十五発」


 「補充は」


 「難しい。ルートがあるが、時間がかかる。使い切ることは考えないでください」


 「脅しに使って、実際には撃たない、が前提だな」


 「できれば。でも」


 「でも」


 「先月は使わなければならない状況になった」


 「スタッフが死んだ時か」


 「はい」


 「そのスタッフは銃を持っていたのに死んだ」


 「持っていたが、使う前にやられました。経験がなかった。迷いがあった」


 柏木は頷いた。


 「俺は迷わない」


 「分かりました」


 「ただし確認する。撃っていいのはどういう状況か。人間に向けて引き金を引く条件を決めておかないと、判断が乱れる」


 スッティンは少し背筋を伸ばした。柏木の質問が、組織を持つ人間への質問だと理解した顔だった。


 「移送中に、対象者の生命に直接の危険がある時。または私やスタッフの生命に直接の危険がある時」


 「警告射撃は含むか」


 「含めてください。まず警告。それでも止まらない時に」


 「了解した」


 柏木はベレッタを一度ケースに戻した。


 「ホルスターはあるか」


 「あります」


 「今日から携行する」


 「分かりました」


---


 その夜、スッティンが食事を出した。


 タイ東北部の料理だった。辛かった。柏木は無言で食べた。


 「辛いですか」


 「辛い」


 「大丈夫ですか」


 「大丈夫だ」


 スッティンは少し笑った。柏木が笑わないことには慣れているようだった。あるいは、最初から笑顔を期待していなかったのかもしれない。


 「一つ聞いていいか」


 柏木は箸を置いた。タイには箸がないのでスプーンだった。置いた。


 「なぜあんたがこれをやっている」


 スッティンは少し間を置いた。


 「長い話になります」


 「今夜は時間がある」


 スッティンは水を飲んだ。


 「私の妹の話をします」


 「聞く」


 スッティンは窓の外を一度見た。夜のウドンターニーが広がっていた。遠くでバイクの音がした。


 「十二年前、妹が消えました。十八歳でした。農村から、仕事があると言われて連れていかれた。私が日本に出稼ぎに行っている間のことです」


 「見つかったか」


 「三年後に見つかりました。別のNGOが救出した。私が日本から戻った後のことです」


 「今は」


 「生きています。結婚しています。子どもも二人います」


 「良かったな」


 「はい」


 スッティンは続けた。


 「でも三年間のことは、妹は一度も話しません。私も聞きません。それでいいと思っています」


 「それが理由か」


 「それが最初の理由です。今は違う理由もある」


 「何だ」


 「続けているうちに、終わらないことが分かった。一人救えば、また一人いる。止まれなくなりました」


 柏木はスプーンを持った。


 「俺と同じだな」


 スッティンが柏木を見た。


 「同じ、とはどういう意味ですか」


 「止まれなくなることがある。それが正しいことであれば、なおさら」


 スッティンは少し黙った。


 それから、今日初めて、本当に笑った。


 「コンティーチュア」


 「何だ」


 「信頼できる人間、という意味です。さっき教えました」


 「覚えている」


 「あなたに言っています」


 柏木はスプーンで飯を掬った。


 「飯が辛すぎる」


 「慣れます」


 「慣れる前に胃がやられる」


 「タイ人は全員大丈夫です」


 「俺はタイ人じゃない」


 スッティンはまた笑った。


 夜のウドンターニーで、遠くでまたバイクの音がした。


 ベレッタM92FSは、その夜から柏木のホルスターにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ