第30話 精神固定の崩壊と困惑
静寂が、時計塔の最上階を支配していた。
あれほど荒れ狂っていた幾何学模様の古代光芒は完全に霧散し、月光だけが静かに冷たい石畳を照らし出している。ノアの胸に宿っていたマスターキーの脈動は、静かな凪の状態へと戻っていた。そして、それに伴ってルチアたちの脳内を支配していた「ノアを監禁し、手足を奪ってでも閉じ込めなければならない」という猛烈な強迫観念は、根底から完全に消滅していた。
「……あ……」
真っ先に口を開いたのは、ルチアだった。彼女は自分の手を見つめていた。先ほどまでノアの服を破らんばかりの力で握り締め、彼を力任せに抱きしめようとしていたその手。突然、ドクンと胸を突かれたような激しい衝撃が襲う。同時に、ルチアはまるで汚いものに触れてしまったかのように、ノアから大きく一歩、後ずさりした。
「私……私……どうして……?」
膝がガタガタと震え、ルチアは両手で自らの顔を覆った。急激に冷えていく頭の中。狂気の熱が去った後に残されたのは、あまりにも客観的で、あまりにも残忍な「自分たちの行いへの記憶」。
「私……ノア様に対して、何をしていましたの……? 部屋に閉じ込め、お食事まで自分でさせず……服をはだけさせて、あんな……あんな恥知らずで異常な真似を……!?」
血の気が一瞬で引き、ルチアの顔が蒼白どころか土気色へと変わっていく。聖女としてのプライドも、一人の少女としての理性も、すべてを投げ打って行っていたあの過剰な過保護行動。それがすべて「狂気」であったと自覚した瞬間、激しい恥辱と恐怖が彼女の胸を刺し穿った。
「正気だったのか?私……は!」
ルチアの横では、クララも崩れ落ちるように膝をつき、茫然と自分の手を見つめていた。彼女が握っていた大剣は、遠くの床に転がっている。
「私は……騎士でありながら……丸腰のノアに対して剣を突きつけ……逃げたら足を折るとまで……? 守るため……? 違う……あれはただの、私の自己満足の暴力だ……!」
いつも冷静で威厳に満ちていたクララが、子供のように肩を震わせ、ボロボロと大きな涙をこぼし始めた。自分の行っていたことが、ノアをトラウマから守るどころか、彼を死ぬほどの恐怖に陥れていたという真実。それを今さら理解した絶望に、彼女の心は握り潰されそうになる。
「ノア……私、私は……貴方に……なんてことを……ッ!」
ヴァネッサは壁に背中を預け、ずるずると床へ座り込む。いつもの小悪魔的な余裕などどこにもない。真っ赤になった顔を膝の間に埋め、小さく縮こまっている。
「最悪……最低よ、私……。あんな嫌がるノアに……口移しでハーブティーを飲ませようとしたり……夜中にベッドに押し掛けたり……。ただの痴女じゃない……っ!」
小さな肩が激しく震えている。魔族としての誇りを大きく傷つけてしまったことに対する怒りと後悔……そんな感情に彼女も支配されつつあった。
三者三様の、激しい羞恥、混乱、そして罪悪感。呪いが解けたことによって得られたのは、爽快な救済などではなく、自分たちがノアに対して行ってきた「狂気的な加害」に対する耐えがたいほどの自己嫌悪だった。
三人とも、ノアの顔を見ることすらできない。そんな彼女らを心配したノアが一歩近寄ろうとすると、ルチアたちは悲鳴のような息を漏らし、怯えたようにさらに距離を取る。
「来ないでください……! ノア様……私のような恐ろしい狂人に、近寄ってはダメですわ……!」
「そうだ……私は騎士などではない。お前を脅かす、ただの害悪だ……触れる資格などない……!」
「何が魔王の娘……恐怖の権化よ……!私はただの痴女……貴方を誑かすただのゴミ屑よ……!」
そんな彼女たちを、ノアは、呆然と見つめていた。自分を閉じ込め、手足を奪おうとしていた恐ろしい過保護者たち。それが、ただの「自分たちの過ちに打ちのめされ、泣きじゃくる傷ついた少女たち」へと変貌してしまったことに、驚きを隠せなかった。
「……ふふ……あはは……」
壁際で血を拭いながら、シャルロットが冷ややかな、けれどどこか寂しげな笑みを漏らした。
「これで……満足かしら、ノア? これが、あなたを縛り付けていた『過保護な愛』の真実よ……」
シャルロットはそう言うと、傷を庇いながら闇へと消えていった。
解呪は完了した……「呪いによる鳥籠」は破られたのだ。
だが、そこに残されたのは、冷めきった空気と、深すぎる溝だけ……。
困惑がノアを支配する。
——自分が望んでいたものはこれだったのか?本当は……
この夜を境に、ノアとルチアたちの関係性は、完全に不可逆な【転換点】を迎えたのでだった。




