第17話 『閉じられゆく世界』
温泉街での襲撃劇から一夜が明け、屋敷へと連れ戻されたノアの心は、冷たく暗い底へと沈み切っていた。
自室のベッドで横たわり、天井を凝視する。目を閉じれば、あの一瞬の光景が脳裏に鮮明に蘇ってくる。自分の手のひらから放たれた漆黒の衝撃波が、刺客を空間ごと削り取り、分子レベルで消し去った、あの絶対的な破壊の光芒が。
(俺は……人を殺したんだ。)
自分が奪ってしまった命の重みと、手のひらに残る嫌な痺れ。そして、何より恐ろしいのは、自分の中に眠るその膨大な『力』が、自分の意思とは無関係に溢れ出したという事実だった。
——もし、あの衝撃波が少しでも逸れていたら。
——もし、隣にいたルチアやクララ、ヴァネッサに当たっていたら。
「っ……あ、あぁ……っ……!」
そんな考えが過った瞬間、ノアは胸を掻きむしり、激しい吐き気と恐怖に身体を丸め込んだ。
自分はごく普通の人間などではなかった。この皮膚のすぐ下に、いつ世界を滅ぼすとも知れない極悪な『怪物』を宿した化け物だった。そう考えると、震えが止まらない。自分は普通の暮らしなどしてはいけない。人知れず生き、死んでいくべきなんだ……そんな自己否定の念が胸を押し潰そうとする。
(いっそのこと……どこかで一人で……)
流れる涙を拭うことなく、ベッドの上でノアはそんなことを考えた。
だが、そんなノアの自責と恐怖を打ち消すように、部屋の扉が静かに開いた。
「ノア様……まだお胸がお苦しいのですか……?」
入ってきたのはルチアだった。薄桃色の可憐なネグリジェに身を包んだ彼女は、慈愛に満ちた笑みを浮かべ、ベッドの縁に腰掛けると、ノアの頭を愛おしそうに抱き寄せようと手を伸ばしてきた。
「いいのですのよ、ノア様。あのような害虫たち、ノア様の手で消し去って正解でしたわ。あなたが心を痛める必要なんて、どこにもありませんの。……さあ、私に甘えて忘れてしまいなさい♡」
聖女の微笑みと、どこまでも優しい声。
だが、その言葉を聞いた瞬間、ノアの胸の奥で何かがぶちりと弾けた。
(心を痛める必要がない……? 忘れろ……?)
自分が人を殺めたことへの恐怖。己の持つ狂気的な破壊力への戦慄。それらをすべて「なかったこと」にし、自分を都合よく甘やかすことで思考を停止させようとする彼女の言葉に、激しい不安と、抑えきれない怒りが込み上げた。
「ふざけるな!俺を……ただの操り人形みたいに……!」
感情を暴走させたノアは、伸ばされたルチアの手を強く振り払い、そのまま彼女の華奢な肩を掴んでベッドの上へと押し倒す。ドサリと重い音が響き、ルチアの身体がシーツに沈む。ノアは彼女の上から覆いかぶさり、赤くなった瞳でルチアを睨みつけた。荒い息を吐きながら、掴んだ肩に力がこもる。
「俺は人を殺したんだぞ!? 自分が怪物だったって気づいて……どれだけ恐ろしいか、君にはわからないさ!忘れろだなんて……俺をそうやって甘やかして、閉じ込めて、満足なのかよ!?」
押し倒されたルチアは、一瞬だけ目を見開いた。
だが、彼女の顔に浮かんだのは恐怖や混乱ではない。
「……あぁ……ノア様……♡」
ルチアの頬がぽっと赤く染まり、瞳には熱っぽい、うっとりとした狂気が宿る。彼女は抵抗するどころか、そっと両腕をノアの首元に回し、押し倒してきたノアの身体を優しく受け入れるように引き寄せてきた。
「いいですわ……もっと私に怒りをぶつけてください……。あなたが私を傷つけ、乱暴になさるというのなら……私は喜んで、ノア様のすべてを受け止めます……♡」
「っ……な、何を……!?」
「あなたが怪物でも、世界を滅ぼす存在でも関係ありません。……私が、あなたの狂気ごと抱きしめて差し上げますから……♡」
自分の怒りや不安すらも、すべて「甘美な執着」へと変換して飲み込もうとするルチアの歪んだ愛。ノアは背筋が凍りつくような恐ろしさを感じ、息を飲んだ。
その時——。
「そこまでだ、ルチア!」
部屋の扉が勢いよく開かれ、クララが踏み込んできた。寝間着姿のクララは、ベッドの上でルチアを押し倒しているノアと、それを嬉々として受け入れているルチアの姿を目にし、眉をひそめて険しい表情を浮かべる。
「クララ……野暮な乱入はお控えになってくださる? 今、ノア様と大切な『お話し』をしていましたのよ……♡」
「ふざけるな。ノアの心が混乱している隙につけ込み、自分だけのものにしようとするなど……それが聖女のすることか!」
クララは素早い足取りでベッドへ近づくと、ノアの脇に手を差し挟み、優しく、けれど拒絶を許さない力強さでルチアから引き離した。
「ノア、大丈夫か。……私に捕まっていれば安心だ。」
「クララ……俺は……」
クララはノアの肩を抱き寄せ、自らの胸元へと引き寄せる。そのまま、冷ややかな視線をルチアへと向けた。
「ノアが恐れているのは、己の力そのものだ。甘やかしで思考を麻痺させるのではなく、私達がその力ごと彼を囲い込み、絶対に暴走させないと安心させるべきだろう。」
「あら、私だってノア様を完全に囲い込むつもりですわよ? クララ様こそ、出しゃばらないでいただけますかしら。」
二人の視線が激しく交錯し、火花が散る。クララの抱擁の中で、ノアは冷や汗を流しながら深く絶望していた。押し倒して抗議しても、怒りをぶつけても、彼女たちには届かない。ルチアはノアの感情すら快楽と愛の糧にし、クララは力尽くでノアを自分の保護下に置こうとする。
(……ダメだ。何をしても……届かない)
ノアは、彼女たちの抱擁の中で冷や汗を流しながら、静かに悟る。彼女たちが自分に浴びせる過剰な甘やかし。服を脱ぎ捨てんばかりのお色気アタックや、過度な肌の密着。それは、ノアの傷ついた心を慰めるための「優しさ」などではない。
——ノアに思考をさせないため。
——自らの力や過去に疑問を持たせないため。
ノアの意識を快楽と安心の沼に漬け込み、二度と「外の世界」へ目を向けさせないための、甘い麻薬なのだ。
(彼女たちは……俺を『守って』いるんじゃない)
ノアの瞳から光が消えていく。
(俺という存在を……この怪物のような力を……『世界から隠している』んだ……)
自分が外に出れば、誰かを殺すかもしれない。世界を壊すかもしれない。だから、彼女たちはノアを愛という名の鳥籠に閉じ込め、二度と飛べないように羽をむしり取ろうとしている。
「ノア、心配いらない。お前の『力』も『体』も、すべて私が守り、抑え込んでやる。」
「いいえ、私がお風呂もお布団も、全てのお世話をして差し上げますわ♡」
重なり合う二人の甘く重い声。ノアは抗う気力すら奪われ、ただその甘美な檻の中で、深く息を殺すことしかできなかった。自分はもう、永遠にここから出られないのだと痛感しながら。
◆
再び、王都の喧騒を見下ろす、古びた時計塔の最上階。夜風に黒髪をなびかせ、一人の少女がたたずんでいる。
刺客組織「天秤の目」の頭領——シャルロットは、手に持つ水晶球へ視線を落とす。温泉街で採取した漆黒の残魔力を封印した水晶……漆黒に染まるそれを見つめ、シャルロットは冷ややかな、けれどどこか切ない瞳を細める。
「ついに、マスターキーの威力が漏れ出し始めたか……」
彼女の脳裏に浮かぶのは、かつての世界でノアが自分に遺した言葉。
『もし俺が狂ったり……あいつらに閉じ込められそうになったら、シャルロット、お前が俺を滅ぼしてくれ。』
シャルロットは水晶球をキュッと握り締めた。
「ルチアたち三人は、ノアを鳥籠に閉じ込め、都合の良い人形にして生き長らえさせようとしている……。だが、それはノアが望んだことじゃない。」
彼女の眼下に広がる街並みの先に、ノアが囚われている屋敷が見えた。
「待っていて、ノア。……あなたをその狂った鳥籠から引きずり出し、真の『自由』を与えてあげる。そのためなら……私はどんな悪にでもなって見せるわ。」
闇の中に、シャルロットの決意の眼光が怪しく輝いていた。




