傲慢の正体と、土下座の涙
ガルニア峡谷を吹き抜ける風が、立ち込めていた硝煙と土煙をゆっくりと押し流していく。
縛り上げられた傭兵たちが数珠つなぎに連行されていく中、エレオノーラは崖上から軽やかな足取りで降りてきた。
その背後には、彼女が軍監権を行使して密かに動員していた軍務局直属の憲兵隊が、抜き身の槍を揃えて控えている。
「ご苦労様でした、ヴァルター殿」
エレオノーラは優雅に歩み寄り、大剣の血を拭うヴァルターの前に立った。
その手には、先ほどまで昏倒していた傭兵隊長から押収したばかりの『密約書』が握られている。
「右腕の具合はいかがかしら? 無理に力を込めたりはなさいませんでした?」
「……問題ない。あんたの引いた射線のおかげで、無駄な太刀筋を一つも振らずに済んだ」
ぶっきらぼうに大剣を背の鞘へ収めたヴァルターだったが、その耳朶は微かに熱を持っていた。
戦場において、背後や頭上をこれほどまでに完全に任せ、ただ己の刃の威力だけに集中できたのは、騎士人生で初めての経験だった。
その時、後方から整然とした蹄の音とともに、豪奢な私兵部隊を従えた馬車が乗り込んできた。
先頭に立ち、焦燥を完璧な「忠臣の憂慮」という仮面で塗り固めて降りてきたのは、上質な毛皮のマントを羽織った初老の男――先の王宮査問会でヴァルターを執拗に糾弾していた、守旧派の重鎮・ベルンハルト伯爵だった。
男は周囲に転がる傭兵たちの残骸に一瞬だけ微かに眉を動かしたが、すぐに芝居がかった痛ましげな表情を作り、泥まみれのカイル王太子へと駆け寄った。
「おお、カイル殿下! ご無事でしたか! 不穏な賊が峡谷に出没したとの凶報を受け、我が領地軍を率いて一刻も早くお救いせねばと駆けつけた次第……! なんと痛ましい、怪我はございませぬか!?」
完璧な救出劇の体裁。
傭兵たちに王太子部隊を壊滅させた後、駆けつけた救国の英雄として振る舞い、後詰めの実権を完全に握る算段だったのだろう。己の謀反など微塵も匂わせず、忠義の臣を演じきる老獪な立ち回りだった。
だが、駆け寄ろうとした伯爵の行く手を、涼やかな足音が遮った。
「ずいぶんと素早いご到着ですこと、ベルンハルト伯爵」
エレオノーラがすっと歩み出て、伯爵の目の前で手元の密約書をひらりと掲げて見せた。
「救援の初動が迅速なのは軍務局としても賞賛に値しますが……この峡谷の守備軍から警備兵を引き抜いた名義人が、なぜ『賊の襲撃』を事前に把握できたのかしら? まるで、何時何分にここが戦場になるかをご存知だったかのようですわね」
伯爵の眉がピクリと跳ね、貼り付けたような笑みに僅かな亀裂が入る。
「な、何を言っているのかね、主席軍師殿。わしは殿下の身を案じて駆けつけたのだ。そのような言いがかりは――」
「言いがかり、ですって?」
エレオノーラはふふっと冷ややかに微笑み、羊皮紙を指先で弾いた。
「この傭兵隊長が懐に隠し持っていた、裏金三万ゴールドの出納記録。並びに、あなたの私設印がしっかりと捺された『王太子部隊の足止め、および現場指揮権の強奪』を命じる密約書……すべて現物で押収いたしましたわ。これ以上、見苦しい忠臣ごっこを続けられますの?」
「ば……っ!?」
完璧に隠滅させたはずの証拠を眼前へ突きつけられ、伯爵の顔から血の気が完全に引いた。
逃げ場を塞がれた老貴族は、脂汗を浮かべながら取り巻きの私兵へと視線を泳がせる。
「国家反逆罪、並びに軍法第百二条違反。現行犯にて直ちに身柄を拘束いたします」
エレオノーラが氷のような声で宣告すると同時に、軍務局直属の憲兵隊が一斉に槍を突き出した。
伯爵の私兵たちも、すでに状況を完全に把握した憲兵と、その背後に立つ漆黒の大剣の騎士の威容を前に、誰一人として武器を抜くことはできなかった。
「連れて行きなさい。軍法会議の証言台で、たっぷりと吐き出していただきますわ」
エレオノーラの冷徹な一言で、膝から崩れ落ちた伯爵は両脇を抱えられ、引きずられるように連行されていった。
これで、ヴァルターを陥れようとしていた旧態依然とした腐敗勢力は、根こそぎ盤上から排除されるだろう。
息を呑んでその光景を見守っていたのは、泥だらけのまま立ち尽くす貴族騎士たちだった。
「お、俺たちは……」
白銀の鎧を泥で汚した若手貴族が、震える声で呟く。
「平民上がりの傲慢野郎だと、ずっと笑っていた……。手柄を独占して威張っているだけだと……」
「手柄を独占、ですって?」
エレオノーラがすっと冷淡な眼差しを貴族たちに向けた。
「ヴァルター殿が前線で敵を引き受けていたのは、あなた方のような未熟な兵士を無駄死にさせないため。彼が『傲慢』を演じて理不尽な命令を下していたのは、貴族特権にかまけて訓練を怠るあなた方の命を、力ずくで守るためでした。――それを『小細工』と嘲笑い、いざ本物の戦場に放り出されればこの様。恥を知りなさいな」
研ぎ澄まされた刃のような言葉が、貴族騎士たちの胸を容赦なく抉る。
誰一人として言い返せる者はいなかった。彼らはただ顔を真っ赤にし、己の無力と浅はかさに打ちひしがれてうつむくしかなかった。
その姿に、何か弁明をと口を開きかけたヴァルターを、エレオノーラが目だけで制する。今この時に、彼の優しさを与えるにはもったいない。
静まり返った峡谷に、カツン、と小さな靴音が響いた。
泥まみれのまま、ふらつく足取りで歩み出てきたのは、カイル王太子だった。
その隣には、聖女の純白の法衣を泥土で汚したリリアンが、涙を流しながら寄り添っている。
「……殿下」
ヴァルターは小さく眉をひそめ、姿勢を正そうとした。
主君に対する礼を取ろうとしたその大男の目の前で――カイルが、両膝を泥の中に落とした。
バシャリ、と冷たい泥水が跳ねる。
「で、殿下……!?」
ヴァルターが驚愕に目を見張る。
一国の王太子が、平民出身の一騎士の前に、両手を地面について頭を深く垂れていた。
リリアンもまた、その隣に膝をつき、祈るように両手を握りしめて頭を下げる。
「……すまなかった、ヴァルター」
カイルの声は、泥に濡れ、震えていた。
「僕は……君がどれほどの地獄を一人で歩んできたのか、何一つ知ろうとしなかった。君の忠義に、その優しさに甘えて、その背中に全部の泥を押し付けていただけだった……!」
大粒の涙が、カイルの頬を伝って泥土へと落ちていく。
「僕たちが無傷でいられたのは、君が傷だらけになって守ってくれていたからだ。それなのに……僕は君の痛みに気づくことすらできず、当たり前のように過酷な任務を丸投げして……っ」
「ヴァルターさん……ごめんなさい、本当にごめんなさい……!」
リリアンも声を詰まらせて嗚咽を漏らした。
自分たちが無自覚に振りかざしていた「信頼」という名の刃が、どれほど残酷にこの大柄な騎士を削り取っていたのか。
命のやり取りという現実を突きつけられて初めて、二人は自分たちの罪の重さを、骨の髄まで理解したのだ。
見下ろすヴァルターは、困惑したように立ち尽くしていた。
怒りも、恨み言も、彼の胸には初めからなかった。
ただ、目の前で本気で己の未熟を恥じ、涙を流すかつての弟分と少女の姿に、琥珀色の瞳を柔らかく細める。
ヴァルターは静かに歩み寄ると、泥土の上に片膝をつき、カイルの視線の高さまで腰を落とした。
そして、鉄の籠手を外した逞しい手で、王太子の肩をぽんと叩いた。
「……頭をお上げください、殿下」
「ヴァルター……」
「己の足元が見えたのなら、それでいい。人は最初から立派に歩けるわけじゃない。転んだ傷の分だけ、強くなればいいんです」
ぶっきらぼうだが、どこまでも深く、温かい大人の包容力がその声に宿っていた。
「国の頂に立つ者が、軽々しく泥に膝をつくものではありません。……立ち上がりなさい、カイル。あんたにはこれから、この国の民と騎士たちを導く本当の王になる務めがある」
カイルは目を見張り、それから溢れ出す涙を袖で拭いながら、力強く頷いた。
「……うん。約束する。二度と、君の優しさに甘えたりしない。僕自身の足で、立派な主君になってみせる……!」
そのやり取りを、少し離れた場所から腕を組んで見守っていたエレオノーラは、ふっと満足そうに口元を緩めた。
厳しく突き放し、現実を叩きつけはしたが、彼女とて王太子を破滅させたかったわけではない。ヴァルターが命を懸けて守ってきた国と人間が、まともに育ち直すきっかけを作ったにすぎないのだ。
「……さて」
エレオノーラはモノクルを外して胸元に収めると、峡谷の向こう、国境検問所へと続く道を見据えた。
「泣き言はそこまでですわ、殿下。峡谷の安全は確保されました。予定時刻まであと半刻、泥を落として身なりを整え、堂々と隣国の視察団を出迎えに向かいなさいな。これ以上、ヴァルター殿をお貸しすることはできません」
「え……? あ、ああ……! そうだ、使節団が待っているんだった!」
慌てて立ち上がるカイルとリリアン。泥だらけの顔を見合わせ、苦笑しながらも、その瞳にはこれまでになかった確かな覚悟の光が宿っていた。
王太子たちが身支度のため後方へと駆けていくのを見送った後、ヴァルターは立ち上がり、静かに息を吐いた。
峡谷には爽やかな朝の光が満ち、長年背負い続けてきた重苦しい呪縛が、綺麗に解け落ちていくような静けさがあった。
「……終わったな」
ヴァルターは自らの両手を見つめ、それからエレオノーラを振り返った。
その表情は、憑き物が落ちたように穏やかで、どこか寂しげだった。
「汚名も晴れた。殿下たちも前を向いた。……俺がこれ以上、あんたの元に囲われている理由もなくなったな」
不器用な男が、再び一人で身を引こうと背を向けかけた、その時だった。
エレオノーラの眉が、ピクリと跳ね上がった。
「……はい? 今、何とおっしゃいましたの?」
低く、温度のない声が背後から降ってきた。
ヴァルターがぎょっとして振り返ると、そこには先ほどまでの知的な軍師の面影など微塵もなく、目を据わらせて不敵な笑みを浮かべる令嬢が立っていた。




