盤上の剣客
国境検問所へ向かい、隣国視察団を出迎えるはずだった華々しい先導部隊は、一瞬にして地獄の落とし穴へと叩き落とされていた。
切り立った岩肌が両脇にそびえ立つガルニア峡谷の底は、濃密な血と鉄の臭いに満ちている。
「ひ、ひぎぃっ……! た、助けてくれぇっ!」
けたたましい悲鳴とともに、泥水の中を這いずり回っていたのは、白銀の甲冑を無残に叩き割られた名門貴族の若手騎士だった。
数日前まで王宮で美酒をあおり、実戦など赤子の手をひねるようなものだと豪語していたその顔は、今や恐怖と泥に塗れ、見る影もない。
頭上左右の崖上からは、容赦なく黒羽の矢が雨あられと降り注ぐ。
峡谷の出口を塞ぐように立ちはだかるのは、漆黒の毛皮と粗野な戦斧を掲げた非公式の傭兵団――その数、優に三百。査問会で失脚しかけた守旧派貴族が、裏金で雇い入れた凶徒たちだった。
「索敵もせずにこんな袋小路に突っ込んでくるなんざ、王都の坊ちゃん騎士共はよほど首を差し出したいらしいなぁ! 国境で待ってる隣国の使節団に、お前らの首級を届けてやるよ!」
巨躯の傭兵隊長が下卑た笑い声を上げ、折れた白銀の剣を踏みにじる。
その足元で、取り巻きの貴族騎士たちは腰を抜かし、武器を取り落として震えていた。
「な、なぜだ……! こんなところに伏兵など……!」
「嘘だろ、敵の手筋が読めない! 」
取り乱す部下たちの中心で、カイル王太子は蒼白な顔で立ち尽くしていた。
いつもならこんな死線に放り込まれる前に、誰かが退路を確保してくれていたはずなのに、今はどこにも行き場がない。
手にした細剣の切っ先は小刻みに震え、聖女リリアンは泥に膝をついて必死に治癒魔法を唱えているが、吹き出す傷の多さに追いつかず、涙をボロボロとこぼしている。
「カイル様、もう魔力が……! 嘘です、こんなの……いつもなら、…ヴァルターさんが、いれば!あぁ!」
突きつけられたのは、残酷なまでの現実だった。
「誰でも勝てる程度の相手」などではなかった。敵の奇襲ルートを事前に潰し、兵站を寸分狂わず通し、矢の嵐の中に一人で突っ込んで敵の指揮官を討ち取っていたからこそ、彼らは今まで無傷で「栄光」を誇れていただけだったのだ。
「俺たちが……殺される……っ!」
傭兵隊長の巨大な戦斧が、絶望に竦む貴族騎士の脳天めがけて振り下ろされた――その瞬間。
頭上の崖の上から、風を切り裂くような鋭利な破裂音が轟いた。
紫紺の閃光が、峡谷の薄暗闇を一閃する。
放たれた魔導光弾は寸分の狂いもなく戦斧の刃を弾き飛ばし、傭兵隊長の巨体を仰向けに吹き飛ばした。
「な、なんだぁっ!?」
混乱し見上げる傭兵たちと、涙目で天を仰ぐ貴族騎士たちの視線の先。
峡谷を見下ろす断崖の頂に、一人の令嬢が凛として立っていた。
深紫の防刃外套を風に棚引かせ、手には淡く輝く青い羽ペン。
左目元に嵌められた銀縁のモノクルが、冷徹な紫紺の瞳とともに戦場全体を俯瞰している。
「――陣形は『鶴翼』を模した稚拙な包囲網。風上からの火攻めで退路を断つつもりだったのでしょうけれど……この朝方の時間帯、峡谷の底には『吹き下ろしの逆風』が抜けますわ。自分たちの煙で目を潰されるのがオチですわね。戦術院の初等教育からやり直してはいかがかしら?」
凛と澄み渡る美声が、峡谷の岩壁に反響して響き渡る。
「エ、エレオノーラ卿……!?」
カイルが喘ぐような声を上げた。
だが、驚愕に凍りつく戦場を、さらに巨大な影が揺らした。
崖の上、エレオノーラの斜め後方から、一人の男が歩み出る。
朝日を背に受けて浮かび上がったのは、見紛うはずもない漆黒の甲冑と、背に背負われた身の丈ほどもある巨大な大剣。
「……筆頭、騎士……?」
「ば、馬鹿な……査問会で失脚したはずの、あの傲慢騎士がなぜ……!?」
貴族たちの掠れた声が重なる。
ヴァルターは崖下を一瞥した。泣き叫ぶ部下たち、腰を抜かした将校、そして泥にまみれた王太子と聖女。
その琥珀色の瞳には、侮蔑も嘲笑もなかった。ただ、自らの部下を傷つけられたことに対する、深淵のような静かな怒りだけが燃え盛っていた。
「……風下、第三段の岩陰に敵の狙撃兵が四名。峡谷出口の補給路はすでに我が局の別動隊が押さえました」
エレオノーラが視線も動かさずに、淡々と数字と座標を口にする。
ヴァルターはその横顔に、口端をわずかに吊り上げて見せた。
「了解だ、主席軍師様。――俺の歩く道は、すべて見えているな?」
「愚問ですわ。あなたが迷う余地など、私の盤上に一寸たりとも残しておりません」
エレオノーラが羽ペンを一振りすると、谷底の泥土に青い光の軌跡が走った。
敵の死角、矢の届かぬ安全地帯、そして敵陣の中枢へと最短で至る『絶対の進撃路』。
「行ってらっしゃいませ、私の英雄」
「ああ――暴れてくる」
地響きのような低音を残し、ヴァルターの巨躯が断崖から跳躍した。
落下速度を乗せ、落雷のような勢いで谷底の泥土へと着地する。
轟音とともに土煙が爆発し、大地が激しく揺れた。
「ぎゃあっ!?」
衝撃波だけで最前線の傭兵数名が吹き飛ぶ。
煙の奥から姿を現したのは、右腕をエレオノーラの手によって完全に治療され、数年分の疲労を洗い落とした、万全の『王国最強の剣』だった。
シュル、と漆黒の大剣が鞘を滑り出る重厚な金属音が、戦場の空気を凍りつかせる。
「て、てめぇ……たった一人で飛び込んできやがって! 殺せぇっ! ミンチにしろ!」
我に返った傭兵隊長の怒号とともに、数十人の屈強な男たちが槍と剣を構えて殺到した。
だが、ヴァルターは微動だにしなかった。
頭上から降る矢は、エレオノーラが展開した崖上の風結界によって軌道を狂わされ、彼の足元に一本も届かない。背後の死角は、彼女の指示を受けた伏兵が完全に抑えている。
己の背中を、命を、一ミリの疑いもなく預けられる知略の手のひらの上で――ヴァルターは大剣を一閃させた。
轟ッ、と暴風が巻き起こる。
「……が、ぁ……っ!?」
横一文字に薙ぎ払われた巨大な刀身は、押し寄せた傭兵たちの鋼の盾を、鎧ごと紙屑のように叩き割った。
骨を砕き、肉を断つ重低音が重なり、一撃で十数人の大男が宙を舞って岩壁に叩きつけられる。
速い。そして、重い。
それは貴族たちが「野蛮な平民の剣」と蔑んでいたものとは、次元の違う暴力の極致だった。
「ひ、化け物……!」
「あんな太刀筋、人間に出せるわけが……っ!」
腰を抜かした貴族騎士たちが、歯の根をガタガタと鳴らしながら見上げる。
いつもなら、この圧倒的な暴力の前に立ちはだかり、彼らが無傷でいられるように一人で矢を受け、血を流し、安全になった敵だけを譲ってくれていたのだ。
その傲慢に見えた背中が、どれほどの絶壁となって自分たちを庇い続けていたのかを、彼らは今、己の無力と恥辱とともに骨の髄まで思い知らされていた。
「――おい」
返り血を一滴も浴びることなく、大剣の切っ先を地面に突き立てたヴァルターが、低く唸るような声を落とした。
琥珀色の瞳が、最後に残った傭兵隊長を冷徹に射抜く。
「俺の部下たちを、随分と派手に散らかしてくれたな」
「ひ、ひぃぃっ……! た、助け――」
戦意を完全に喪失した隊長が尻餅をつき、逃げ出そうとした背中へ、崖上からエレオノーラの澄んだ声が降ってきた。
「身柄を拘束なさい、ヴァルター殿。その男には、この襲撃を手引きした守旧派貴族の全容を、軍法会議の証言台で話していただかねばなりませんから」
大剣の平が、逃げる男の側頭部を正確無比に捉え、一撃で昏倒させた。
静寂が戻った峡谷に、残された傭兵たちの投降を乞う声と、貴族騎士たちのすすり泣きだけが響く。
退路も確保され、敵の伏兵は一人残らず無力化された。峡谷の向こう、国境検問所で待つ隣国の視察団との合流時刻には、まだ十分な余裕が残されていた。
ヴァルターは大剣を静かに背の鞘へと戻すと、泥だらけのまま震えるカイルとリリアンの前へと歩み寄った。
その威容に、王太子と聖女は思わず息を呑み、小さく身を縮める。
「……殿下、リリアン様。お怪我は」
いつもと変わらぬ、ぶっきらぼうで、けれど確かな気遣いを帯びた低い声。
その言葉を聞いた瞬間、カイルの瞳から大粒の涙がぼろぼろと溢れ出し、リリアンはその場に泣き崩れた。
ふと見上げれば、断崖の頂で、エレオノーラが満足そうに羽ペンを胸元に収めている。
視線が交錯した瞬間、彼女は軍師としての冷徹な顔をふわりと崩し、いたずらが成功した少女のように、誇らしげに微笑んでみせた。
その眩しさに、ヴァルターはわずかに目を細め、誰にも見えないように小さく息を吐いた。
――完敗だ。
この稀代の軍師令嬢の手のひらから、自分はもう二度と逃げ出せないのだと、心地よい諦めとともに悟りながら。




