第3話 深夜のあーん
「はぁ……なんて過酷な一日だったんだ……」
自分の部屋に戻り、ノアは大きく息を吐きながらベッドに倒れ込んだ。朝は聖女ルチアによる胸元埋もれ&膝枕監禁攻撃、昼は女騎士クララとの密着度100%の馬車ドライブ。どちらも命の危機(と理性の限界)を感じる怒濤の甘やかしラッシュだった。
「マジで……距離感がバグりすぎだろ……。だいたい、俺はただの一般人だぞ。なんで聖女や騎士団長たちが……はぁ……明日は絶対に一人で過ごそう……」
そう心に誓い、パジャマに着替えて明かりを消そうとした、その時だ。コトン、と小さな音が窓の方から響いた。
「ん……? 風か……?」
ノアが首をかしげた瞬間、月光を背に受けて、窓枠の上にちょこんと腰掛ける一影を認める。
夜風に揺れる、艶やかな漆黒の髪。頭上から覗く小さく可憐な二本の角。そして、闇の中でも妖しく輝く緋色の瞳。そこにいたのは、人間界に潜伏している魔王の娘であり、旧魔王軍幹部——ヴァネッサだ。しかも、その衣装は月光を透かすシースルーの黒い薄絹で出来ており、彼女のなめらかな肌や美脚、美しいボディラインがほとんど隠れていないという、あまりにも毒々しいお色気衣装。
「やっほー、ノア。会いに来てあげたわよ♡」
「ぶふっ……!? ヴ、ヴァネッサ!? な、なんで窓から入ってくるんだ!? っていうかその格好は何なんだよ! 目をどこにやればいいか分からないだろ!?」
赤面して顔を覆うノアを見て、ヴァネッサは「くすっ」と小悪魔的な笑みを浮かべた。彼女はしなやかな豹のような動作で窓枠からベッドの上へと飛び降りると、立ち上がろうとしたノアの胸をぽんと押し、そのままベッドの上に倒し込んだ。
「ふふ、どこ見てるの? 私の顔以外、見ちゃ嫌よ♡」
そのままノアの腰の上に跨がり、両手をノアの耳元について逃げ道を塞ぐ。完全な馬乗り体勢だ。
「じ、ジャマ……じゃなくて、退いてくれヴァネッサ! いくら君でも、深夜に男の部屋にこんな格好で忍び込むのはハレンチすぎる!」
「あら、照れてるの? かわいいわねぇ、ノアは♡ でもダメ。今夜の私は、あなたを『食べる』ために来たんだから。」
ヴァネッサはそう言うと、どこから取り出したのか、妖しく紫色に光る熟した果実を指先でつまんでみせた。
「魔界特産の『アムリタの実』よ。体力を一瞬で回復させて、精力までみなぎっちゃう最高の果実なの。昼間、クララに振り回されて疲れたでしょ? これを食べさせてあげる。」
「あ、ありがとう。じゃあ、手に取って食べるよ……」
「ダメ♡ 私が『あーん』してあげる……こうやってね。」
ヴァネッサは果実を自分の小さな口でシャクリと噛み砕くと、そのままノアの顔へとゆっくりと顔を近づけてきた。彼女の吐息がノアの唇に触れるほどの至近距離。甘く熟した果実の香りと、彼女自身の妖艶な毒の香りが脳を狂わせる。
「む、口移し!? 待って待って! それは『あーん』の域を超えてるから!!」
「ふふ、大人しく口を開けなさい♡ あなたの唇ごと、私が美味しく味わってあげる……♡」
「んーっ! んむっ……!むむむむっ!」
ノアが必死で口を真一文字に結んでいると、ヴァネッサは「もう、往生際が悪いんだから♡」とクスクス笑いながら、自分の豊満な胸元をノアの顔に押し当てて視界と呼吸を塞ぎにかかってくる。
小悪魔的で圧倒的な色仕掛け。純情なノアの理性が、いよいよガラガラと崩れ落ちそうになっていると、ヴァネッサの手がノアの首筋から鎖骨のあたりへとそっと触れた。
「……っ」
ノアをからかっていたヴァネッサの表情から、ほんの一瞬だけ小悪魔の笑みが消える。
(冷たくない……。生きている……)
ヴァネッサの脳裏に、あの一周目の記憶が嫌でもフラッシュバックする。魔王軍の幹部でありながらノアに惚れ込み、だが自分の非力さゆえに彼が古代兵器の暴走に飛び込むのを止められなかった。血みどろになって冷たくなっていくノアを抱きしめ、自分の無力さを呪って血の涙を流したあの日。
(二度と……誰にも渡さない。世界がどうなろうと、私がこの手であなたを守って、甘やかして、骨抜きにして離さないんだから……!)
指先から伝わる温かい脈動に、ヴァネッサの胸の奥がキュッと締め付けられる。彼女はノアに気づかれないよう小さく息を呑むと、すぐにいつもの意地悪で妖艶な小悪魔の笑顔を作り直した。
「……ふふっ、本当にノアは可愛いよね。今夜はこのくらいにしてあげる♡」
ヴァネッサは密着を解き、ベッドからふわりと降りた。
「えっ……? あ、やめてくれるのか……?」
「ええ。でも、その果実は置いておくわね。明日ちゃんと食べないと、夜中にまた忍び込んで、今度こそ本当に『食べちゃ』うから♡」
ヴァネッサはウィンクしてみせると、ノアの頬にちゅっと軽いキスを落とした。ノアが顔を真っ赤にしてフリーズしている間に、彼女は風のように窓から夜の闇へと躍り出る。
「じゃあね、私の愛しいノア♡」
◆
——屋敷の外、月明かりの届かない屋根の陰。
「ふぅ……あはは、危なかったわ。あんな顔見せられたら、本当に襲っちゃうところだったじゃない……」
ヴァネッサは自分の火照った頬を両手で叩きながら、小さく息を吐いた。だが、その表情は一瞬にして冷酷な「魔導の姫」の顔へと変わる。
彼女の視線が注がれたのは、屋敷の敷地外。暗闇に潜んでいた数人の影だった。
「ノアとの甘い時間を邪魔しようとする害虫が、まだ残っていたのね……」
ヴァネッサが細い指先をかざすと、その手元に漆黒の魔法陣が静かに展開される。
「ノアに見つからないように、一瞬で消えて頂戴。——『黒炎極波』」
音もなく放たれた漆黒の炎が、暗闇の中にいた暗殺者たちを声もなく包み込み、灰すら残さず一瞬で蒸発させた。
「フッ……今夜もアイツを守ったのは私よ♡ クララにもルチアにも、ノアは渡さないんだから。」
ヴァネッサは満足そうに口元を吊り上げると、夜空へと消えていった。
部屋の中で「助かった……でも心臓が止まるかと思った……」と胸を押さえて倒れ込んでいるノアは、自分がまたしても影で守られたことなど知る由もなく、ただただ明日への不安に頭を抱えるのだった。




