嫌われ騎士の査問会
大理石の床に落ちた冬の陽光は、冷たく透き通っていた。
ステンドグラス越しに差し込む光の筋の中、舞い散る埃すらも凍りつくような沈黙が、王宮大広間を支配している。
「――黒鉄騎士団筆頭、ヴァルター・グレイグ」
壇上から投げかけられたのは、老貴族特有のねばつくような声だった。
法衣を纏った査問官が、蔑みを隠そうともせずに手元の羊皮紙を叩く。
「先日の北方魔獣掃討戦において、殿下の命じた強行軍を独断で停止させ、本隊の進軍を丸一日遅延させた。さらには兵糧の再配分を勝手に行い、貴族将校への配給を削って平民兵に回したとのこと……。これは明白な越権行為、並びに王命違反である。弁明はあるか」
広間の壁際に控える貴族や騎士たちから、嘲笑交じりのささやきが漏れた。
「平民上がりが、少し功績を立てたからと図に乗りおって」
「傲慢騎士め。王太子殿下にお諫めされてなお、あの無礼な態度だ」
「武骨なだけで礼節も知らぬ野蛮人だ。今度こそ左遷だろう」
悪意に満ちた視線の矢が幾千も突き刺さる中央で、漆黒の甲冑を纏った男――ヴァルターは、微動だにせず直立していた。
背丈は六尺を優に超え、分厚い胸板と鍛え上げられた長躯には、幾多の死線を潜り抜けてきた歴戦の凄みが宿っている。彫りの深い端正な顔立ちには、感情の揺らぎが一切ない。琥珀色の瞳は、ただ冷徹に前方の虚空を見据えていた。
「……弁明はございません」
低く、硬質な声が静寂を震わせた。
「あの気候下で進軍を強行すれば、輜重隊が雪に埋もれ、三日のうちに凍死者が出た。将校の私財を一時的に徴発したのは、末端の防寒具が不足していたため。軍規違反の咎は、筆頭である俺一人が受けます」
「貴様……! 反省の色すらないとは、どこまで傲慢なのだ!」
老査問官が机を激しく叩く。
周囲の嘲弄が一層高まる中、ヴァルターの足元に影が落ちた。
彼の斜め前方で、金糸の刺繍が施された豪奢な外套を翻し、狼狽していたのはカイル王太子だった。
その隣には、純白の聖女装束に身を包んだリリアンが、不安そうに胸の前で手を組んでいる。
「待ってください、査問官! ヴァルターは……僕の一番信頼する騎士なんだ! 確かにやり方は強引だったかもしれないけれど、悪気があってやったことじゃない!」
必死に庇い立てするカイルの瞳には、一切の悪意がない。純粋無垢な善意そのものだった。
リリアンもまた、潤んだ瞳で壇上を見上げる。
「そうです! ヴァルターさんはいつも私たちのために戦ってくださいます! どんな無茶な魔獣の群れだって、ヴァルターさんがいれば絶対に誰も傷つかないんです! だから……叱らないであげてください!」
その言葉が落ちた瞬間、ヴァルターの右腕が、甲冑の奥で微かに軋んだ。
――誰も傷つかない戦場など、あるはずがない。
先日の吹雪の夜。立ち往生した馬車を泥から引き上げ、凍傷寸前の部下を背負って歩いた。貴族将校が放棄した前哨基地に一人残り、夜明けまで大剣を振るい続けた。
それは愚痴でも犠牲でもなく、筆頭騎士として己が課した当然の務めだった。
だからこそ二人は無傷で、今もその眩しい笑顔を保っていられる。それでいいと、心から思っていた。
だが、麻痺しかけた右腕の包帯に滲む血の重みと、数ヶ月に及ぶ不眠の鉛のような疲労は、確実に彼の身体を内側から削り取っていた。
悪意のない純粋な信頼。それに背を向けるという選択肢を持たない己の不器用さが、静かに命をすり減らしている。
「……殿下、リリアン様。お下がりください」
ヴァルターは二人を見ることなく、静かに、しかし断固とした声で遮った。
「これ以上のお言葉は、殿下の御身を汚すことになります。すべての責任は俺にあります。沙汰を」
これ以上、この二人を政治の泥沼に巻き込ませるわけにはいかない。
自分が一言でも泣き言を言えば、王太子の統率力に傷がつく。聖女の清廉さに泥が塗られる。
だから、自分が悪者でいい。傲慢で、分を弁えない凶犬として使い捨てられれば、それで丸く収まる――。
拳を握りしめ、冷たい判決を受け入れようと顎を引いた、その時だった。
カツン、と。
静まり返った大広間に、澄んだ硬い足音が一つ、響き渡った。
緩慢でありながら、空間を鋭利に切り裂くような靴音。
大理石を踏みしめるそのリズムに、壇上の査問官も、嘲笑を浮かべていた貴族たちも、思わず息を呑んで振り返った。
大広間の重厚な扉から歩み出てきたのは、一人の令嬢だった。
夜空を溶かし込んだような濡れ羽色の長い髪が、歩調に合わせて優美に揺れる。
華奢な肢体に纏うのは、貴族令嬢の豪奢なドレスではなく、機能美と厳格さを極めた紫紺の軍礼服。左目元には銀縁のモノクルが冷ややかに光り、その奥にある理知的な瞳が、獲物を射す刃のように細められていた。
手には、一束の羊皮紙と、青い飾り羽根のついた一本のペン。
「――そこまでですわ」
涼やかで、しかし凛と張り詰めた美声が、広間の隅々にまで染み渡る。
「主席軍師……エレオノーラ卿……?」
カイルが呆然と呟いた。
王室最高軍務局を弱冠二十一歳で統べる、当代随一の頭脳。「歩く国家予算書」と恐れられるクラインフェルト伯爵家の令嬢が、なぜこの場に現れたのか。
ヴァルターだけが、わずかに目を見張っていた。
(……なぜ、あんたがここに)
エレオノーラはヴァルターの横を通り過ぎる際、一瞬だけ視線を交錯させた。
氷のように冷徹なはずの彼女の瞳の奥で、昏い炎が揺らめいたのを、ヴァルターは見逃さなかった。それは怒りだった。だが、ヴァルターに向けられたものではない。
エレオノーラは優雅に壇上へと歩み寄り、査問官を見下ろすように立った。
「主席作戦参謀たる私が黙っていれば、ずいぶんと滑稽な茶番を繰り広げてくださいますのね。査問官殿」
「な、何を無礼な! 我らは軍規違反を犯した傲慢騎士を裁いているのだ! いくら軍務局の主席とはいえ、口を挟む権利は――」
「権利? 王室軍事規約第十四条、兵站統制および軍監権に基づき発言しておりますが、何か問題でも?」
エレオノーラは唇の端をわずかに持ち上げ、抱えていた羊皮紙の束を、音を立てて査問官の机の上に叩きつけた。
バサリ、と重い紙擦れの音が響く。
「先日の北方掃討戦における、正規補給部隊の物資搬送記録です。査問官殿、あなた方の派閥の息のかかった兵站管理官が、本来前線に届くはずだった防寒具三千着と高純度魔力薬二百本を横領し、王都の闇市場へ横流ししていた帳簿の写しですが……ご覧になりまして?」
「なっ……!?」
査問官の顔から血の気が引いた。
「ヴァルター筆頭が貴族将校の私財を一時徴発したのは、横領によって凍死寸前だった前線の兵を救うための緊急措置。むしろ兵站の杜撰さを現場の機転で埋め合わせ、人的損失をゼロに抑えた功労者ですわ。……それとも、何かしら? 補給を抜いて私腹を肥やしていた貴方方の不祥事を隠蔽するために、前線で血を流した筆頭騎士に全責任を被せようとでも?」
「め、滅相もない! そのような記録、捏造だ!」
「捏造かどうかは、王都第三倉庫の地下を王室憲兵が捜索すれば五分で判明いたしますわ。すでに私の直属部隊が押さえに向かっておりますけれど」
エレオノーラが手に持った羽ペンを軽く振ると、羊皮紙の上に魔導認証の青い光が浮かび上がった。王室直属の軍監印。言い逃れの一切を封じる、完璧な詰みの証明だった。
広間が騒然となる。
先ほどまでヴァルターを嘲笑っていた貴族たちが、蜘蛛の子を散らすように青ざめ、後退りした。
「ば、バカな……なぜ軍師がそこまでの裏取りを……」
査問官がガタガタと震えながら崩れ落ちる。
エレオノーラはそんな男を一瞥もせず、冷淡に踵を返した。
そして、戸惑ったように立ち尽くすカイル王太子の前へと歩み出る。
「で、殿下」
「え、エレオノーラ卿……? あ、ありがとう、君のおかげでヴァルターの疑いが晴れたよ! やっぱりヴァルターは最高の騎士だ、これでまた次の任務も安心して任せられる――」
無邪気に相好を崩すカイルに、エレオノーラは完璧にして冷徹なカーテシーを返した。
「いいえ、殿下。お礼には及びません。……そして、次の任務など金輪際ございませんわ」
「え……?」
カイルが目を丸くし、隣のリリアンも小首を傾げる。
エレオノーラはすっと立ち上がり、感情の窺えない紫紺の瞳をカイルに向けた。
「国の至宝たる筆頭騎士を、無策な甘えと杜撰な管理で過労死寸前まで使い潰すような方々に、これ以上彼を預けるわけにはまいりません」
「つ、使い潰すだなんて! 僕たちはヴァルターを誰よりも頼りに――」
「頼りにすることと、依存して搾取することは同義ではありません。殿下、そして聖女様」
容赦のない言葉が、二人を射貫いた。
リリアンが怯えたように息を呑む。
「お二人が無邪気に『お願い』を口にするたび、彼が何日不眠で剣を振るい、どれほどの政治的泥を一人で飲み込んできたか、一度でもお考えになったことがおありですか? ……いいえ、おありではないでしょうね。彼が一度も弱音を吐かなかったから。騎士の誇りにかけて、お二人を庇い続けてきたから」
エレオノーラはヴァルターへと向き直った。
ヴァルターは、信じられないものを見るように彼女を見つめていた。
感情を殺し、誰にも理解されないまま墓場まで持っていくはずだった自分の痛みを、なぜこの年若い令嬢が、すべて知っているのか。
「エレオノーラ卿……何を言っている。俺は――」
「黙りなさい、不器用な筋肉馬鹿」
ぴしゃりと言い捨てられ、百戦錬磨の筆頭騎士が思わず言葉を詰まらせた。
エレオノーラは躊躇いなく大股で歩み寄ると、手袋越しにヴァルターの右腕――包帯の巻かれた手首を、痛まないよう驚くほど優しく、しかし決して逃げられない強さで掴み取った。
「なっ……!?」
長身のヴァルターが、ぐいと引き寄せられる。
鼻先が触れそうなほどの距離に、知性と決意に満ちたエレオノーラの端麗な顔があった。モノクルの奥の瞳が、至近距離でヴァルターを射抜く。
「王国古式軍法規約、緊急時直属徴募権を行使いたします。――本日、ただ今この瞬間をもちまして、黒鉄騎士団筆頭ヴァルター・グレイグの指揮権、並びに身柄の専属管理権は、私《主席軍師エレオノーラ》が全権を行使して買い取らせていただきます」
凛とした声が、静まり返った広間に高らかに響き渡った。
「買い取るって……ええっ!? ヴァルターは僕の護衛騎士だよ!?」
カイルが悲鳴のような声を上げる。
「書類上、彼の管轄は軍務局に移籍いたしました。抗議なら正規の軍事裁判にて、書面で受け付けますわ。もっとも、受理するのも私ですけれど」
エレオノーラは王太子に冷たい笑みを投げかけた後、再びヴァルターを見上げた。
その瞳から冷徹さが抜け落ち、代わりに宿ったのは、狂おしいほどの一途さと、圧倒的な熱量だった。
「……連れて行きますわよ、私の騎士様」
「お、おい、待て……! 令嬢、何を考えている! 俺のような薄汚い嫌われ者を囲って、何の得がある!」
初めて取り乱し、狼狽して頬をわずかに赤らめる大男の手を、エレオノーラは引いて歩き出す。
「得? 愚問ですわね。――私があなたを、一生甘やかして養うためです」
「は……!?」
「文句は受け付けません。逆らえば、三食昼寝付きの強制ベッド拘禁刑に処しますから、そのおつもりで」
引きずられるように歩かされる大柄な騎士と、胸を張って彼を連れ去る華奢な軍師令嬢。
呆然と見送る王太子と聖女、そして息を呑む貴族たちを背に、大広間の扉は重々しい音を立てて閉ざされた。




