第16話 離れないで。
「来るな! 来ないでくれ!!」
瓦礫と化した温泉旅館の庭園に、ノアの叫びが虚しくこだました。
たった数秒前、ノアの手のひらから放たれた漆黒の衝撃波は、迫り来る刺客を空間ごと削り取り、跡形もなく消滅させた。いまだ手のひらは熱く痺れ、胸の奥では凶悪な何かがドクドクと恐ろしい鼓動を打っている。自分が一瞬で命を、空間を消し去る怪物であるという確信。彼女たちが抱えていたトラウマの原因が、他ならぬ自分自身であったという残酷な事実。
(俺は……化け物だ。俺がここにいたら、いつか三人を……この世界を……!)
ノアは自らの両手で頭を抱え、後退りした。自分という存在そのものが恐怖であり、悪夢だった。もう彼女たちの顔を見ることすらできない。一刻も早くこの場から逃げ出し、どこか遠く、誰の目も届かない場所へ消え去らなければならない——そう思い、全てに背を向けようとした。
だが……
「どこへ行こうというのですか、ノア様ーーっ!?」
背後から、悲鳴のような叫びとともに、強い力で身体を抱きすくめられた。
ルチアだった。
彼女は泥と瓦礫で自分が汚れることすら厭わず、ノアの背中にしがみつき、押し潰さんばかりの力で抱きしめていた。
「離せ……離してくれルチア! 俺は危険なんだ! さっきの力を見たろ!? 次は君たちを吹き飛ばしてしまうかもしれないんだぞ!?」
「離しません! 絶対に、二度と離しませんわ!!」
ルチアの叫びには、なりふり構わない狂気と、胸を抉られるような悲痛さが混ざり合っていた。彼女の涙が、ノアの背中を温かく、けれど重く濡らしていく。
「お願いです……どこにも行かないで……私達を置いていかないでください……っ!」
「そうだ、ノア!!どこにも行くな!!」
今度は、正面からクララが両腕を回してきた。いつも凛として揺るぎないはずの彼女の身体が、生まれたての小動物のように激しく震えている。彼女はノアの胸に額を押し当て、まるでその鼓動を力任せに繋ぎ止めようとするかのように、力いっぱいに背中へ手を回した。
「分かっている……お前が恐れているのは分かっている! だが、一人でどこかへ行こうなどと思うな! 私の目の前で……消えようとするな……っ!」
さらに横から、ヴァネッサがノアの首元に両腕を回し、すがるように顔を寄せてきた。
「バカ……バカノア……っ! 逃げられると思っているの……? どこへ行っても追いかけるわよ……! あなたが自分を怪物だと思おうが、世界を滅ぼそうが……私達を置いて逝くことなんて、絶対に許さないんだから……!」
三人がノアを取り囲むように、押し潰すような強さで密着し、号泣しながら抱きしめていた。
「ルチア……クララ……ヴァネッサ……」
ノアの身体は完全に動かなくなった。彼女たちの体温、肌の柔らかさ、溢れ出る涙の熱さ。そして、肌を通して痛いほど伝わってくる、「ノアを失うことへの底なしの恐怖」。
ノアは気づいてしまった。
彼女たちは、自分の内なる破壊力を恐れて逃げ出そうとしているのではない。「ノアが自分たちの手から離れて消えてしまうこと」を、何よりも恐れているのだと。
「……怖がる必要なんて何もありませんのよ、ノア様。」
ルチアが涙に濡れた顔を上げ、ノアの頬を両手で優しく包み込んだ。その瞳は、涙で潤みながらも、狂おしいほどの愛と執着に満ちあふれていた。
「ノア様がご自身の力に怯える必要はありませんわ。……だって、私達がいますもの。」
「そうだぞ……ノア……」
クララが、涙を拭いもせずにノアの目を真っ直ぐに見つめ返す。その声には、逃れられない約束を刻み込むような重圧が宿っていた。
「お前が暴走しそうになれば、私達が全力で抑え込む。お前の手が汚れそうになれば、私達がその手を引き戻す。お前がどれほどの破壊を秘めていようと関係ない。私達が、お前を絶対に抑え込んでみせる!」
「ええ……♡」
ヴァネッサが涙の浮かぶ瞳で小悪魔のように微笑み、ノアの唇すれすれのところで甘い吐息を漏らした。
「だから……安心して私達の腕の中で殺されかけて、甘やかされていればいいのよ。あなたはどこにも行かなくていい……私達の籠の中で、永遠に眠っていればいいんだから♡」
「っ……」
ノアは、自分の呼吸が止まりそうになるのを必死に堪えた。彼女たちの言葉は、一見すればノアを救うための温かい救済に見える……だが、おそらくその本質は違う。それに気づいてしまったのだ。
彼女たちには、この世界の平和など関係ない。ただ自分がそばにいればいい……ノアという存在の自由と意思を奪い、自分たちの手の中に永久に封印しておくという、あまりにも優しく、抗いようのない絶対的な監禁。それが三人の願いなのだ。
「大丈夫……大丈夫ですわ、ノア様……♡」
ルチアがノアの頭を優しく胸に抱き寄せ、子守唄を歌うかのように頭を撫で続ける。
「私達が、あなたを守ります……私達が、あなたを閉じ込めて差し上げます……」
彼女たちの抱擁は、あまりにも温かく、あまりにも重かった。己の中に眠る「怪物」への恐怖と、それを包み込んで甘やかに殺そうとしてくる三人の愛。
ノアは彼女たちの胸の中で固まったまま、二度と抜け出せない深遠な鳥籠の扉が、カチャンと音を立てて完全に閉じられたことを悟っていた。




