逃げ場なき軍師の包囲網
「……はい? 今、何とおっしゃいましたの?」
ガルニア峡谷を吹き抜ける風が、ピタリと止まったかのようだった。
連行されていく伯爵を見送り、王太子たちが身支度のため後方へと走り去った直後のことだ。
「もうあんたの元に囲われている理由もない」と呟いて背を向けかけたヴァルターの背筋に、氷柱を突き立てられたような悪寒が走る。
恐る恐る振り返ったヴァルターの視界に飛び込んできたのは――完璧な弧を描いて微笑む、エレオノーラの美しい顔だった。
声音はどこまでも甘やかで、穏やか。
しかし、その紫紺の瞳の奥には、光を一切反射しない底知れぬ闇が静かに渦巻いている。
「れ、令嬢……?」
「理由がない、とおっしゃいましたわね? 濡れ衣を晴らし、殿下たちを自立させ、これにて一件落着……だから兵舎の片隅へ戻り、再び一振りの剣として泥に塗れるおつもりでしたの?」
エレオノーラは優雅に裾を払いながら、一歩、また一歩と歩み寄ってきた。
六尺を超える歴戦の騎士が、小柄な令嬢の静かな前進に圧され、思わず足を一歩引く。
「……身分もない平民の男が、いつまでも名門の令嬢の私邸に居座るのは筋が通らんだろう。あんたの評判にも関わる。俺は本来の職務に戻るだけだ」
「あら。本来の職務、ですって?」
エレオノーラはヴァルターの目の前まで歩み寄ると、小首を傾げてふわりと笑った。
至近距離で見上げられるその笑顔に、ヴァルターの喉がごくりと鳴る。
「戻ればまた、図々しい貴族たちから無理難題を押し付けられ、人の好いあなたは『俺が引き受ければ丸く収まる』と、夜を徹して一人で背負い込むのでしょうね。そしてボロボロになるまで戦場で血を流し、誰にも看取られずに使い潰されるおつもりですの?」
「そ、それは……」
「図星のようですわね」
エレオノーラはため息をつく素振りも見せず、懐から一枚の真新しい羊皮紙を取り出した。
朱色の封蝋には、王室最高軍務局と、先ほど急ごしらえで署名させたばかりの王太子の花押が鮮明に刻まれている。
「職務にお戻りになること自体は、一向に構いませんわ。むしろ歓迎いたします。――ええ、私の『専属守護騎士兼・軍務局筆頭補佐官』として、ですけれど」
「……は?」
呆気に取られるヴァルターの眼前に、彼女は容赦なくその書状を突きつけた。
「先ほど、涙ながらに反省していたカイル殿下へ『ヴァルター殿の恒久的な身柄移管同意書』にサインをいただいておきましたの。殿下は『ヴァルターが一番幸せになれる場所にいてほしい』と、二つ返事で快諾してくださいましたわ」
「な……っ!? あいつ、何を勝手に……!」
「私の手回しに抜かりがあるとでもお思いでして? 近衛の兵舎にあった私物も、今朝の段階で別邸の私の執務室へすべて運び込ませてあります」
「全部って……砥石や私服までか!?」
「ええ、パンツの一枚に至るまで残らず」
「令嬢ッ!?」
平然と言ってのける彼女に、百戦錬磨の筆頭騎士が耳まで真っ赤にして絶句した。
外堀を埋めるどころの騒ぎではない。本丸ごと根こそぎ軍師の手中に収められていたのだ。
ヴァルターは額を押さえ、深々と息を吐き出した。
「……おい、頼むから正気に戻ってくれ。あんたのような才色兼備の令嬢が、俺のような傷だらけの筋肉ダルマを私物化してどうする。世間が黙っちゃいないぞ」
「世間がどう喚こうと、私の盤面には一ミリも影響いたしませんわ」
エレオノーラはすっと笑みを深め、背伸びをすると、ヴァルターの漆黒の胸当てに両手をそっと添えた。
冷たい鉄を通しても伝わってくる、確かな彼女の体温。
紫紺の瞳が、至近距離から真っ直ぐに大男を捕らえて離さない。
「八年間、あなたという唯一無二の英雄を、誰の手にも届かない場所で守り抜くためだけに、私は泥を啜る思いで首席軍師の座をもぎ取ってまいりましたのよ? ……ようやく手に入れた私の至宝を、今さら逃がして差し上げる気など毛頭ありませんわ」
その声は甘美で、どこまでも重く、狂おしいほどの独占欲に満ちていた。
脅迫でも哀願でもない。
ただ逃げ場のない真実として、彼女は自らの巨大な情愛を突きつけているのだ。
「……無茶苦茶だ」
ヴァルターの口から漏れたのは、呆れ果てた、けれど酷く柔らかな声音だった。
誰からも「盾」としてしか見られず、使い捨てられることこそが己の価値だと信じ込んできた。
そんな自分を、世界で一番価値のあるものとして抱え込み、決して手放そうとしない少女。
胸の奥に燻っていた冷たい孤独が、彼女の熱情に跡形もなく溶かされていく。
ヴァルターは困ったように眉尻を下げると、大きな手をそっと伸ばし、胸元に置かれた彼女の小さな手に重ねた。
「……あんたの敷いた盤面から逃げ出すのは、魔獣の群れを素手で叩き伏せるより難しそうだ」
「あら、ようやくご理解いただけました? 賢明な判断ですわ」
「ああ、完敗だ。……好きにしな。俺の剣も、命も、これからは全部あんたの好きに使え」
観念したように微笑む大男の返答に、エレオノーラは満足そうに目を細めた。
そして、彼の手をぎゅっと握り返すと、花がほころぶような、年相応の極上の笑みを咲かせた。
「ええ、存分にこき使って差し上げますわ。――生涯をかけて、たっぷりと甘やかしながら」
青く澄み渡る峡谷の空の下。
知略で世界を動かす軍師令嬢と、彼女の手の中で生きることを選んだ最強の騎士の、甘く苛烈な新たな主従関係が、ここに完成したのだった。




