第31話 不自然な距離感と、罪悪感
時計塔での解呪劇から一夜が明け、屋敷に戻ったノアたちを支配していたのは、凍てつくような不自然な沈黙。かつての熱狂的な狂愛はどこにもなく、ただただ静かに時間が進んでいく。
朝食の席。
これまでノアの腕にしがみつき、スプーンを口に突っ込んでは愛を囁き合っていたルチア、クララ、ヴァネッサの姿はそこになかった。正確には、全員同じ空間にいるのだが、誰もノアの正面にも横にも座ろうとしない。
ルチアはテーブルの最も端っこで、青い顔のままカップの縁を震える指で掴み、視線を床に這わせたまま一言も喋らない。
クララは愛用の大剣を膝に抱えたまま窓際に背中を預け、どこか虚ろな目で遠くの空を見つめている。
ヴァネッサに至っては、ノアが視線を向けた瞬間に顔を真っ赤にしてパッと背中を向け、縮こまってしまった。
(……なんだ、この息の詰まる空気は……)
ノアは目の前に置かれた冷めかけたスープを見つめ、居心地の悪さに身悶えする。
昨夜、シャルロットの手によってマスターキーの「呪縛(精神固定の波長)」が完全に解き放たれてから、三人の態度は一変してしまった。あれほど四六時中ノアにべったりと密着し、手足を奪い、逃がさないとばかりに囲い込んでいた彼女たちは今、ノアとまともに目を合わせることすらしなくなっていたのだ。
(洗脳だったとはいえ……ルチアたちは今、俺に対して激しい罪悪感を抱いているんだろうか……)
ノア自身の胸中も複雑だった。シャルロットから告げられた「自分が世界を壊す鍵である」という衝撃の真実。そして、彼女たちの異常な執着が自分を封印するためのものだったという告発。
けれど、時計塔の最上階で崩壊した彼女たちの涙を見たとき、ノアには分かっていた。彼女たちが流した涙は嘘ではない。あの激しい後悔と、自分自身への嫌悪に満ちた表情は、決して作れるものではなかったはずだ……と。
「あの……三人とも……その……無理して遠くに座らなくても……」
「「「ひっ……!?」」」
ノアは気まずそうに声をかけたが、それに対して三人揃ってビクッと肩を跳ね上げ、恐怖に怯える小動物のように体を強張らせる。
「す、すみません……! ノア様、今すぐ視界から消えますから……! 汚らしい物を見るような目で見ないでください……!」
「そうだ……私は、お前に剣を向けた狂人だ。お前の近くにいる資格など、最初から……」
ルチアが震えながら俯き、クララが自嘲気味に歯を噛み締める。ヴァネッサはこちらを見ることなく縮こまったままだ。
その過剰なまでの拒絶と自己否定に、ノアは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。あんなに強引で、絶対的な支配力を持っていた彼女たちが、今はまるで傷ついた子どものように小さくなっている。
自分の中で震えている疎外感……ノアはそれを寂しく思った。
◆
その日の午後。
ルチアは自室の冷たいベッドの上で、膝を抱えて一人座り込んでいた。部屋の隅には、これまでノアを監禁し、手足を縛り付けるために使っていた様々な道具や、過激な衣装が放り出されている。今それらを見るだけで、ルチアは胃がひっくり返るような激しい吐き気に襲われた。
「私……私は……いったい、ノア様に何をしてしまったの……」
震える両手で抱え込んだ聖書を、胸元に強く押し付ける。呪いが解けた脳裏には、自分がノアに対して行ってきた数々の狂気的な行いが、鮮明な記憶として蘇ってくる。
衰弱した彼に無理やり食事を強要し、聖女の威厳を投げ捨てて誘惑し、彼が少しでも遠くへ行こうものなら発狂寸前で縋りついた。
すべては、「ノアを愛しているから」だと思い込んでいた。いいや、そう思い込まされていたのだ。マスターキーという絶対的な恐怖の核から自分を守るため、脳が勝手に作り上げた「愛という名の免罪符」で、ノアという一人の人間の自由と尊厳を踏みにじっていただけなのだと、今のルチアには痛いほど分かってしまった。
「私は……ノア様を愛していたのではなく……己の恐怖を打ち消すために、彼を鳥籠に閉じ込めていただけなの……?」
ぽろりとルチアの瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、聖書の白い表紙を濡らす。
もし、この狂気の愛がすべて「呪い」のせいだったのだとしたら。呪いが解けた今、自分の中に残っているこの胸の痛みは何なのだろう。彼を傷つけてしまったという事実に対する耐えがたい絶望と、二度と彼の隣に立つ資格がないという現実が、ルチアの心を容赦なく引き裂いていく。
「こんな私を……ノア様が、許してくださるはずがないわ……」
誰の声も届かない部屋の片隅で、聖女は己の罪深さに咽び泣くしかなかった。
不自然な距離感と、埋めがたい罪悪感の影法師が、静かに、しかし確実に二人の間の壁を厚くしていく。




