第32話 偽りの感情という疑念
呪縛が解けてから三日が経過した。
しかし、屋敷の中の澱んだ空気は薄れるどころか、日を追うごとに冷たさを増している。食堂や廊下で顔を合わせても、ルチア、クララ、ヴァネッサの三人はノアと目を合わせようとしない。それどころか、ノアが近づこうものなら、まるで恐ろしい感染症患者でも見るかのようにサッと身を引き、ピタリと距離を取るようになっていた。
(……一体、どういうつもりなんだよ……)
自室の壁に背中を預け、ノアは深い溜息をつく。あんなに四六時中ベタベタと密着し、愛を囁き、肌を重ねようとしていた彼女たちが、今では必要最低限の言葉すら交わそうとしない。過剰なまでの過保護や監禁は確かに苦痛だったが、ここまで露骨に避けられ、冷たくされると、胸の奥がチクチクと不快に疼く。
(もしかして……あの呪いが解けたことで、彼女たちは気づいたのか? 俺が『世界を壊す鍵』なんて不気味な怪物だから、一緒にいるのが怖くなったのか……? それとも、今まで俺に抱いていた愛情そのものが、マスターキーのせいで植え付けられた『偽りの感情』だったから……)
胸をかすめる不安と孤独感。
だが、事実を述べるとするならば、三人がノアから距離を置いているのは、彼を嫌いになったからではない。むしろ、その逆だった。
「自分たちがノアに抱いていた狂気的な愛や執着は、すべてマスターキーが見せられていた呪いにすぎなかったのではないか」——そうと思い込み、彼女たちは己の感情の出所を見失っている。ノアをこれ以上縛り付けてはいけない……自分たちの歪んだ呪いで彼を汚してはならないという罪悪感から、彼女たちはあえて身を引き、ノアを解放しようと必死に距離を取っていたのである。
だが、そんなすれ違いは互いに理解できるはずもなく、ギクシャクした気まずさが最高潮に達していたその日の夕方、屋敷の玄関ホールで事件は起きた。
「……ん?」
ふと、正面玄関の重厚な大扉の方に目をやったノアは、微かな違和感を覚えた。
外敵の侵入を防ぐために張られている屋敷の「防衛結界」の魔導波長が、ほんのわずかに揺らいでいる。外部からの気配を感知したわけではない。単純に、結界を構築している基礎ルーンの配置に、設計上の「古い甘さ」があったのだ。
(おいおい、この結界の構築式……第4層の魔力循環ルートが非効率すぎだろ。これじゃあ、外側からの物理衝撃波に対して、分散効率が半分に落ちちまう……)
またしても、頭のなかにスルスルと流れ込んでくる「禁忌の知識」。勉強した覚えなど一切ないのに、目の前にある結界の構造が、まるで自分の手で描いた設計図のように手に取るように理解できてしまう。
「……ちょっと、直してみるか」
ノアは誰に言うでもなく呟くと、ふらりと玄関の扉脇へと歩み寄った。そして、空中に浮かび上がる肉眼では見えない魔導回路の隙間に、スッと右の人差し指を伸ばす。
——無意識か……単なる好奇心なのか……。
ノアの指先から放たれた微弱な魔力が、超高密度の古代語ルーンを流麗な手つきで空中に描き出していく。それは現代の魔導士が何人がかりでも数日かかるような複雑怪奇な修復作業だった。ノアが指で最後の結び目をひと撫でし、トントンと軽く叩いた瞬間——。
ゴォォォォォンッという衝撃音と共に、屋敷全体を覆う防衛結界が、眩い青白き光を放って一斉に爆発的拡張を見せた。それまでとは比べ物にならないほど分厚く、硬質で、絶対的な拒絶力を誇る「要塞級の結界」へと、一瞬で強化されてしまったのだ。結界の強度は、先ほどの優に何倍にも跳ね上がっている。
「……あっ」
自分の指先から立ち上る魔力の余韻を見て、ノアはハッと我に返った。数秒前まで自分が何をやっていたのかを理解し、背筋に冷たいものが走る。
「あれ……俺、なんでこんな……古代ルーンなんて書けるんだ……? つーか、今の修復式、現代の魔導理論じゃ絶対にあり得ない構成だったぞ……?」
自分の身体に染み付いている「得体の知れない怪物的な知識」の深さに、ノアは恐怖を覚えて思わず自分の両手を固く握りしめた。そのただならぬ魔力の奔流と結界の変化に気づき、廊下の曲がり角からルチアたちがハッと息を呑んで姿を現す。
「いまの……すさまじい魔力の波動は……!?」
「ノア様……!?」
青白い結界の光に照らされたノアの背中と、呆然と自らの指先を見つめるその姿を目の当たりにし、三人のヒロインたちは言葉を失って立ち尽くすのだった。




