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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
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第3話 渡航

返信を打ったのは、翌朝だった。


 眠れなかった。眠れないまま夜が明けた。窓の外が白くなって、鳥の声が聞こえた。煙草を一本吸って、スマートフォンを取った。


 翻訳アプリを開いて、日本語で打ってから翻訳した。


 *「俺に何ができる」*


 それだけ送った。


---


 返信は三時間後に来た。


 タイ語だった。翻訳した。長かった。


 *「率直に話します」*


 *「私はウドンターニーでNGOを運営しています。正式名称はウドンターニー人道支援ネットワーク。活動対象は、タイ国内で人身売買・強制労働・性的搾取の被害を受けている人々です」*


 *「主な対象はタイ人です。農村部から騙されて連れてこられた若い女性や男性。次にラオス人が多い。ウドンターニーはメコン川を挟んでラオスと接しています。国境を越えて流入してくる被害者が後を絶ちません。ベトナム人もいます。ミャンマー人も。カンボジア人も」*


 *「共通点は一つです。全員、犯罪組織に捕まっている」*


 柏木は画面を見た。


 犯罪組織。ボドイとは違う。ボドイは制度から弾き出された若者が、生き延びるために組んだ集団だ。その一部が犯罪に流れる。構造的な悲劇ではあるが、組織としての深度が違う。


 タイの犯罪組織は何年も前から根を張っている。


 翻訳の続きを読んだ。


 *「私たちの仕事は、被害者を安全な場所に移すことです。シェルターへの移送。証言の記録。当局への連絡。支援団体との連携。それが主な活動です」*


 *「ただし、相手は黙っていない」*


 *「先月、スタッフの一人が亡くなりました」*


---


 柏木は画面から目を離した。


 灰皿の吸殻を見た。


 一人が亡くなった。


 翻訳を続きから読んだ。


 *「二十四歳のタイ人男性でした。私のスタッフの中で最も現場経験があった。移送の最中に、組織の人間に気づかれた。詳細は書きません。今は彼の家族への補償を考えています」*


 *「これが現実です」*


 *「あなたに来てほしいのは、危機管理のためです。現場の状況判断。移送時の安全確保。必要な時に動ける人間。私にはその能力がない。スタッフにもいない。だから一人が死んだ」*


 *「あなたには軍の経歴があるとナリンから聞きました。自衛隊の将校だったと」*


 *「命の保証ができません」*


 *「一人すでに死んでいます。次が出ないとは言えない。それでも来てくれますか」*


---


 柏木はスマートフォンを机に置いた。


 立ち上がって、窓を開けた。五センチではなく、全部開けた。


 冬の空気が部屋に入ってきた。


 二十四歳。最も現場経験があった。それが死んだ。


 柏木は深く息を吸った。


 怖いかどうか考えた。怖くないとは言えなかった。だが怖いというほどでもなかった。自衛隊にいた十五年間、命の保証がある仕事はなかった。訓練で左目を失った。保証のある場所で保証のない怪我をした。


 怖さの閾値が、普通の人間とずれている自覚はあった。


 問題はそこじゃない、と柏木は思った。


 問題は、一人死んでもスッティンが続けているということだ。補償を考えながら、次の人間を探している。それはどういう人間か。何がそうさせているのか。


 それがまだ分からなかった。


---


 翻訳アプリを開いた。


 *「三つ確認します」*


 *「一つ。相手の犯罪組織はどの程度の規模ですか。構成人数と、武装の有無を教えてください」*


 *「二つ。移送の頻度と、一回あたりの対象人数を教えてください」*


 *「三つ。命令系統を最初に決めてください。現場の最終判断は誰がしますか。俺は命令系統が曖昧な組織では動けません」*


 送信した。


 返信は十五分で来た。


 *「一つ。地域の犯罪組織です。タイ東北部に根を張っている。構成員は把握していませんが、現場に出てくるのは多くて五、六人。武装はナイフが主です。銃を持っているかどうかは確認できていません」*


 *「二つ。月に二、三回。一回で二人から五人を移送します」*


 *「三つ。全ての最終判断は私がします。現場の状況判断はあなたに任せます。それでいいですか」*


 柏木は返信した。


 *「行きます」*


 *「航空券の手配をお願いします。いつでも出られます」*


---


 送信してから、煙草に火をつけた。


 スマートフォンを持ったまま、ふと思った。


 グローバルキャリアがどうなっているか、気になった。


 以前の同僚の一人、後輩の田中がSNSをやっていた。確認したことはなかったが、アカウントを知っていた。


 開いた。


 直近の投稿があった。三日前。


 仕事の愚痴ではなかった。ただ「疲れた」とだけ書いてあった。


 コメントに山本の名前があった。「お疲れ」と書いてあった。山本はSNSをやっていたのか、と柏木は思った。


 スクロールした。


 一週間前の投稿があった。「電話が止まらない」。


 二週間前。「週末も出勤になった」。


 三週間前。「先輩が辞めてから世界が変わった」。


 柏木はその文字列を読んだ。


 先輩。


 自分のことだろう。田中にとって柏木は先輩になるのか。そういう認識があったのか。


 ザマァ見ろ、と思った。


 思ってから、少し驚いた。自分がそう思うとは思っていなかった。だが思った。三年間、正しいことをして、報告件数が多いと言われて、残業しないからサボっていると思われて、ボドイに工作されて切られた。その結果が積み上がった電話と週末出勤だ。


 ザマァ見ろ。


 その感情はほんの数秒で消えた。


 消えてから、柏木は田中が「疲れた」と書いた理由を少し考えた。田中は悪い人間じゃなかった。半年前まで事務補助だった二十六歳が、急に三百人分の現場を押しつけられた。そりゃ疲れる。


 田中が悪いんじゃない。構造が悪い。


 それは分かっていた。三年前から分かっていた。


 だがザマァ見ろ、という感情が一瞬出たことは、消しようがなかった。人間だから仕方がなかった。


 柏木はSNSを閉じた。


---


 スッティンから航空券の確認が来たのは夕方だった。


 成田からバンコクへ。バンコクからウドンターニーへ。


 片道だった。


 柏木はそれを見て、少し考えた。往復ではない。スッティンが意図したのか、自然にそうなったのか。


 どちらでもよかった。


 今の柏木に、日本で帰る場所は特にない。口座の残高が三万円ある。消費者金融の残債が三十八万円ある。家賃は来月分まで払ってある。


 荷物をまとめた。


 バッグ一つに収めた。自衛隊の時と同じだった。必要なものは少ない。余分なものを持つと、判断が鈍る。


---


 出発前日の夜、ナリンからメッセージが来た。


 *「明日ですよね」*


 *「気をつけてください」*


 *「タイは良い国です。でも柏木さんが行くところは良い場所じゃないかもしれない」*


 *「スッティンさんは信頼できる人です。私の父の知り合いの知り合いくらいの人ですけど、ウドンターニーでは知られてる人です」*


 *「柏木さん、上司に報告しました。会社が動いてくれることになりました」*


 柏木は返信した。


 *「あなたが報告したからです」*


 *「タイのこと、また教えてください」*


 少し間があって、返信が来た。


 *「絶対に連絡します」*


 *「バーミーブン」*


 最後の一言はタイ語だった。


 翻訳した。


 「徳のある人」。


 柏木はスマートフォンを置いた。


 煙草に火をつけた。


 窓を五センチ開けた。冬の夜風が入ってきた。冷たかった。


 徳のある人間かどうかは分からなかった。


 ただ、動ける場所に動きに行く。それだけだった。


 煙草が短くなった。


 灰皿に押しつけた。


 電気を消した。


---


 翌朝、柏木は成田に向かった。


 バッグ一つ。


 白いロングコート。黒のスーツ。紅色のベスト。シルバーのネクタイ。革手袋。サングラス。


 保安検査を通った。搭乗口に向かった。


 日本のことを考えた。


 グローバルキャリアのことを少し考えた。積み上がっているだろう書類のことを。山本と田中と佐藤のことを。


 それから、もう考えるのをやめた。


 もう関係のないことだった。


 搭乗が始まった。


 柏木は列に並んだ。


 隣の男が、サングラスをかけた柏木を見て、体を少し離した。


 いつものことだった。


 列が進んだ。


 タイへの扉が開いていた。


---

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