第13話 月明かりの密談
温泉街の狂騒的な夜が静まり返り、草木も眠る丑三つ時。
昼間の露天風呂での疲労が抜けていない。あの時のヴァネッサの言葉が頭から離れず、ノアは浅い眠りの中で何度も寝返りを打っていた。
——「私を置いて勝手に死なせないんだから……」
そう呟いた彼女の表情が、目に焼きついてしまった。緋色の瞳に浮かんだ涙。微かに震える細い肩。彼女の様子ひとつひとつが、胸をギュッと押し付ける。
重苦しい胸の動悸に耐えかね、ノアはそっと布団を抜け出した。異様に覚えた喉の乾きに引かれ、テーブルに置いていたコップ1杯の水を口に含んだのち、少し夜風に当たろうと帳場のある母屋へと向かう。
その途中で、ふと冷たい夜風が廊下を吹き抜ける。
離れの裏手に続く、人目のつかない古い竹林の小道。
その闇の奥から、何かが聞こえてくる。疑問に思い、耳を澄ませてみると、押し殺したような、けれど尋常ではない張りつめた声が聞こえてきた。
「……だから言ったのだ、ヴァネッサ。過剰に刺激するなと。ノアの意識が過去の断片に触れかかっている。」
聞き覚えのある、凛とした声……クララだ。
ノアは思わず竹林の影にその身を隠した。ゆっくりと、息を殺して覗き込むと、月明かりの下でクララとヴァネッサが険しい表情で向き合っている。
「刺激したくてしたわけじゃないわよ。」
ヴァネッサはいつもの妖艶な笑みを完全に消し去り、自らの腕を抱きしめるように身を小さくしていた。その指先は、夜風の寒さゆえではなく、何かに対する恐怖で微かに震えている。
「ノアの胸の鼓動を聞いていたら……あの日の血の匂いと、冷たくなっていく彼の身体がフラッシュバックしたの。……私、もう嫌なのよ。あの『惨劇』を……この世界が崩壊するあの地獄を、二度と起こさせたくないの……!」
(……惨劇……? 世界の崩壊……?)
ノアの心臓がドクンッと跳ね上がる。彼女たちはいったい何のことを話しているのだろうか……。
クララは静かに刀の柄に手を置き、低く重い声でヴァネッサへ応じる。
「私だって同じだ。……あの日、王都の空が黒く割れ、我々の目の前でノアの『魔力』が暴走した時のことを、一日たりとも忘れたことはない。……ノアの命と引き換えに世界が灰となった、あの時の記憶を……」
「そうね……ノアの胸に眠る『マスターキー』がこのまま覚醒すれば、必ずまた同じことが起きる。彼自身の魂すら焼き尽くす、あの絶対的な破壊が……」
「ああ。だからこそ……ノアを『抑え込む』しかないのだ。」
クララの瞳には、冷徹で哀しい決意が宿っている。
「ノアに真実を知らせてはならない。辛いことだが、ノアの自由を奪い、私達の監視下に置き、あの『力』を二度と使わせないこと。……それが、ノアの命を守り、この世界を存続させる唯一の道だ。」
「ええ……。彼にはかわいそうだけど、二度目のこの世界では、永遠に私達の可愛いお人形のままでいてもらうわ。……ノアを失うくらいなら、彼に恨まれた方が千倍マシよ。」
二人の会話が、夜の静寂に溶けていく。
やがて、彼女たちが気配を消して立ち去った後も、ノアは竹林の陰で立ち尽くしていた。指先から血の気が引いていくのかわかる。足の震えが止まらない。
(俺の……魔力が暴走した……? 俺の命と引き換えに、世界が灰になった……?)
彼女たちが語っていたのは、敵の脅威でも、刺客の襲撃でもなかった。自分が世界を滅ぼす可能性があるそんざいであるという絶望的な事実。
「俺が……世界を……惨劇を……?」
頭の中で、これまで不自然に繋がらなかったピースが一気に噛み合っていく。
——なぜ、彼女たちが自分の外出を極端に嫌がるのか。
——なぜ、身体の無事を確かめるように執着するのか。
——なぜ、自分を屋敷に閉じ込めようとするのか。
それは、敵から守るためなどではなかった。危険人物である俺を、世界から『封印』するためだったんだ。
だが、同時に浮かぶのは大きな疑問。自分には魔力など1ミリも存在しない。それは成人の義の時に教会で確認済みだ。だからこそ、冒険者という道(夢)は諦めて、自分の店を開くことにした。一般人として平和に穏やかに暮らしていこうと決めたのだ。
なのに、クララたちは自分に魔力があるような話を……。
(いったい……俺は何なんだ……)
背筋を駆け上がる冷たい恐怖と、己の存在そのものに対する強烈な自己嫌悪。闇の中にぽつんと取り残されたノアは、ただ己の手を見つめ、声もなく打ち震えることしかできなかった。




