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出撃前夜の革紐

王宮の近衛騎士団詰所には、場違いな哄笑が響き渡っていた。


磨き上げられた白銀の胸当てを身に纏い、豪奢な羽飾りを揺らす若手貴族の騎士たちが、ワイングラスを手に談笑している。その中心に広げられているのは、国境検問所へ至る『ガルニア峡谷』の警備計画書だった。


「――聞いたか? あの傲慢騎士め、軍師令嬢の屋敷に引きこもって、未だに出てこられないらしいぞ」


名門伯爵家の次男である若手将校が、嘲りを隠そうともせずにグラスを揺らした。


「平民上がりが筆頭面して威張っていたのも、これでおしまいだな。殿下に泣きついて現場の雑用を引き受け、前線の手柄を独占してきただけの男だ。あいつがいなくなって、ようやく騎士団本来の清廉さが戻ったというものよ」


「まったくです。隣国オルデン帝国からの親善視察団を迎えるというこの大舞台、あのような薄汚い平民を先導に立てるわけにはまいりませんからな。我ら名門の精鋭が堂々と出迎え、華々しい功績を立ててご覧に入れましょう」


別の貴族騎士も下卑た笑みを浮かべて同調する。

彼らは本気でそう信じていた。過酷な夜間警戒も、泥に塗れた馬車の牽引も、猛吹雪の中での魔獣の足止めも、すべてヴァルターが「勝手にやっていた小細工」であり、自分たちが安全な後方から優雅に突入して手柄を分け合えたのは、己の血統と実力によるものだと。


そこへ、疲弊しきった足取りでカイル王太子が入ってきた。手には、決裁の追いつかない書類の束が握られている。


「あ、殿下! いよいよ明朝に迫った隣国視察団の出迎えと先導警護、我ら貴族騎士団にお任せを!」


「……え? あ、ああ……だが、視察団が待つ国境検問所へ抜けるには、あの険しいガルニア峡谷を通らねばならない。いつもならヴァルターが数日前から入念な索敵を行い、風向きや補給の迂回路まで手配してくれていたはずだが……」


カイルは不安そうに眉をひそめた。

だが、貴族騎士たちは鼻で笑い、胸を叩いてみせた。


「ご安心ください! あのような隘路、正面から堂々と進軍して踏み潰せば済む話です。ヴァルターのような臆病な平民は、小手先の索敵や兵站調整で己の無能を誤魔化していただけにすぎません。峡谷を抜けた先で優雅に視察団を出迎える役目は、我ら高潔なる貴族にこそ相応しい。殿下も聖女様も万全に御守りいたします、ご安心を!」


「そ、そうか……? 君たちがそこまで言うのなら……」


押し切られるように頷いたカイルの胸に、拭いきれない冷たい澱が沈んでいく。

かつてヴァルターが背負っていたものの重さを、誰も理解しようとしないまま、事態は音もなく破滅へと転がり始めていた。




同じ頃、静寂に包まれた軍師別邸の地下兵装庫。


壁の松明が橙色の炎を揺らし、石壁に二人の影を長く落としていた。

卓の上には、解体された黒鉄の甲冑が整然と並べられている。


「……令嬢。もう一度言うが、あんたが前線に同行する必要はまったくない」


ヴァルターは低く太い声を落とし、卓の上の籠手を手に取った。

室内着を脱ぎ捨て、漆黒のアンダーアーマーを纏ったその肢体は、歴戦の傷跡が刻まれた分厚い筋肉の塊だ。数日間の良質な休息と栄養によって肌艶は戻り、琥珀色の瞳は野獣のような鋭利な光を取り戻していた。


「ガルニア峡谷は足場が悪い。傭兵団との乱戦になれば、矢も魔法もどこから飛んでくるか分からん。あんたのような文官の令嬢が来る場所じゃない」


「あら、随分と侮られたものですわね」


背後から歩み寄ってきたエレオノーラは、軍礼服の上から動きやすい深紫の防刃外套を羽織っていた。左目元のモノクルを指先で直しながら、眉をきゅっと吊り上げる。


「誰の立てた作戦の上で、あなたが剣を振るうとお思いですの? 私の策は、現場の空気、風向き、魔力の揺らぎをこの目で観測して初めて完全なものとなります。それに――」


エレオノーラはすっと歩みを進めると、ヴァルターの正面に回り込んだ。

大男の胸元に両手を伸ばし、彼が一人で留めようとしていた胸当ての革紐を、その華奢な指先で無造作に奪い取る。


「な……おい、令嬢」


「動かないでくださる? 革紐が捩れていますわ。こんな基本的な着付けの乱れ、命取りになります」


至近距離に迫った彼女の吐息が、露出したヴァルターの首筋をかすめた。

さらりと零れ落ちた夜空色の髪から、甘いラベンダーの香りが立ち上る。


ヴァルターは思わず息を呑み、身体を硬直させた。

六尺を超える屈強な騎士が、胸の前で器用に指を動かす小柄な令嬢を前にして、視線のやり場に困り果てている。


「……自分でできる」


「嘘をおつきなさい。右腕の骨の軋みは治まりましたが、まだ無理な角度に引けば痛むはずです。……ほら、力を抜きなさいな。身体が強張りすぎて、鎧が嵌まりませんわ」


エレオノーラはふふっと小さく笑うと、ぎゅっと力を込めて革紐を引き絞り、留め金をパチンと鳴らした。

その手付きは驚くほど手慣れており、そして痛む腕を決して刺激しないよう、細心の配慮に満ちていた。


「……あんた、令嬢のくせに、なぜ甲冑の扱いまで手慣れている」


「戦略戦術院の必修科目ですもの。兵士がどんな重みを背負って戦っているのかも知らずに、机上で駒を動かすだけの無能な軍師にはなりたくありませんでしたから」


事も無げに言ってのける彼女を見下ろし、ヴァルターは喉の奥を詰まらせた。

名門伯爵家の令嬢が、泥臭い兵装の知識まで血反吐を吐く思いで叩き込んできたのだ。すべては、前線で孤独に戦う自分を守るためだけに。


「……馬鹿な女だ」


思わず口から零れ落ちた悪態は、酷く掠れて、情けないほど熱を帯びていた。

耳朶を赤く染め、困惑と居心地の悪さに視線を斜め下へ逸らすヴァルター。

百の魔獣に囲まれても眉一つ動かさない男が、年下の少女の指先一つで完全にペースを崩されている。


エレオノーラは満足そうに胸当てをぽんと叩くと、顔を上げ、彼の琥珀色の瞳を真正面から見つめた。


「ええ、大馬鹿ですわ。八年間、あなた一人だけを追いかけて軍師の座を奪い取った女ですから。……だからこそ、私の宝物を他人に傷つけさせる気など毛頭ありません」


彼女の手がそっと上がり、ヴァルターの頬に触れた。

冷たい鉄の籠手とは違う、柔らかく確かな人間の温もり。


「国境検問所へ視察団を迎えに向かった王太子部隊は、索敵も怠り、峡谷のど真ん中で伏兵に飛び込むことでしょう。無知と慢心に溺れた貴族騎士たちは、無様な悲鳴を上げることになりますわ」


エレオノーラの唇に、冷酷で怜悧な、軍師としての不敵な笑みが浮かぶ。


「今まであなたがどれほど理不尽な重荷を一人で背負い、彼らに安全な花道を作って差し上げていたか……その代償を、骨の髄まで思い知らせてやります。――そして、我が国の真の筆頭騎士が誰であるかを、白日の下に晒すのです」


ヴァルターは深く息を吐き出すと、壁に立てかけてあった漆黒の大剣を、迷いなく左手で掴み取った。

背負った大剣の重みが、かつてないほど軽く感じられた。

一人で耐え忍んでいた過去とは違う。今は、背中を完全に預けられる稀代の軍師が、己の隣に立っている。


「……分かった。あんたの引いた盤面の上だ、好きに暴れてやる」


「よろしくてよ、私の騎士様」


エレオノーラが外套を翻し、歩き出す。

出撃を告げる夜風が地下兵装庫の扉を揺らし、二人の影を前線へと誘っていた。

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