第33話 離れて知る真実
屋敷のなかに重苦しい沈黙が落ちてから、数日が過ぎた。呪縛が解けたルチア、クララ、ヴァネッサの三人は、いまだにノアとの接触を極力断ち、遠くから彼を見守るという道を選んでいる。これまでの異常なまでの密着や、手足を縛るような監禁的過保護はピタリと止み、同じ屋敷の中にいながらも、四人の間には厚い壁が存在しているかのようにすれ違いの日々が続いていた。
——それで、本当に良かったはずだった。
マスターキーがもたらした「精神固定の呪い」が解けたのだから。彼女たちは自由になり、ノアもまた、息の詰まるような鳥籠から解放されたのだから。
だが、実際に「距離を置く」という選択を実行した彼女たちの胸を襲ったのは、爽快感などではなく、内臓が引き裂かれるような圧倒的な虚無感と、どうしようもない胸の痛みだった。
中庭のベンチ。
誰もいない離れのテラスで、ノアが一人、寂しそうに紅茶のカップを見つめている。誰にも話しかけられず、ただ一人でポツンと座るその背中は、かつてないほど小さく、痛々しく見えた。廊下の角でその姿を物陰からそっと見つめていたヴァネッサは、息ができないほどの激しい胸の痛みに耐えかねて、そっと自分の胸元を両手で強く押さえた。
(……なんでよ……。あんなに離れたかったはずなのに……。呪いが解けて、もうあの執着に縛られていないはずなのに……どうして、ノアが少し寂しそうにするだけで、こんなにも胸が千切れるほど痛いの……?)
ヴァネッサの瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。彼女は慌てて自分の手でその涙をぬぐい、自嘲気味に乾いた笑いを漏らす。
(やっぱり呪いじゃない……呪いじゃないんだ……。あの狂気的な執着は確かにマスターキーの波長に操られていたものだったかもしれないけれど……それとは別に、私は……心の底からノアのことが大好きだった……。呪いが解けてなお、私のこの心が彼を求めているなんて……皮肉ね……)
そう感じていたのは、ヴァネッサだけではない。書斎の窓から庭を見下ろすルチアもまた、聖書のページをめくる手が震え、止まらなくなっていた。ノアが庭石につまづき、危うくバランスを崩しかけた瞬間、ルチアは反射的に窓枠へ駆け寄り、身を乗り出しそうになった自分を慌てて抑え込んだ。
(いけない……! 私が近づいては、また彼を怯えさせてしまう……。でも……あんなに危なっかしくて、優しくて、少し不器用なあの人から……どうして私は、一瞬たりとも目を離すことができないのかしら……)
離れることで初めて浮き彫りになった偽りのない真実の感情。それは、呪いによる強制的な狂愛などではなく、彼女たちが人間として、一人の女性としてノアの魂そのものに惹かれていたという……まぎれもない「本物の恋心」だった。
◆
夜の帳が下りる頃。
屋敷の一室にルチア、クララ、ヴァネッサの三人が集まっていた。灯りもつけられず、重苦しい沈黙のなかで、それぞれの胸の内を押し隠すように誰もが俯いている。
だが、その沈黙を破ったのはクララだ。それまでずっと沈黙を守っていたクララだったが、彼女は両手で顔を覆い、かすれた声でポツリと呟いた。
「……私は、怖かったんだ」
「クララ……?」
ルチアとヴァネッサが彼女へと視線を移す。
「呪いが解けて、自分たちの行ってきたことがすべて『作られた狂気』だったと知った時、私は心底ゾッとした。あぁ、私はノアを愛していたのではなく、ただの自分の恐怖に怯えて、彼を檻に閉じ込めていただけの怪物だったんだって……。だから、彼から離れなければならないと思った。これ以上、私の歪んだ執着で彼を汚してはいけないって……そう思って……」
震えるクララの肩を、ルチアがそっと抱き寄せる。ルチアの目尻にも、耐えきれなかった涙が光っていた。
「私だって……同じです、クララ。彼のそばにいることが怖かった。私のあの執着はすべて、あのマスターキーの呪いのせいで、私自身の本当の気持ちなど最初からなかったのではないかって……そう思うのが何より怖くて、彼から逃げていたんです……」
「でも……」
ヴァネッサが顔を上げ、濡れた瞳で二人を見据えた。その表情には、迷いが吹っ切れたような……しかし、切なさに満ちた強い光が宿っている。
「でも、気づいちゃったのよ。今日一日、ノアの背中を遠くから見ていて……胸が痛くて、どうしようもなくて……。私たちが抱いていた執着や狂気は確かに呪いだったかもしれないけれど……それを全部剥ぎ取ったあとのこの胸の底に残ったものの正体に……。」
三人は互いの顔を見合わせた。言葉にしなくても、その瞳が同じ答えを映し出していることが、痛いほど伝わってくる。
「……私たちは、最初からノアの優しさに救われていたのよ。」
「ええ……出会った頃から、あの人の温かさに触れて、私たちは本当に救われていた。……呪いなんか関係なく、私たちは……最初から彼そのものを愛していたんです。」
強制された感情などではなかった。
確かにマスターキーがもたらした精神固定は、彼女たちの行動を狂気の過保護へと歪ませたが、その土台にあった「ノアを失いたくない」「彼を守りたい」という強烈な動機の根底には、まぎれもなく彼女たちの純粋な恋心が存在していたのだ。
「私たちが恐れていたのは呪いなんかじゃない。……彼に拒絶されること、彼の隣に立つ資格を失うこと……それだけだったんだわ。」
自らの意志による純粋な愛を確信した瞬間、三人は自分たちの胸を覆っていた罪悪感の氷が、スルスルと溶けていくのを感じた。
距離を置く必要などなかったのだ。逃げるのではなく、本当の自分たちの気持ちを抱えて、もう一度ノアに向き合わなければならない。そう考え、彼女たちが再びノアのもとへ歩み出そうと決意した……その矢先。
屋敷の地下深くから轟音が鳴り響き、大きな揺れが三人を襲った。




