第14話 鏡の中の怪物
竹林での密談を聞いて以来、ノアの世界は灰白色に塗りつぶされていた。
朝、離れの広間に集まったヒロインたち。
ルチアはいつも通りの聖女らしい微笑みで「ノア様、お夕飯のお味はいかがでしたか♡」と優しく声をかけてくれ、クララは甲斐甲斐しくノアの魚の骨を取り除き、ヴァネッサは「あ〜ん」と甘味を口に運ぼうとしてくる。昨日までなら「やめろよ!」と赤面して逃げ回っていたはずのハレンチなシチュエーション。
しかし、今のノアには、そのひとつひとつの仕草が「猛獣を宥めるための甘いエサ」にしか見えなかった。
「……あ、ああ。美味しいよ、ありがとう。」
弱々しく答えるノアの顔色は、幽鬼のように蒼白だ。
「ノア……? 顔色が悪いぞ。どこか体調でも悪いのか?」
クララが心配そうに身を乗り出し、ノアのおでこにそっと自分の額を合わせて体温を測ってくる。引き締まった体幹、凛とした剣士の香り、そしてノアを心底案じる温かい眼差し。
だが、その至近距離の瞳の奥に、ノアは見てしまう。昨夜彼女が語っていた「暴走させないために抑え込む」という、歪んだ強迫観念の光を。
(触れるな……俺に優しくするな……)
ノアの胸の奥で、悲鳴のような拒絶反応が渦巻いていく。それは大きなうねりとなって、ノアの意識を支配していく。
(俺は……お前たちが守るべき大切な人なんかじゃない。いつ弾けるかもわからない爆弾なんだろ……? だから、そうやって甘やかすフリをして、俺の牙を抜こうとしてるんだろ……!?)
「ノア様? お手手が震えていらっしゃいますわ。」
ルチアが心配そうにノアの手を両手で包み込んできた。柔らかく、温かい聖女の手。
だが、その温もりがノアには、自分を縛り上げる不可視の鎖のように感じられて仕方がない。
「……ごめん。ちょっと気分が悪いから、部屋で休む……」
ノアは彼女たちの手を振り払い、逃げるように自室へと戻った。
部屋に入り、ピシャリと障子を閉める。鏡の前に立ち、そこに映る自分の姿を凝視した。黒髪に、取り柄のない華奢な体躯。どこからどう見ても、街にいるごく普通の一般人だ。
だが、この皮膚のすぐ下には、かつて世界を滅ぼし、ルチアたちに地獄のようなトラウマを植え付けた「化け物」が眠っているらしい。
(俺のせいだったんだ……。彼女たちが狂ってしまったのも、俺を異常なまでに閉じ込めようとするのも……全部、俺が『怪物』だからだ……)
ドクン、と胸の奥が不気味に跳ねた気がした。ノアは思わず自分の胸を強く掻きむしる。自由を奪われ、鳥籠に閉じ込められる恐怖。
だが、それ以上に恐ろしいのは、自分が自由になることで、再び大切な彼女たちを、そして世界を傷つけてしまうかもしれないという恐怖だった。
(俺は……外に出てはいけない人間なのか……? このまま、彼女たちの望む通り、一生甘やかされたフリをして、死ぬまで閉じ込められているべきなのか……?)
部屋の外から、「ノア様、お薬をお持ちしましたわ」というルチアの優しい声が聞こえる。その甘美な声が、ノアには自分を永遠に沈める底なしの沼の泡音のように聞こえてならない。
「薬は……いらない……」
「ですが……お身体を崩してしまいます。朝食もあまり食べられておりませんでしたし、せめて果物とお薬は……」
「いらないっていてるだろ!!!」
苛立ちが溢れ出した。
「もううんざりなんだ……!君たちのそういうところが……俺を何かと勘違いしてさ。いったい俺が何したっていうんだ!」
「……」
部屋の外にいるルチアは黙ったままだ。それがノアの怒りに拍車をかける。
「だいたい、おかしいだろ!?聖女と騎士団長と元魔王軍幹部が俺に付きっきりってのは!!何をしたのかも教えてくれないで……ただただ監視されるような毎日を送る……!!俺は何かの大罪人か!?世界でも滅ぼそうとしたのか……!?」
「……ッ」
ルチアの顔は見えない。
だが、何かを言おうとしてやめた雰囲気だけは伝わってきた。たぶん反応したのは「世界を滅ぼす」というフレーズだろう。
「やっぱり、何も教えてくれないんだな……」
黙秘を続けるルチアに対して、ノアは大きなため息をつく。
「もう……一人にしてくれ……」
その言葉を聞いた後、ドアの先に立っていたルチアが静かに去っていく気配を感じた。ノアはその気配を感じながら、一人俯いていた。




