搾取の代償と冷徹な請求書
王宮の執務室は、まるで暴風雨が通り過ぎた後のような惨状を呈していた。
金糸の敷物が敷かれた執務机の上には、天井まで届きそうな書類の塔が幾重にもそびえ立っている。
羽ペンをインク壺に突っ込んだまま、カイル王太子は頭を抱えて唸り声を上げていた。
「な、なんだこれは……! 『北方第三守備隊の冬期薪炭追加調達申請』に『城壁補修における石材搬入の関税減免嘆願』……? どうして僕がこんな、細かい数字ばかりの書類を山ほど決裁しなきゃいけないんだ!?」
傍らで紅茶を注ごうとしていたリリアンも、困惑したように眉尻を下げ、小さな手を胸の前で握りしめた。
「カイル様、いつもならヴァルターさんが『目を通しておきました。殿下はここにサインを』って、付箋をつけて持ってきてくださっていましたよね……? あの時は、こんなに時間がかかるものだなんて思わなかったのに……」
二人の言う通りだった。
カイルが「信頼」と称してヴァルターに預けていたのは、護衛の剣だけではない。貴族議会と各地方都市、兵站部から持ち込まれる無数の陳情や調整業務――本来、王族と官僚組織が汗を流して解決すべき泥臭い政治実務のすべてを、ヴァルターが夜を徹して整理し、お膳立てしていたのだ。
そこへ、ノックの音もなく扉が開かれた。
「お忙しそうですわね、カイル殿下」
澄んだ冷たい声とともに現れたのは、優美な軍礼服を纏ったエレオノーラだった。
小脇には革表紙の分厚いファイルを抱え、左目元には銀縁のモノクルが冴えた光を放っている。
「エ、エレオノーラ卿!」
カイルは地獄で仏に出会ったかのように椅子から跳ね起きた。
「ちょうどよかった! ヴァルターを返してほしいんだ! 彼がいないと騎士団の朝礼も、隣国視察団の警護日程も、書類仕事も……何もかもが止まってしまっている! ヴァルターは誰よりも頼りになる、僕の騎士なんだ!」
リリアンもすがるようにエレオノーラへ歩み寄る。
「お願いします、エレオノーラ様! ヴァルターさんはカイル様の右腕であり、何より一番大切な騎士様なんです。彼をあんな別邸に閉じ込めておくなんて可哀想です! 私たちのお側にいるのが、一番ヴァルターさんにとっても誇らしいはずなのに……!」
悪意の欠片もない、心からの懇願。
自分たちが彼をすり減らしている自覚など一ミリも持たず、「完璧な忠臣」を不当に奪われたと無邪気に信じ込む姿に、エレオノーラは冷ややかに目を細めた。
「ご安心くださいませ。ヴァルター殿なら、温かいスープを召し上がり、三日間の強制睡眠によって健康な顔色を取り戻しつつありますわ。……誰かさんの『無邪気なお願い』で削り落とされた寿命を、私が必死に繋ぎ止めているところです」
「な、何を言って……」
「殿下。話が通じないようですので、軍務局からの正規通達をお持ちいたしました」
エレオノーラは持参したファイルを机の上に滑らせた。
表紙には朱色の封蝋。『王室最高軍務局・特務執行請求書』の文字が刻まれている。
「こ、これは……?」
「過去三年間において、近衛筆頭騎士ヴァルター・グレイグが、本来の軍務外で代行処理させられていた全公務の『時間外労働記録』および『役務対価請求書』ですわ」
エレオノーラは羽ペンを取り出し、書類の一項目をコツコツと叩いた。
「本来は内務府および殿下の直属文官が担当すべき書類決済、年間四千二百件。隣国視察団の非公式警護に伴う夜間追加警戒、計六十八日。貴族派閥との根回し会合における護衛兼代理折衝、百十四件。……それらに対し、支払われた手当はゼロ。名目はすべて『王太子殿下への個人的な忠誠に基づく奉仕』」
氷のような事実の羅列に、カイルの顔から血の気が引いていく。
「ヴァルターは……僕の騎士として、誇りを持って引き受けてくれていたはずだ! お金のために仕えていたんじゃない!」
「ええ。彼は高潔な武官ですから、主君である殿下の未熟を世間に晒さないため、黙って泥を被り続けてくださったのでしょうね。――ですが、国家の制度は美談では動きません」
エレオノーラは容赦なく言葉を叩きつけた。
「殿下。あなたが『僕の騎士』と呼び、誇らしげに寄りかかってきたものの正体は、ただの一人の人間に押し付けた『タダ働きの搾取』です。一国の王太子ともあろうお方が、臣下の善意を貪るだけの寄生虫であって良いはずがありませんわね?」
「き、寄生虫……!?」
カイルが息を詰まらせ、リリアンがショックに目を見張る。
「もしヴァルター殿の現場復帰を望まれるのでしたら、まずこの請求書に記載された滞納手当――金貨八万枚を国庫からではなく、殿下の私費から軍務局へお支払いくださいまし。さらに、今後の業務委託契約書への署名、ならびに『一日八時間以上の連続休息時間の保障』『危険手当の三倍支給』『公務丸投げの禁止条項』の受託を必須条件といたします」
「そ、そんな大金、払えるわけがない……! それに、そんな契約を結んだら、ヴァルターは僕だけの忠実な騎士ではなくなってしまうじゃないか!」
「お気づきになられて光栄ですわ。――彼はあなたの便利な私兵でも、無償の盾でもありません。一人の高潔な騎士であり、人間です」
エレオノーラは完璧なカーテシーを見せ、踵を返した。
「組織の綻びを他人の犠牲で埋めるのはやめ、自らの足でお立ちなさい、殿下。……それができない限り、彼に指一本触れることは許しません」
その日の夕刻。
静謐な軍師別邸の書斎には、柔らかな夕日が斜めに差し込んでいた。
上質なリネンの室内着を身に纏ったヴァルターは、机の上に広げられた過去の戦役地図と、何束かの書類を険しい表情で見つめていた。包帯を取り替えられた右腕は順調に快方へ向かっていたが、その琥珀色の瞳には、戦場を生き抜いてきた男特有の鋭利な直感が宿っている。
コン、と控えめなノックとともに、エレオノーラが入ってきた。
「休みなさいと申し上げたはずですのに。また地図と睨めっこですか?」
「……殿下に金貨八万枚の請求書を突きつけたそうだな」
ヴァルターは視線を机から外さず、呆れたように息を吐いた。
「払えないなら諦めろという、極めて論理的な追い込みですわ。……それより、何を熱心に見ていらっしゃいますの?」
エレオノーラが机の傍らに歩み寄ると、ヴァルターは手元にあった書類――彼女が退屈しのぎにと差し入れていた『北方防衛線の定期物資搬入記録』を太い指先で弾いた。
「あんたが置いていったこの日誌、数字が不自然だ。北西の険しい渓谷『ガルニア峡谷』周辺の守備軍が、演習にかこつけて警備兵を露骨に引き抜いている。糧食の配給ルートも意図的に迂回させられているな」
「……ガルニア峡谷。王都へ最短で物資を運ぶ要衝ですわね」
エレオノーラの瞳から冗談の色が消え、即座に冷徹な軍師の光が宿る。
「日誌の帳簿数値を見ただけで、現場の異変を正確に見抜くとは……流石の慧眼ですわね」
「現場を十数年守ってきた勘だ。……俺が査問会で拘束され、現場を外された途端の動きだ。査問会を仕掛けた守旧派の重鎮貴族ども……奴らが狙っていたのは、俺の左遷そのものではない。俺という『防壁』を王都から引き剥がすこと自体が目的だったんじゃないのか」
ヴァルターの低い推測に、エレオノーラは静かに頷いた。
そして、自らの懐から一枚の暗号紙を取り出し、机の上に滑らせた。
「ええ。実は先ほど、私の情報網からも緊急報が入りました。守旧派の残党貴族たちが、隣国の非公式傭兵団と接触しています」
「何だと……!?」
「査問会での横領が暴かれたことで、奴らはいよいよ後がなくなったのでしょう。王太子殿下の求心力が落ち、さらに筆頭騎士であるあなたが不在となった今を好機と見て……おそらく、大規模な武力クーデターを仕掛けてきます」
静まり返った部屋に、張り詰めた緊張感が満ちていく。
ヴァルターは無言のまま立ち上がり、壁に掛けられた己の漆黒の大剣を一瞥した。かつて多くの命を背負い、誰からも理解されぬまま振るい続けてきた刃。
「……王都が戦火に呑まれる。殿下も、リリアン様も、民も危険に晒されるぞ。俺が行く」
「待ちなさい」
踵を返そうとするヴァルターの行く手を、エレオノーラが遮った。
彼女は机の上に置かれた羽ペンを手に取り、不敵な、昏い光を湛えた笑みを浮かべてみせる。
「一人で泥を被り、一人で戦う日々はもう終わりだと申し上げましたはずです。――奴らが軍を動かすというのなら、受けて立ちましょう。私が盤上を整え、あなたが剣を振るうのです」
エレオノーラはヴァルターの胸元に指先を添え、至近距離で見上げた。
「あなたの高潔さと圧倒的な強さを、あの愚かな貴族どもにも、そしてあなたを使い潰してきた殿下たちにも……骨の髄まで思い知らせて差し上げますわ」
夕闇が落ちた書斎で、知略の令嬢と最強の騎士の視線が、静かに火花を散らした。




