軍師令嬢の軟禁部屋
大理石の王宮を後にした黒塗りの馬車は、石畳を揺らしながら王都の一角へと滑り込んでいた。
車窓のカーテンは隙間なく引かれ、外の景色は見えない。ただ、敷き詰められた最高級の絨毯と、座席のふくよかな革の沈み込みだけが、ここが軍用馬車とはかけ離れた贅を尽くした空間であることを物語っていた。
「……令嬢」
沈黙に耐えかねたように、低く太い声が落ちる。
ヴァルターは膝の上に拳を置き、背筋を硬直させたまま正面を見据えていた。
六尺を超える巨躯に漆黒の甲冑。その威容は、豪奢な馬車の中では異様なほど浮き彫りになっている。長時間の過重労働と昨晩までの不眠のせいで、彫りの深い目元には薄い隈が差していたが、その琥珀色の瞳は警戒の色を失っていなかった。
「ここは軍務局の移送車両ではないな。行き先はどこだ」
「私の私邸ですわ」
向かい側の座席で、膝の上に書類を広げていたエレオノーラが、涼やかな顔を上げた。
銀縁のモノクルを外し、胸元に収める仕草すらも絵画のように無駄がない。
「私邸だと? 俺の身柄を接収したというのなら、連れて行くべきは軍務局の地下監房か査問室のはずだ。なぜ個人の屋敷へ向かう」
「当然の処置です。先ほども申し上げたはずですわ。私はあなたを『買い取った』と。腐敗した派閥の息がかかる本庁舎などにあなたを連れて行けば、あの無能な官僚どもがまたくだらない書類や手続きであなたの時間を削り取ります。私の管理下こそが、この国で最も安全な場所です」
「俺は罪人ではないにせよ、査問の対象だった男だぞ。平民上がりの筆頭騎士を私邸に囲うなど、貴族社会でどんな噂を立てられるか……あんたほどの知恵があれば、理解できないはずがないだろう」
「あら、ご心配ありがとうございます」
エレオノーラはふふ、と柔らかく微笑んだ。
冷徹な軍師の仮面が剥がれ落ち、その紫紺の瞳に宿ったのは、あまりにもまっすぐで眩しい熱情だった。
「ですが、私の評判などどうでもよろしくてよ。他人の口の端に上ることなど、あなたの右腕の傷一つよりも価値のないことです」
「な……」
一切の躊躇もない断言に、百戦錬磨の騎士が気圧されたように絶句する。
「それに、ヴァルター殿。あなたが他人の体面を気にする前に、気にするべきものがおありでしょう」
エレオノーラの手が、音もなく伸びてきた。
白く滑らかな指先が、ヴァルターの右腕――黒鉄の籠手を外され、乱雑に包帯が巻かれたままの手首に触れる。
ヴァルターが小さく肩を揺らしたが、エレオノーラは引かなかった。
傷口を圧迫しないよう、羽毛に触れるような慎重さで、しかし拒絶を許さない意志を持ってその手を包み込む。
「熱を持っていますわね。……骨に亀裂が入っているのを、鎮痛剤と気合いだけで誤魔化しながら剣を振るっていたでしょう」
「……任務に支障はなかった」
「支障は大ありです。あと二週間あの無茶を続けていれば、二度と大剣を握れない腕になっていましたわ」
声の温度が僅かに下がった。
だが、それは冷酷さからではない。零れ落ちそうになる怒りと痛ましさを、必死に理性で堰き止めているような響きだった。
「誰も死なせないために、自分が壊れるまで背負い込むのがあなたの流儀でしたわね。……愚かしいほどに高潔で、腹が立ちます」
「令嬢……」
「ですが、それも今日で終わりです。ここから先は、私の戦場ですので」
馬車が緩やかに速度を落とし、完全に停止した。
御者が扉を開けると、そこは王都の喧騒から隔絶された、静謐な森に囲まれた石造りの別邸だった。
案内された部屋の扉が開いた瞬間、ヴァルターは本能的に眉をひそめた。
「……何かの間違いではないのか」
そこは、彼が想像していた「監禁部屋」とは対極の空間だった。
窓からは柔らかい陽光が差し込み、磨き上げられた木の床には毛足の長い羊毛の絨毯。部屋の中央には、大人三人が手足を伸ばしても余るほどの巨大な天蓋付きベッドが鎮座している。シーツは最高級の絹で、重ねられた羽毛布団は雲のようにふんわりと膨らんでいた。
部屋の隅の暖炉には薪が心地よい音を立てて爆ぜ、漂ってくるのはラベンダーと白檀を調合した、神経を解きほぐすような甘いアロマの香り。
テーブルの上には、湯気を立てる滋養強壮の温かいスープと、柔らかく煮込まれた肉料理が湯気を立てていた。
「間違いではありませんわ。ここがあなたの『拘禁室』です」
背後から入ってきたエレオノーラが、従僕たちに目配せをして下がらせる。
部屋には二人きりになった。
「ふざけているのか。俺は騎士だ。牢屋か兵舎の板張りのベッドで十分だ。このような贅沢――」
「着替えをなさい」
エレオノーラは彼の抗議を一切聞かず、椅子の上に用意されていた上質なリネン地の室内着を指差した。
「重たい甲冑を脱ぎ、泥を落とし、傷の手当てを受け、食事を摂り、眠るのです。……最低でも三日間は、この部屋から一歩も出ることを禁じます」
「三日……!? 馬鹿を言うな! 北方戦線の防衛見直しも、新兵の査定も、殿下の警護計画も残っている! 俺が持ち場を離れれば、現場が回らなくなる!」
ヴァルターが声を荒らげた。
その瞳には、自分のことなど何一つ顧みず、ただ残してきた責務と部下たちのことだけを案じる焦燥が宿っている。
エレオノーラは呆れたように小さく息を吐き、静かに首を横に振った。
「あなた一人が抜けただけで機能不全に陥るなど、組織として致命的な欠陥構造ですわ」
冷徹な軍師の目が、ヴァルターの焦りを真正面から捉える。
「一人の傑出した人間の超人的な自己犠牲に寄りかからなければ回らない防衛網など、初めから破綻しているのと同じです。特定の個人が倒れた瞬間に崩壊する脆弱なシステムを放置し、現場指揮官の肉体を燃料にして現状維持を気取るなど、組織論としても統治としても三流以下の怠慢。――あなたが責任を感じて穴埋めをすればするほど、周囲は学習する機会を奪われ、甘え、組織は腐敗していくのですよ」
理路整然とした容赦のない指摘に、ヴァルターは言葉を詰まらせた。
痛切な図星だった。彼自身、現場の綻びを自分の剣一本で塞ぎ続けることの危うさを、心のどこかで理解していなかったわけではない。
エレオノーラは無言のまま歩み寄り、ぐっと背伸びをして――彼の胸当てに、自らの額をトン、と預けた。
「……っ!? な、何を……」
予想だにしない接触に、大男が硬直する。
冷たい鉄の感触越しに、彼女の温もりと、微かなラベンダーの香りが鼻腔をくすぐった。
「カイル殿下なら、書類の山に埋もれて泣き言を言っていますわ」
エレオノーラの声は、驚くほど静かで、優しかった。
「あなたが一人で処理していた他部署の尻拭い、予算の辻褄合わせ、警護ルートの再編成……すべて殿下の執務室へ正規の書類として突き返して差し上げました。あの能天気な殿下も、自らの職務を他人に丸投げしていた現実を、今頃骨身に染みて学んでいる最中です。――組織を正常に戻すためにも、あなたが現場から完全に手を引くことが必要なのです」
「……殿下に、あのような膨大な雑務をこなせるはずがない。あいつはまだ若いんだ」
「あなただって、まだ二十代の若者ですわ!」
顔を上げたエレオノーラの瞳に、きらりと光るものが滲んでいた。
その烈火のような気迫と、痛切な眼差しに、ヴァルターは息を呑んだ。
「王族を守るためなら、自分の命を削り落としても当然だと……なぜそうやって、自分だけを勘定に入れないのですか。あなたがどれほど強かろうと、どれほど頑丈な剣であろうと……血の通った人間です。痛むことも、疲れることも、眠ることも許されない人間など、この世にいていいはずがありません」
ヴァルターの喉が、か細く鳴った。
痛む腕のことも、抜け落ちそうな意識のことも、誰にも言わなかった。言うべきではないと思っていた。
守る側の人間が弱音を吐けば、守られる側が不安になる。だからずっと、頑丈な壁であり続けようとしてきたのだ。
それを、この少女は。
出会って間もないはずの主席軍師は、なぜこれほどまでに、自分以上に自分の痛みを怒ってくれるのか。
「……なぜだ」
ヴァルターの声が、かすかに掠れた。
「なぜ、あんたがそこまで……俺のような平民上がりの、誰からも疎まれる男に構う。俺を囲ったところで、あんたに何の利もないはずだ」
エレオノーラは、ふっと泣き笑いのような、酷く愛おしそうな笑みを浮かべた。
「利など、最初から求めておりません」
彼女はそっと手を伸ばし、ヴァルターの頬に触れた。
戦火と風雪に晒され、浅い傷の残る武骨な頬。大人の男の硬い輪郭を、慈しむように指先で撫でる。
「八年前。王都の裏路地で暴漢に囲まれ、泣くことしかできなかった幼い私に……冷え切った硬いパンを無造作に放り投げて、『腹が減っては泣くこともできん。食って生きろ』と去っていった背中を、私は片時も忘れたことはありません」
ヴァルターの琥珀色の瞳が、驚愕に見開かれた。
「……あの時の、子供か……?」
「ええ。あなたが名も名乗らず立ち去ったあの日から、私の主は、私の英雄は……世界中であなた一人だけです」
エレオノーラは誇らしげに、そしてどこまでも深く甘い光を宿した瞳で、彼を見上げた。
「剣を握れない私が、どうすればあなたを守れるか。それだけを考えて、私はこの国の軍師の頂点まで登り詰めました。あなたの理不尽をすべて握り潰すための権力と頭脳を、ようやく手に入れたのです」
言葉を失ったヴァルターを、エレオノーラは優しくベッドへと促す。
普段ならどんな敵の突進も跳ね返す頑強な身体が、彼女の小さな手に引かれるまま、吸い寄せられるようにベッドの縁へと腰を下ろした。
沈み込むシーツの柔らかさが、彼が何年も忘れていた「休息」の感覚を容赦なく呼び覚ましていく。
「……驚いたな」
ヴァルターは自らの逞しい両手を見つめ、それから困ったように、けれどどこか微かに口元を緩めて息を吐いた。
長年張り詰めていた鋼の糸が、ほんの少しだけ緩んだような、深く重い吐息だった。
「俺はとっくに、あの路地の餓鬼の顔も忘れていたというのに。……とんでもない女傑に育ったものだ」
「女傑とは失礼ですわね。一途な乙女と言っていただきたいものです」
エレオノーラはすまし顔で言うと、テーブルから温かいスープの器を取り、スプーンを彼に差し出した。
「さあ、まずは胃に物を入れなさい。それから甲冑を脱いで、傷の手当てをします。……自分では脱げないでしょう? 安心してくださいまし、私が手伝って差し上げますから」
「ま、待て! 甲冑を脱ぐのを手伝うとはどういうことだ! 相手は令嬢だぞ、破廉恥な真似をさせるわけには――」
「何をおっしゃっているのかしら。私はあなたの専属管理者です。管理対象の健康状態を隅々まで確認するのは、軍師として当然の職務ですわ」
涼しい顔で言い放ち、手際よくヴァルターの胸当ての留め具に手をかけるエレオノーラ。
耳まで真っ赤にして「おい、やめろ、自分でできる」「いいえ、右腕を動かしてはなりません」と押し問答を繰り広げる大男の姿には、かつて戦場を震え上がらせた「冷酷な傲慢騎士」の威圧感など、微塵も残っていなかった。
暖炉の爆ぜる音と、柔らかいアロマの香りに包まれながら。
誰にも頼らず生きてきた男の長い孤独が、一人の令嬢の猛烈な愛によって、静かに、そして確実に溶かされ始めていた。




