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The Man Who Would Not Die: 死んでたまるか!  作者: Operator3118
第1章 支援機関の外へ
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第2話 残された者たち

柏木が退職して、一か月が経った。


 株式会社グローバルキャリア、七階。

 午前九時十分。電話が鳴っている。二本同時に。そして三本目が鳴り始めた。


 山本課長は受話器を持ったまま、もう一方の電話を見た。保留にして取り直す。どちらが先だったか、もう分からない。朝からずっとそんな調子だった。仕事というより、火のついた皿を素手で回している感じに近い。


 「はい、グローバルキャリアです」


 「担当の方に確認したいことがありまして。先週お送りした書類の件なんですが」


 大手食品メーカーの人事担当だった。声の奥に静かな緊張がある。丁寧な声ほど、怒る直前は静かだ。


 「はい、どのような件でしょうか」


 「第四半期の支援実施報告書ですが、まだ届いていないんです。期限が昨日だったんですけれど」


 山本は手元の書類を探した。ファイルが積んである。三週間分の未処理が積んである。もはや山ではなく地層だった。掘れば何か出るが、たいてい欲しいものではない。


 「少々お待ちいただけますか」


 保留にして、隣のデスクを見る。佐藤が電話口で「はい」「はい」「はい」を繰り返していた。その「はい」が少しずつ短くなっている。追い詰められている人間の「はい」だ。意味より先に音だけが残る。


 山本はファイルを掘った。


 大手食品メーカー。柏木の担当企業だった。特定技能労働者が六十七名。一人あたりの管理費は月八千円。一社で月五十三万円の売上になる。それが十社あった。柏木が大企業を専門に担当していた理由だ。コンプライアンスが厳しいぶん面倒も多いが、数がまとまる。報告書の書式も厳密で、記録の粒度も細かかった。


 その書類が、今は積まれている。


 柏木がいた時は積まれなかった。


 午前十時、矢崎部長が会議室から出てきた。顔色が悪い。寝不足というより、現実に殴られ続けた顔だった。


 「山本、建設の佐藤商事から連絡あったか」


 「まだです」


 「昨日の昼に折り返してくれと言われてたんだが」


 「対応できていませんでした。申し訳ありません」


 矢崎は何か言いかけて、やめた。怒る気力も残っていないらしい。


 佐藤商事は中堅の建設会社で、特定技能の土木を二十三名抱えている。柏木の担当ではなかったが、柏木が抜けてから案件が溢れ、山本と佐藤で分担することになった。分担と言えば聞こえはいいが、実際には沈みかけた船の穴を手で押さえているだけだった。


 「あの案件はどうなってる?」


 「あの、というのは」


 「ファン・ヴァン・ナムだ。在留カード不携帯で警察沙汰になった件」


 山本は書類を探した。探しながら、自分でも嫌になる。探す時間がある時点で、もう遅い。


 「……まだです」


 「まだ、というのは具体的にどの段階だ?」


 「連絡待ちの状態で」


 矢崎は天井を見上げた。祈っているわけではない。ただ、下を向くと現実しかないからだ。


 在留カード不携帯は、外国人の常時携帯義務違反で二十万円以下の罰金になる。さらにその労働者が在留資格を疑われた場合、雇用企業にも報告義務が発生する。柏木なら即日処理していた。警察への説明、企業への連絡、記録の作成、入管への事前連絡。四時間で終わっていた。


 今は三日経っても、「まだ」のままだ。


 午前十一時、田中が受付のほうからおずおずとやって来た。田中は今月から担当に昇格した二十六歳で、半年前までは事務補助だった。柏木が抜けた穴を埋めるため、急ごしらえで前線に出された人間だ。戦場に地図も持たず放り込まれた新兵みたいな顔をしている。


 「すみません、ちょっといいですか」


 山本は手を止めた。


 「どうした」


 「グエン・ティ・フオンさんから電話があって、妊娠したかもしれないって言ってるんですけど」


 「それで」


 「どう対応すればいいか分からなくて」


 山本も分からなかった。


 特定技能労働者の妊娠。禁止はできない。就労継続については企業と相談が必要になる。産前産後の在留資格の扱い、健康保険の手続き、未婚なら父親の確認、子どもの国籍。基本的には帰国して出産する。育休を使うなら、その間の在留資格の扱いも整理しなければならない。日本で出産を望むなら、住居の確保も含めて企業側との調整が必要になる。


 柏木ならどうしていたか、と山本は思った。

 思ったが、答えは出なかった。


 柏木が何をしていたか、山本は正確には知らない。隣のデスクで三年間働いて、同じ空間にいて、それでも柏木が何をどう処理していたのか把握していなかった。柏木が記録を残さなかったわけではない。全部残していた。だが読んでも頭に入らなかった。自分の案件で精一杯だったし、正直に言えば、知ろうともしなかった。


 「とりあえず本人に病院で検査を受けるよう伝えてくれ。結果が出たら企業側に連絡する」


 「企業側には何と説明すれば」


 「報告義務がある案件なので、と」


 「報告義務って、具体的にはどの規定に基づいてますか」


 山本は答えられなかった。


 昼前、電話がまた鳴った。入管からだった。


 「先月の申請の件でご確認させていただきたいことがございます」


 担当官の声は穏やかだった。穏やかな声というのは便利だ。相手を責めずに責める時に向いている。


 「はい、何でしょうか」


 「二月に提出いただいた更新申請七件についてですが、添付書類の一部が基準を満たしていない部分がございまして。特に支援実施状況の記録欄の記載が、昨年度と比較してかなり簡略化されているようでして」


 「申し訳ありません」


 「以前のご担当の方は記録が非常に詳細でしたので。今回の書式ですと実施の確認が難しい部分がございます。修正したものを再提出いただけますでしょうか」


 「承知しました。いつまでに」


 「来週中にいただけると助かります」


 七件。来週中。


 山本は手帳を見た。来週の予定は、すでに今週の失敗で埋まっていた。


 午後一時。山本は昼飯を食っていなかった。


 自動販売機でコーヒーを買い、廊下に出る。三年間、柏木はここで煙草を吸っていた。廊下の端に灰皿が置いてあるが、今は誰も使っていない。誰も使わないのに撤去する暇もない。余裕がなくなると、会社は妙なものから先に残る。


 山本はコーヒーを飲みながら、電話の件数を数えた。午前中だけで十七件。そのうち自分が対応できたのが九件。残り八件は保留か折り返し予定になっている。


 一か月前、柏木は毎日何件の電話を受けていたのか。


 数えたことがなかった。数える必要がないと思っていた。柏木の電話は柏木が全部処理していたからだ。積み上がらなかった。残らなかった。毎日、何事もなかったみたいに片づいていた。


 今は毎日積み上がる。

 一か月でどれだけ積み上がったか、山本は正確な数字を出したくなかった。数字にすると、言い訳が死ぬ。


 午後二時、矢崎が山本を呼んだ。


 「三菱食品から連絡があった」


 「はい」


 「柏木の担当だった企業だ。先月の定期報告がまだ届いていないと言っている。それから先月分の面談記録も」


 「対応します」


 「いつまでにできる」


 山本は考えた。


 「今週中には」


 「先方は今日中に欲しいと言っている」


 山本は黙った。


 「無理か」


 「……人手が足りません」


 「分かった」


 矢崎は椅子に深く沈んだ。疲れた人間の座り方だった。背もたれに寄りかかっているのに、休めている感じがしない。


 「柏木の担当企業から今月だけで三社、問い合わせが来ている。対応が遅いと。一社は他の支援機関への切り替えを検討しているという話も出ている」


 「切り替えを」


 「そうなったら一社あたり月に何十万の契約が消える。それが三社なら」


 矢崎はそこで口を閉じた。数字にすると現実味が増す。現実味が増すと、人は急に黙る。


 「柏木が担当していた企業が十社。労働者が三百二十名。今それを山本と佐藤と田中で回している」


 「はい」


 「三人で三百二十名は」


 「正直、厳しいです」


 矢崎は山本を見た。


 「正直に言う。俺は柏木の仕事量を正確には把握していなかった。残業もしなかった。静かだった。だから手を抜いていると思っていた」


 山本は何も言わなかった。


 「違った」


 「……ええ」


 「お前は分かっていたか」


 「……なんとなくは」


 「なぜ言わなかった?」


 山本は答えなかった。


 答えられる言葉がなかった。言えば自分にも同じ水準が求められると思ったからか。柏木が黙ってこなしているなら、自分も同じようにすべきだという圧力を感じたからか。あるいは単純に、見ないようにしていたからか。


 たぶん全部だった。


 矢崎も追及しなかった。追及したところで、人手は増えない。


 午後三時、田中がまた来た。


 「すみません、レ・ヴァン・ドゥックさんから電話があって」


 「何だ」


 「ルームメイトと喧嘩したって言ってて。もう一緒に住めないから引っ越したいそうなんですけど」


 山本はこめかみを押さえた。


 ルームメイトのトラブルはよくある案件で、柏木がいた時も月に数件あった。柏木は何をしていたか。当事者双方の話を聞く。原因を特定する。仲裁が可能かどうか判断する。引っ越しが必要なら企業側の社宅担当と調整する。引っ越しが必要な場合、新しい住居の確保は企業側の義務だ。その調整窓口になるのが支援機関の役割だ。


 「企業の担当者に連絡して、住居の件を確認してくれ」


 「企業の担当者って、どなたでしたっけ?」


 田中は手元のファイルを見た。柏木が作った引き継ぎ資料のコピーだった。柏木は退職前日、一晩かけて引き継ぎ資料を作った。山本たちが頼んだわけではない。柏木が勝手に作って机の上に置いていった。


 だが、その資料すら使いこなせていなかった。


 午後四時半、佐藤が席を立った。トイレに行くと言って、二十分戻らなかった。誰も何も言わなかった。


 佐藤は三十二歳で、もともとルーティンの事務が得意な人間だった。決まった書式を決まった手順で処理する、それは速かった。だが想定外の問題が来ると判断が止まる。この一か月、想定外しか来なかった。泳げない人間に海の説明をしても、だいたい溺れるだけだ。


 午後五時を過ぎた頃、矢崎が珍しく山本の席まで来た。


 「今日、柏木に連絡してみた」


 山本は顔を上げた。


 「何と言ってましたか?」


 「……戻ってこないかと聞いた」


 「それで」


 「返事が来た」


 矢崎はスマートフォンの画面を山本に見せた。柏木からのメッセージは短かった。


 **申し訳ありませんが、戻るつもりはありません。引き継ぎ資料はお役に立てていますか?**


 山本はその画面を見た。


 引き継ぎ資料。柏木は退職前日の夜、誰にも言わずに作った。二百ページ近くある。担当企業ごとの労働者の情報。企業担当者の名前と直通番号。入管の担当官との関係性の覚書。よくある問題のパターンと対応の手順。柏木が三年間で積み上げたものが全部入っていた。


 「お役に立てていますか」という一文がどういう意味を持つか、山本には分かった。皮肉ではない。本当に聞いているのだ。資料が機能しているかどうか。役に立てているならそれでいい。立てていないならどこが問題か教えてくれれば補足する。そういう意味だ。


 それが余計に堪えた。


 山本は何も返せなかった。


 午後六時、定時が過ぎた。誰も帰らなかった。帰れなかった。


 電話の取りこぼしが今日だけで十一件。折り返し未処理が六件。入管への返答が来週まで。大手食品メーカーへの報告書が二件。ルームメイトトラブルの住居調整が一件。妊娠報告の企業連絡が未処理。在留カード不携帯の記録が未完成。


 山本は机の前に座って電卓を叩いた。今の人員で柏木の担当分を吸収するには、一人あたりの処理能力を三倍にする必要がある。


 三倍。


 数字にすると、笑うしかない。人間を急に三人分に増やせるなら、どこの会社も苦労しない。


 追加採用するしかない。だが採用して即戦力になるまで最低でも半年かかる。その半年の間に、大企業クライアントのうち何社かは他の支援機関に移る。収益が落ちる。採用のコストが出なくなる可能性がある。


 柏木一人を切ることで、会社が傾く。


 それを矢崎は分かっていたのか。山本も分かっていなかった。誰も分かっていなかった。分かっていたのは柏木だけだったのかもしれない。


 柏木は何も言わなかった。三年間、何も言わなかった。言っても変わらないと思っていたのか。あるいは、言う必要がないと思っていたのか。


 分からなかった。


 もう聞けなかった。


 その夜、矢崎部長は自席で頭痛薬を飲んだ。佐藤は胃薬を飲んだ。田中は歯医者の予約を入れながら、今月四件目だと気づいた。ストレス性の歯ぎしりで奥歯が欠けかけている。


 山本は何も飲まなかった。飲む気力もなかった。


 電話が鳴った。


 三人が同時に受話器を見た。誰も取らなかった。四回目のコールで、山本が手を伸ばした。


 「はい、グローバルキャリアです」


 「あの、担当の方に転職の相談をしたいんですけど」


 柏木の担当だったベトナム人労働者からだった。


 山本はメモを取りながら、窓の外を見た。


 夜の東京が広がっている。光だけは多い。助けになるものは、たいていその中に混ざって見えなくなる。


 柏木はどこにいるのか。


 山本は知らなかった。

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