第22話 人ごみの影、届かない手
大収穫祭は大きな賑わいの渦にあった。大通りを行き交う人の量も普段とは比べ物にならないほど。もちろん、それには理由があって、もうすぐパレードがこの大通りを横切る予定なのだ。それを一目見ようと多くの人がこの大通りに集結しつつあった。
「ノア様、もっと近くに寄ってくださいませ……! 人ごみに押されて流されてしまいますわ!」
ルチアはノアの腕を両胸で押し潰すように抱きかかえ、切迫した声を張り上げた。右側からはクララがノアの上着の裾を指が白くなるほどの力で握り締め、後ろからはヴァネッサがノアの首元に両腕を回してぴったりと背中に密着している——息が詰まるほどの過保護と過密着。
だが、ノアは先ほど古代魔導具を無意識に修理してしまった出来事の余韻から抜け出せず、心ここにあらずの状態で歩いていた。
(俺の頭の中にあったあの『知識』は一体……。俺は本当に……ただの人間なのか……?)
再び、胸の奥が冷たくドクンと脈打つ。自分の中にある自分が認識していない記憶と知識。それを認識してしまえば、こんなにも気持ちが悪いものはない。
(やっぱり、家に帰ろう……)
だが、その考えは人の波に打ち砕かれた。
「きゃっ!?」
「うおっ!?」
通りを練り歩く巨大なパレードの山車と、それに群がる観客の大波が、唐突に四人の間へと割り込んできた。押し寄せる人の波。群衆の力は凄まじく、力づくで四人を引き裂いていく。
「ノア……っ!? 手を離すな!!」
「いやだ……離したくない……っ! ノア、どこなの!? ノア!!」
クララとヴァネッサの叫び声が、祭りの喧騒の中に呑まれて遠のいていく。
そして——
「ノア様ーーーーっ!?」
悲鳴を上げたルチアの指先から、ノアの袖がするりと抜け落ちた。
「っ……ルチア!!」
ノアが振り返り、手を伸ばした時には、すでに人の波が二人の間に分厚い壁を作り上げていた。ノアの身体は流される群衆の勢いに押し流され、あっという間に人ごみの奥へと消えていってしまう。
わずか一瞬。たった一瞬、手が離れただけだった。
「……ノア様……? ノア様……ッ!?」
取り残されたルチアの視界から、ノアの姿が完全に消えた。その瞬間、ルチアの脳裏に凄惨な『過去の記憶』が鮮烈なフラッシュバックとなって襲いかかった。
——狂ったように吹き荒れる漆黒の衝撃波。
崩れ落ちる王都の建物、炎と絶望に包まれる世界。そして……その破滅の中心で、全身を血に染め、崩壊する光に呑まれながら、寂しそうに微笑んでいたノアの姿。
『ごめんな……みんな……』
最後に遺された、あの儚い声。繋ぎ止めることができず、自分の目の前で消え去ってしまったあの最悪の最期。
「いや……嫌……いやぁぁぁぁっ……!!」
ルチアは頭を抱え、雑踏の真ん中で崩れ落ちそうになった。胸が引き裂かれるように激しく痛み、呼吸が浅く乱れる。視界が涙でぐしゃぐしゃに歪んでいく。
(嫌です……! もうあんな思いをするくらいなら……死んだ方がマシですわ……!)
あの時と同じだ。自分たちの手から離れたノアは、またどこかで一人で傷つき、恐怖に怯え、最後には世界ごと消えてしまうのではないか。そんな狂おしいほどのトラウマが、ルチアの心を痛めつける。
「ルチア! ノアは見つかったか!?」
人ごみをかき分けて駆けつけてきたクララとヴァネッサも、血の気の引いた顔をしていた。いつも冷静なクララの足は震えており、ヴァネッサの瞳には恐怖の涙が浮かんでいる。
「……いません……ノア様が……どこにも……っ!」
「探すぞ! 何としてでも……世界を滅ぼしてでも、彼を見つけ出すんだ!!」
立ち上がったルチアは、溢れ出る涙を乱暴に拭うと、激しく脈打つ胸の前で両手を固く、狂おしいほどの力で握りしめた。
「二度と……二度とあの手を離しませんわ……!」
聖女の祈りは、凄惨なトラウマと激しい執着に塗れながら、消えたノアを追って夕方の喧騒へと駆け出していった。
◆
一方、押し寄せる群衆の波に揉まれ、三人とは完全に引き裂かれてしまったノアは、流されるまま賑やかな大通りを外れ、薄暗く寂れた路地裏へと迷い込んでいた。街の喧騒や音楽が、まるで遠い異世界の出来事のように遠のいていく。
「はぁ、はぁ……っ。みんな、どこだ……?」
ノアは荒い息を吐きながら振り返ったが、そこには湿った石畳と古びたレンガの壁が続いているだけだった。
一人きりになった途端、全身を包み込んだのは……皮肉にも、ずっと奪われ続けていた「自由」と、それを遥かに上回る圧倒的な「孤独と恐怖」。
(……俺は、ずっと息が詰まりそうだった。あの屋敷でも、今日の祭りでも……片刻も手を放してくれず、四六時中監視されて……)
三人からの過剰なまでの拘束と過保護。その苦しさに耐えかねていたはずなのに、いざ一人の空間に取り残されると、胸の奥が冷たく冷え切っていく。
(でも……なんであそこまで必死なんだ? なんで俺が離れるだけで、みんなあんなに狂いそうな顔をする……?)
そして、思考は先ほどの「露店での出来事」へと引き戻される。自分の意志とは無関係に動き、解読不能な古代魔導具を一瞬で修理してみせた自分の指先。自分の頭の中に、最初から存在していたかのように溢れ出してきた「禁忌の知識」。
ドクン、と胸の奥が脈打つ。
(俺は……一体何なんだ……? ただの一般人のはずの俺が、なぜあんな知識を知っている……? なぜ、俺の胸の中にこんな不気味な力が眠っている……?)
やはり、自分はみんなが恐れる通りの「恐ろしい怪物」なのではないか。ルチアたちが自分を閉じ込め、縛り付けていたのは……自分という怪物が世界を破滅させないための「封印」だったのではないか。
湧き上がる底知れない自己嫌悪と不気味な違和感に、ノアの膝がガクガクと震えた。自分自身の身体が、心臓が、思考すらも、自分のものではないような強い異物感に苛まれた。
ふと足を止め、頭上を見上げると、路地裏の隙間から夜空へと高く聳え立つ古代の「時計塔」が、影のように自分を見下ろしている。
カチ、カチ、カチ……。
巨大な長針が刻む重厚な駆動音が、静まり返った路地裏に虚しく響き渡る。まるで、ノアの運命のカウントダウンが進んでいるかのように。
「……俺は……」
時計塔の真下、冷たい影の中にぽつりと佇むノア。誰もいない暗闇の中で、ノアは己の胸を強く抱きしめ、自分という存在の正体に怯えるように小さく震えていた。




